収穫の時

ガラテヤ6:1-10

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6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。
6:6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。
6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

 今年も感謝祭の週になりました。今年は、私にとって、皆さんとご一緒にお祝いする四回目の感謝祭です。数えてみれば、サンタクララで奉仕をはじめて、三年以上経ったことになります。変化の多かった、あっという間の三年でした。もう三年も経ったという実感がわきませんが、それも良いことと思っています。どの年も最初の年のように新鮮な気持ちで、奉仕を続けていきたいと願っています。

 さて、収穫の秋に、私たちも「御霊の実」を結びたいと願い、御霊の九つの実について学んできましたが、今週も、どうしたら、「御霊の実」を実らせることができるかを学び続けていきましょう。今日は、ガラテヤ人への手紙第6章に進むわけですが、第6章には、豊かな実を結ぶための原則が三つしるされています。

 一、蒔いたものを刈り取る

 その第一は、「人は蒔いたものを刈り取る」という原則です。ガラテヤ6:7-8に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とあります。人は蒔いたものを刈り取るというのは、大変厳しいことばですが、それはすべての人にあてはまり、例外はありません。

 英語のことわざに

思考を蒔くと、行ないを刈り取り
行ないを蒔くと、習慣を刈り取り
習慣を蒔くと、品性を刈り取り
品性を蒔くと、運命を刈り取る
というのがあります。このことわざによると、最初の種は、私たちの心の中に蒔かれるのです。私たちが、瞬間、瞬間何を考えるかは、とても大切なことなのですね。いつも喜びの種を心に蒔いていれば、そこから感謝の実を刈り取るでしょう。感謝することが良い意味での習慣になっている人には、寛容、親切、善意などがその人の品性の一部となり、それは、永遠の平安と祝福になるのです。しかし、いつも不満を心に宿している人は、何かと言えばすぐに不平を言ったり、怒ったりするようになります。不平や怒りが習慣になると、恐ろしいことですが、恨みや憎しみがその人の品性の一部になってしまい、ついには、惨めな結果を刈り取ることになるのです。

 ずいぶん前のことですが、日本で小学校五年生の女の子がガス自殺をしました。父親はプロダクションを経営しており、愛人と別居中で、たまにしか家に帰ってきませんでしたが、帰るたびにこの女の子の母親に離縁を迫り、絶えずけんかをしていたというのです。この女の子の遺書には「パパ、ママを大切にして!ママを大切にしないと、わたし、バケて出てくるからね。」と書かれていたそうです。この女の子は自分の命と引きかえに父親の間違いを正そうとしたのですが、なんとも悲しい話です。自分の欲望のために妻子を捨てようとした父親の罪は、まだちいさな娘を死に追いやったのです。「肉」とは、人間の罪深い性質のことを言いますが、この人は、まさにその「肉」に蒔き、肉から滅びを刈り取ったと言えるでしょう。ドラッグに走って、人生を狂わせたり、ギャンブルに全財産をつぎ込んで、あげくのはては犯罪にまで手を染めるというのも、よく聞きます。これらは、どれも肉に蒔き、肉から刈り取る例ですが、このような極端な例でなくても、神のことも、人のことも何一つ考えないで、自分のためだけあくせくしているのも、やはり「肉に蒔く」ことになりはしないでしょうか。「肉」の中心には「自我」があると、先週、お話ししましたが、自分のたましいのことや、他の人のことを顧みないで自我を太らせるだけの生き方からは、どんな良いものも生まれてはきません。たとえそのことによって地上の富を手に入れたとしても、それによって祝福や平安を体験することはできないのです。

 しかし、御霊のために蒔く者は御霊から永遠の命を刈り取ります。口語訳や新共同訳は「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」とありますが、新改訳では、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」となっています。新改訳は、わかりにくく面倒な言葉遣いをしていますが、それは、人間の霊と、聖霊との区別を厳密に訳そうとしているからです。ここでの「霊」は「聖霊」を表わします。ですから、ここはやはり、「霊に蒔く」というよりは「御霊に蒔く」としたほうが良いのです。King James Version をはじめ、多くの英語の翻訳でも、ここを「御霊に蒔く」としています。ガラテヤ5:16に「御霊によって歩みなさい。」とあり、25節に「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」と書かれ、6:1に「御霊の人であるあなたがた」とあるように、「御霊のために蒔く」というのは、聖霊による生まれ変わりを体験した人が、聖霊に導かれ、聖霊に満たされて歩むことを言っているのです。私が愛用している New Living Translation ではこの部分を「御霊を喜ばせるように生きる人は御霊から永遠の命を刈り取る」と、大変わかりやすく訳しています。「霊に蒔く」というだけでは、「肉欲の楽しみを捨てて、少しは精神的なことも求める」といった意味にとられるかもしれませんが、「御霊に蒔く」と言う場合、聖霊に導かれて歩み、聖霊の喜ばれることをするという意味がはっきりとわかります。それは信仰なしにできることではありません。私たちが蒔く種は、神とキリストに対する信仰の種でなければなりませんね。

