夕があり、朝があった

創世記1:1-8

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1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空よ。水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は、大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
(新改訳第三版)

 一、聖書と創造

 私が卒業した神学校の校長は、現在、津村俊夫という聖書考古学者です。ウィキペディアによると津村先生は「ウガリット学・古代オリエント学の研究に関して世界的な日本の言語学者」と紹介されており、以前筑波大学で教えていましたが、聖書神学舎の教授となりました。津村先生は、お茶の水クリスチャンセンターにある「聖書考古学資料館」の理事長もしています。この「聖書考古学資料館」は月曜日と土曜日の午後、展示室が一般公開されていますので、日本に行ったときにはぜひ尋ねてみてください。

 津村先生はクリスチャンでしたから、聖書を信じてはいましたが、それが歴史的に正確なものかどうかについては疑問を持っていました。聖書は、古代の中東で書かれた書物で、同じ時代の同じ地域の文献を研究すれば、たくさんの共通点を見つけることができるだろうから、それによって聖書がもっと良く分かるだろうと、思っていたそうです。しかし、研究をすすめるにつれて分かったことは、それとは、全く逆で、聖書が同じ地域の同じ時代の書物とは全く異なっているということでした。私は、卒業生のための研修会で津村先生の講座をとりましたが、アッカド語に関する専門的なお話で、基礎知識のなかった私にはちんぷんかんぷんでした。しかし、津村先生が「『聖書は、古代の世界観にもとづいて書かれているから、そのように理解して読めば良いのだ。』と思っていたが、実際は、聖書は古代の世界観をはるかに超えたものであることを発見した。」と言われたのを、今でもよく覚えています。聖書が、たんに、古代の世界観で読むことのできない特別な書物であることは、津村先生ばかりでなく、多くの学者たちが、口をそろえて証言しています。

 たとえば、創世記が描いている世界のはじまりについて、一般に、それは、ものごとのはじまりについての由来ばなし、「創造神話」のひとつに過ぎないと思われてきました。

 日本の神話、古事記によると、天も地もまだしっかり固まりきらないとき、最初に日本人の先祖である天御中主(アメノミナカヌシ)が生まれ、その後、葦の芽がはえ出るように、次々に神々が生まれ、最後に伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)という男神と女神が生まれました。アメノミナカヌシはこのふたりを召して、「あの、ふわふわしている地を固めて、日本の国を作りあげよ」と命じ、りっぱな矛を一ふり授けました。イザナギ、イザナミのふたりは「天の浮橋」という、雲の中に浮かんでいる橋の上から、その矛で、下のとろとろしているところをかきまわして、さっと引きあげると、その矛の先についた潮水が、ぽたぽたと下へ落ち、それが固(かた)まって一つの小さな島になりました。二人はその島へおりて行き、そこに御殿を建てて住み、最初に淡路島、次に四国、続いて、隠岐の島、九州、壱岐島、対島、佐渡ヶ島を作り、最後に大きな本州をこしらえました。それで、日本は、大きな八つの島の国、「大八島国」(おおやしまぐに)と呼ばれるようになったというのです。

 バビロニアの神話では、マードクとティアムという二人の神が戦って、マードクがティアムを打ち負かし、その鼻としっぽを結んで地球にしたとあります。ティアムの皮膚をはがしてひろげたものが大空になりまた。マードクがつばをはくとそれが人間になり、人間がつばをはくと動物になったと教えています。エスキモーの間では、牛が氷に息をふきかけると氷が溶け、そこから人間が出てきたと言い伝えられています。また、ヒンズー教の教典によると、地球は平らで、四角い形をしており、蜂蜜の層、砂糖の層、バターの層でできていて、それを四頭の象が支えていて、その四頭の象は大きな亀の背中に乗っているのだそうです。亀が動くと地震が起こるのでしょう。

 こうした神話と、聖書の創造の記事と、いったいどこが似ているというのでしょうか。日本の神話では、どのようにして日本列島ができたかをのべていますが、世界のはじまりについては何も語っていません。世界ははじめからあり、その世界から神々が生まれたというのです。しかし、聖書は、「初めに、神が天と地を創造した。」と言って、はじめに神が存在され、世界が神によって創造されたと教えています。聖書以外のものは、「創造神話」とは呼ばれていても、実際は、「創造」(creation)ではなく、すでにあったものが形作られる「形成」(formation)の物語でしかありません。

 旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、ヘブル語で「つくる」というときは、普通「アサー」という言葉が使われます。ところが、「初めに、神が天と地を創造した。」と言うときには、「バラー」という特別な言葉が使われています。これには、「無から有を生み出す」という意味があります。日本語でも「つくる」というとき、「創造」の「造」という漢字を使う場合と、「工作」の「作」という漢字を使う場合があります。「しんにゅう」のついた「造る」は、ものごとを生み出すこと、造りだすことですが、「にんべん」の「作る」は、すでにあるものを組み立てることを意味します。英語でも "create" と "make" では、意味が違うのと同じです。今までなかったようなものができあがったとき、それを「創造的」(creative)だと言いますが、人間が何かを作るときは、いつでも、神がすでに創造されたものを利用しているだけで、それがどんなに「創造的」(creative)であったとしても、「創造」(creation)ではありません。聖書が、「ブレーシット・バラー・エロヒム・エト・ハシャマイム・ヴエト・ハアレーツ」(初めに、神が天と地を創造した。)と言うとき、それは、太陽や月、星、自然界のさまざまなものを神々としてあがめていた古代の世界観を突き崩しているのです。聖書は、古代人ばかりでなく、富や財産をあがめ、人間の能力に絶対の信頼を置いている現代の私たちの世界観にも挑戦しています。富も財産も、人間の能力も、すべて、神が人間に与えたものであり、人間のほんとうの幸福は、与え主である神に信頼するところにあるということを教えています。聖書は、古代の世界観を代弁するものではありません。また、現代の思想によって勝手に解釈できるものでもありません。聖書は永遠の神のことばです。

 二、創造の日

 聖書は「創造」を教えていることにおいて、他のどんな古代の書物とも異なっていますが、神がその創造をどんなに秩序正しくなされたかを述べていることにおいても類を見ません。日本の神話では、日本列島は矛のしずくから生まれ、バビロニアの神話では、人間は神が口から吐いたつばでできました。コーランでは、神が人間を粘土からつくり、それを窯にいれて焼いたところ、最初は焼きすぎて真っ黒になった。次に窯の温度を下げたところ、よく焼けなくて白いままのものができた。最後に、ちょうどよい色合いになって、人間を完成させたと言われています。それは中東の人々の肌の色と同じだったのでしょう。コーランでは、人間は神の試行錯誤の結果造られたことになっています。神話が教えることは、結局のところ、世界が、秩序と計画によってではなく、偶然に出来上がったと言うことなのです。しかし、聖書は、神が秩序と計画によってこの世界を造られたと教えています。

 それを示すのが、「創造の一週」です。創世記は、神がこの世界を、第一日から第六日まで、六日に分けて造られたと教えています。次回、さらに詳しくお話しますが、創造の一日、一日は世界の秩序をみごとに描いています。この「日」というのを長い「時代」と考える人もいますが、聖書は「夕があり、朝があった。」と言っていますので、それは文字通りの「一日」と考えるのが良いと思います。聖書は、聖書のことばで書かれています。「一日」を何億年もの長い期間と考えるのは、進化論の考え方で聖書を読んでいるのです。聖書を自分の理解だけで、現代の科学主義の考え方で読もうとすると、聖書が伝えようとしている大切なものを見落としてしまいます。神が、どんなふうに世界を造り、今、世界がどんな状態なのかを探るのが科学です。科学の進歩によって、目に見えるさまざまな現象の背後にある法則が明らかになってきました。そしてそれを利用することによって、私たちの生活はとても便利なものになりました。しかし、科学は、神がなさったことの跡をたどることができますが、神がなさったことの意図や目的、それを通して、神が私たちに伝えようとしている愛や恵みを明らかにすることはできません。

 こんなエピソードがあります。大学の実験室で、教授が学生たちに、ごく少量の液体を持ってきて、それが何であるかを言い当てるよう課題を出しました。学生たちは、その液体を分析しましたが、それが何であるかなかなか分かりませんでした。時間切れ間近になったとき、ひとりの学生が言いました。「教授、わかりました。これは『涙』です。」教授が、「そうだ。そのとおりだ。」と言うと、その学生は自分の分析と推測が正しかったことで、得意になり、みんなも彼をほめたたえ、教室は大騒ぎになりました。そのとき教授は「確かにこれは涙だ。だが、この涙が、どんな状況で流された涙か、君たちには分かるかい。母が子どものために流した涙なのか。夫に裏切られた妻が流した涙なのか。親を亡くした人の涙なのか。…科学は素晴らしい。科学はこの世界を理解する。しかし、科学は、人の心の深いところまでは理解できない。君たちはそれを決して忘れてはならない。」このエピソードは、聖書を科学のことばで理解しようとしてもできるものではない。聖書は聖書のことばで読まなければならないことを、私たちに気付かせてくれます。

