創造の六日間

創世記1:1-5

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1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
1:5 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 世界には「神」と呼ばれるものが限りなくあります。それらは「神」とは呼ばれても、ほんとうの神ではありません。それで、私たちは、まことの神を「聖書の神」と呼んで区別します。聖書は「神の言葉」、神が私たちに語りかけてくださっている言葉、また、神について語っている言葉です。つまり、聖書は、神が、ご自分でご自分をことを語っておられるもの、神の「自己紹介」の書です。まことの神を知るのに、聖書以上に確かなものはどこにもありません。

 一、永遠の神

 では、神は、聖書で、ご自分をどのようなお方であると言っておられるのでしょうか。神は、まず、ご自分を「永遠の神」である言っておられます。

 「初めに、神が天と地を創造した。」これは、神が世界を造られたお方、「創造者」であることを教えていますが、同時に、神が世界が造られる以前の「初め」から、神が存在しておられたことを教えています。

 この世界がどのように形造られているか、そこにどのような法則があり、生命体はどのように活動しているのか、それは、科学者たちが研究し、数式や化学式で表そうとしていることです。しかし、古代の人々ばかりでなく、現代の私たちも、そうした数式で世界の創造を示されたとしても、それが何を意味するのか、自分にとってどんな意義があるのかを理解することができません。それで聖書は、誰もが理解でき、人の心に語りかける言葉で、私たちが今、目にしているすべてのものを創造されたのは神であると語っているのです。

 聖書の創造の記述は世界の各地にある「創造神話」のひとつであると、多くの人は考えています。しかし、聖書の記述は、そうした神話とは根本的に違っています。どの神話でも、世界はじめから存在しており、神々といえども世界の一部です。それらの神話は、世界の「創造」というよりは、世界がどのように形造られたかを語るもので、「創造神話」というよりは「形成神話」といったほうがよいものです。たとえば、バビロニアの神話では、神々の間で争いが起こり、神々は、マルドゥークという戦いの神に最高神の地位を与えた。マルドゥークは敵対する海の女神ティアマトに戦いを挑んで、彼女を滅ぼし、その死体を二つに裂いて、一つを「空」にし、もう一つを「陸」にした。また、ティアマトの部下の血から人類を生み出して神々のしもべにしたことが語られています。聖書とは全く違う話で、神々は生まれたり、死んだりするもので永遠の神ではないのです。永遠の神と神による創造を教えるものは聖書の他ありません。

 聖書は「初めに神…」と言って、神は、すべてのもの、時間や空間が存在する以前から存在しておられる「永遠の神」であることを告げています。創世記に「第1日」から「第7日」の「日」が数えられていますが、この「日」、つまり時間もまた神によって造られたのです。世界は時間と空間で成り立ち、私たちはその中でしか生きられませんが、時間と空間を造られた神は時間や空間を超えて、物事をなさることができます。そのことはイエスがなさった奇蹟に見ることができます。

 この世界に永遠のものはなく、人間もまた、永遠ではないのに、人間は永遠を感じ、それにあこがれます。それは神が「人の心に永遠への思いを与えられ」たからです(伝道者の書3:11)。永遠なものなど何も体験していないのに、人が永遠を思うことができるというのは、永遠なる神がおられることの証拠のひとつなのです。

 永遠の神はご自分を「わたしは有って有る者」と呼ばれました。それが「主」(アドナイ・ヤーウェ)という神のお名前となりました。神だけが「有って有る」お方です。世界も、私たち人間も、「有って無きがごとき」ものです。世界は神によって造られ、支えられています。私たちひとりひとりも自分の力で生きているのではなく、神に生かされているのです。神がその支えの手、守りの手を引っ込められたら、世界も、私たちも、たちまち消え去ってしまいます。

 ですから聖書は、移り変わるものではなく、いつまでも変わらない永遠の神を見上げ、この神に信頼して生きるようにと教えるのです。「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。」(詩篇90:2)「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」(イザヤ40:28)

 ところが、私たちは、神を忘れて、頼りにならない自分に頼ったり、人に頼ったり、また、まわりの状況に頼ったりして、ものごとがうまくいかなくなり、失望を繰り返しています。この世のものだけでなく、それらすべてを創造された神を見上げましょう。あらゆるものの先におられる永遠の神の御手に信頼するとき、私たちは失望や落胆から立ち上がることができます。新聖歌315「主の御手に頼る日は」という賛美に「頼れ、頼れ、とこしえの御手に。頼れ、頼れ、さらば恐れあらじ」と歌われている通りです。

 二、全知全能の神

 さて、創世記では、世界の創造が6日の枠組みの中で描かれています。「神が6日で世界を創造された」と聞くと、多くの人は、「6日で世界ができるわけがない」と言うでしょう。しかし「ビッグバン説」では、宇宙は一瞬にしてできたことになっています。宇宙は138億年前、高密度な塊であった。それが爆発して現在の宇宙ができたというのです。神の創造を認めない人たちでさえ、宇宙が一瞬にして始まった可能性を信じているのなら、全能の神が一瞬にして世界を創造なさっても不思議ではないのです。しかし、神は、世界を一瞬ではなく6日かけてお造りになりました。この6日というのは、神が人に与えてくださった労働の期間で、7日のうち6日働き、1日は休むことを、神ご自身が守られたのです。一瞬にして世界を造ることができた神が、そのために6日もかけたということは、神がいかにこの世界を心を込めて造られたかを示しています。

 この創造の6日を見ていくと、第1日から第3日と第4日から第6日が対比していることが分かります。第1日には「光」が造られ、第4日目には、地球に光を届ける太陽、月、星が天に配置されたとあります。第2日には大空と海が分かれ、第5日目には海の生き物と空飛ぶ鳥が造られました。第3日目は陸と海とが分かれ、第6日には陸に住む生き物が造られ、最後に人間が造られました。最初の3日に骨組みが造られ、次の3日にそれを満たすものが造られています。

 ちょうど家を建てるときに、最初にフロアー・プランが描かれ、次に設計図が引かれ、それから骨組みが造られて、それぞれの部屋が区切られていくのに似ています。それぞれの部屋の区分ができてから、リビング、キッチン、またベッドルームと、それぞれの部屋がそれにふさわしく作られていき、冷暖房などの設備が取り付けられ、家具が運び込まれます。すべてができあがってから人が住んで、はじめて家が家となります。神が世界を造られたときも、同じで、神はこの世界をその知恵をもって設計し、それに従って、順序正しく造っていかれました。進化論者が言うように、世界が偶然と偶然とが積み重なってできたものではないのです。

 ある天文学者が太陽系の模型を作りました。太陽が中心にあって、水星、金星、地球、火星、木星などの順に並んで、太陽のまわりを回るようにできていました。そこにこの学者の友人がやってきて、「すごい模型じゃないか、君が作ったのかい」と訊きました。この友人は神の創造を信じようとしない人だったので、この学者はわざと「僕じゃないよ、偶然できたんだ」と答えました。すると友人はこう言いました。「ばかなことを言うんじゃない、こんな精巧なものが偶然できるわけがないじゃないか。それに、君のように天体の知識がなければ、こんなものは作れるわけがない。」それに対して学者はこう言いました。「君は、この太陽系の模型が、偶然ではなく、知性によって作られたと認めるんだね。それなら、この模型よりももっと精巧な本物の太陽系が、神の知恵によって造られたことをどうして認めないのかね。」

 その通りです。科学者たちは世界とそこにある現象を調べるのに知性を高度に働かせ、そこから一定の法則を見出し、それを利用しようとします。もし世界が偶然の積み重ねであるなら、そこに法則を見出すことはできません。世界が創造者の知恵を反映するものでなければ、科学者たちの知性は何も見つけることができず、どんな科学も成り立たないのです。しかし、実際は違います。この世界には神の設計の痕跡があります。神が造られた世界は、神の知恵、力、また、そのお心を示しています。聖書に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す」(詩篇19:1-2)とある通りです。

 三、愛と恵みの神

 神が世界を6日で造られたことは神の人に対する愛と恵みを示しています。創造の6日を実際に見た人は誰もいません。最初の人間アダムは、創造の6日目の最後に造られましたから、アダムが見たのはすべてが見事に造られた世界でした。ところが、私たちが創造の6日の記述を読んでみると、あたかもそこに自分がいて、神のみわざを見ているかのように感じます。聖書は創造をたんなる自然現象としてではなく、それを人間のためになされたこととして描いているのです。まるで、神が、人間に、「わたしが6日の間にしたすべてのことは、みな、あなたのためだったのだ」と言っておられるかのようです。実際、神は人が生きるのに必要なすべてを整えてから人を造っておられます。そして、神はアダムとエバを祝福して言われました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)神はこの世界をアダムとエバ、そして、ふたりから生まれる人類のために造ってくださったのです。

 創世記1:31に「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」とあるように神が造られた世界は、神がそれをごらんになって満足なさるほどにすばらしいものでした。しかし、人間は、神がお与えくださった良い物は欲しいが、神は要らないといって、神を斥けて生きるようになりました。しかし、神から離れては、たとえ全世界を手に入れても、そこにほんとうの幸せはありません。神はこの世界を人のために造られるほどに、人を愛してくださいました。その神の愛を知り、その恵みに感謝して生きるところにほんとうの喜び、満足があります。神の愛と恵みこそ何物にもまさって尊いものです。神の愛を知って、その恵みに感謝して生きるところに人生の幸いがあります。それでイエスは言われました。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)イエスが言われた「まことのいのち」とは、イエス・キリストを信じて与えられる永遠のいのちのことです。この永遠のいのちを受けてはじめて、私たちは神の愛と恵みに生きることができるようになるのです。

 神は世界の初めからおられた永遠の神です。神は世界を創造された知恵と力の神です。神は、私たち人間を愛してこの世界を造り、それを与えてくださった恵みの神です。いや、全世界よりもはるかに尊い、ご自分の御子キリストさえもお与えくださいました。神はそれほどに、私たち一人ひとりを愛しておられます。この神が、聖書によって私たちに語りかけ、呼びかけ、私たちを幸いな人生へ招いてくださっています。その招きに信仰と信頼をもってお応えしましょう。

 (祈り)

 すべてのものの造り主である神さま、今朝、あなたの創造のみわざを通して、あなたの愛と恵みを教えてくださり、ありがとうございました。あなたは世界を造られたとき「日」を造られました。私たちが地上に生み出されたとき、私たちの人生の日々も、あなたが造ってくださいました。あなたの愛と恵みを知って、あなたが私たちに与えてくださった日々を力強く歩むことができるよう、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/3/2021