 多くの人は「この世界がたった六日でできるわけはない。」と言うでしょう。しかし、神は全能のお方であって、一瞬にしてこの世界を生み出すことも、長い年月をかけて世界を形造ることも、なんら変わることなく、おできになるのです。しかし、神は、そのどちらでもなく、六日間で世界を造られ、七日目を休みの日とされました。なぜでしょうか。このことは、私たちに何を教えているのでしょうか。これは、神が、私たちの人生の日々に入ってきてくださったこと、人間の歴史の中に入ってきてくださったことを表わしています。神は、時間を超えた永遠のお方です。時間や空間に束縛されないお方です。一週間、一ヶ月、一年、一世紀などという時間の枠組みは人間のためのものです。ところが、神は、人間の生活のいとなみのサイクルである一週の枠組みの中に入ってこられ、その中で働かれたのです。このことは、神が、私たちの日常の生活の中で、今も、働き続けておられることを表わしています。しかも、神は一週七日のすべてを使いきるのでなく、そのうちの一日をとっておかれました。創世記は、神が、人とまじわりを持つための一日を確保するために、創造のわざを六日の間に終わらせようとされたかのように書かれています。あきらかに、創造の一週間のうちで、この七日目をいちばん大切な日としています。このことは、神がどんなにか私たちとのまじわりの日、礼拝の日を大切にしておられるかを教えているのです。

 一日は昼と夜とからできています。それで、聖書は、一日ごとに「夕があり、朝があった。」と言っています。しかし、この一日は、はじめからあったのではありません。最初、世界はやみに覆われていました。神が「光があれ。」と言われるまでは光がありませんでした。光ができてはじめて、昼と夜との区別があり、そして、一日がはじまったのです。この世界の歴史の第一日は、神が造られたのです。神なしには、人間の歴史もないのです。創世記の残りの部分は、人類の歴史、神に選ばれた民族の歴史ですが、神は、世界の歴史、人類の歴史の第一日目から、この世界とともに、人々とともに、とりわけ神を信じる者とともにいてくださったということを、聖書は語ろうとしているのです。詩篇139:16 に「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」ということばがあります。この詩篇の作者ダビデは、天地創造の神が、自分の人生のはじめから、最後までを見ていてくださるということに驚きの声をあげているのです。ダビデは詩篇31:15で「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」とも言っています。たとえこの宇宙の始まりが、気の遠くなるような昔のことであろうと、地球の歴史がそんなには古くないものであろうと、神は、宇宙の初めに、人間の創造の初めに、すでにおられ、その歴史を共に歩んでくださったのです。このお方が、私の人生においても、ともにおられる。聖書はそのことを私たちに教えようとしています。

 それぞれの日が「夕があり、朝があった。」と言われているのは、意味深いことです。七日目には「夕があり、朝があった。」ということばはありませんが、そのことは、歴史の最後の究極の安息の日をさししめしていると思われます。黙示録では、神ご自身が天国を照らすので、天国には夜はないと書かれています。世界は、今、深い闇に包まれているように見えます。しかし、世界は闇の中で終わるのではありません。やがて、光の中で完成するのです。「夕があり、朝があった。」とあるように、闇ではじまっても、光で終わるのです。神を信じる人の人生も、年をとって人生の夕暮れとなり、それで終わるのではありません。神の光の中を歩むものは、地上の歩みを終えるとき、光の中に入れられるのです。イエス・キリストは言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)イエス・キリストは、この世界の最初から最後まで共におられるだけでなく、私たちの人生のはじめから終わりまで共にいてくださるお方です。「初めであり、終わりである」イエス・キリストとともに人生を初め、人生を終わる人は幸いです。それがどんな人生を歩んだ人にもかならず人生の夕暮れがやってきます。この夕暮れと、死の闇を光に変えることができるのは、このお方だけです。このお方に信頼を置き、このお方に従って行こうではありませんか。

 (祈り)

 この世界を、そして、私たちを造られた神さま。あなたは、聖書に世界の始まりを書き記してくださいました。多くの人は、そこに書かれたことを、神話として受け取るだけで、それが、どんなにみごとに、この世界の実際と人間の社会の現実を描いているかを見落としています。なによりも、聖書を通して、あなたが、私たちに語りかけようとしておられることに耳をふさいでいます。すべてのものの造り主が、目的をもって私の人生を始めてくださり、意味をもって私の人生を終わらせてくださることを、さらに深く知り、信じることができますように。そして、信じるごとくに生きることができるように、導き助けてください。歴史の創始者であり完成者である、イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/1/2009