 『逆境の恩寵』という本を書いた徳永則規矩さんは17年間結核で、極度の貧しさと闘病の苦しみに耐え、神をあがめながら世を去りました。しかし、ひとりびとりの子どもたちに蒔かれた信仰の種は、やがてみごとな収穫となりました。長男はミッション系大学の教授として働き、他の兄弟たちは社会事業に貢献し、中には叙勲された人もいます。長女は女学校の校長として教育のために働き、次女、三女、四女は牧師夫人となって伝道のために働きました。みな、神に用いられ、多くの人々を神に導く仕事をしてきたのです。徳永さんは、病気のため、家族に対しても、社会に対しても何一つ大きなことはできませんでしたが、彼は、その病気と苦しみの中でその信仰を純粋なものにしていきました。聖霊が一番喜んでくださるのは、私たちへの神への純粋な信仰ですが、徳永さんは、その信仰に生き、信仰の種を蒔いたのです。徳永さんの人生は、人の目にはみじめなものだったかもしれませんが、徳永さんの蒔いた種は、大きな収穫をもたらしたのです。私たちは、どんな種を、なんのために蒔いているでしょうか。

 二、多く蒔くものは多く刈り取る

 第二の原則は、「多く蒔くものは多く刈り取る」です。蒔いたものは刈りとらなければなりませんが、蒔かなかったものは、どんなにしても刈り取ることもできません。豊かな実を実らせたいと願うなら、多く種を蒔く必要があります。9節に「善を行なうのに飽いてはいけません。」とあります。人間は悪を行なう時には飽くことを知らないのですが、善を行なうときには飽いてしまうのですね。悪には刺激や快感がありますので、人はどんどん悪にはまっていきます。しかし、多くの場合、善にはそうしたものがありませんし、逆に、良いこと、正しいことを行なおうとすると、他の人から反対されたり、思わぬ困難に出会ったりしますから、せっかくの良いこと、正しいこと、また、信仰を成長させることを途中で投げ出してしますことが多いのです。しかし、聖書は、そのような時もたゆまず種を蒔きつづけるよう教えています。また10節には「私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」とあります。やむをえず、不承不承するのでなく、機会を見つけて、数多くの善を行うよう教えています。多く蒔いたものは、やがて多くの収穫になるからです。コリント第二9:6には「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」と言っています。

 では、どのように、良い種を蒔くことができるのでしょうか。それは、まず、教会のまじわりを大切にすることによってです。10節に「信仰の家族」という言葉がありましたね。教会はひとつの「家族」です。イエス・キリストへの信仰によって結ばれ、お互いにその信仰を支えあい、強めあっていく「家族」なのだということを改めて教えられます。10節の「信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」というのは、決して教会の仲間だけを大切にしていれば良いということではありません。私たちの愛は、教会から社会へと広がっていかなくてはなりません。しかし、まず家族の中で互いに愛し合うことを学んでから、他の人を愛することへと進んでいきます。そのように、ここには、「信仰の家族」の中でまず互いに愛し合い、人々を愛する心を養い、人々を支えていく訓練を受けるようにと、教えているのです。

 信仰の家族の中で、サポートの必要なのは躓きを覚えている人、問題を抱えている人ですね。1〜2節に「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。ここに「柔和」という言葉があります。柔和は御霊の実のひとつでした。柔和な心や態度を持たないで人を正そうとしても、それは、人を批判したり、切り捨てたりするだけになってしまいます。自分の過ちに気づかず、人を責めることによって自分が偉くなったような錯覚に陥ってしまうこともあるでしょう。3〜4節に「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」とあります。5節には「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」とありますが、自分自身の弱さや足りなさをはっきりとわきまえ、自分の「重荷」に真剣に取り組んでいる人だけが、他の人の重荷をも負ってあげることができるのです。それぞれが自分の課題にしっかり取り組みながら、互いに重荷を負い合っていく、そうした「信仰の家族」のまじわりの中で、私たちは、御霊のために種を蒔き、御霊の実を刈り取ることができるのです。

 もうひとつの種まきは、働き人をサポートすることです。6節に「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」とあります。みことばのために働いている人は、人々に霊的なものを与えることに専念していますから、その生活と働きを支えるのは、みことばを学ぶ人々のつとめです。また、みことばを教える人が一番願っていることは、人々がみことばによって幸いを見出すことです。このみことばによってこのように導かれました、助けられましたとのあかしをを聞くことが、私にとっての一番の喜びです。私たちはこのようにして、働き人と、良いものを分かちあうことができます。

 このようにして種を蒔きましょう。多く種を蒔くものは、多く刈り取るのです。

 三、刈り取りまでには時が必要

 原則の第三は「刈り取りまでには時が必要」ということです。9節に「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。「ジャックとまめの木」のお話では、蒔いた種は一晩で大木になりましたが、今日蒔いて、明日は収穫できるような種は、実際にはどこにもありません。収穫まで一年、二年、あるいは、十数年も待たなければならない場合もあります。しかも、ぼんやり待っていればよいのではありません。水をやり、雑草をとりのぞき、肥料をやり、剪定したりと、手をかけてやっと収穫を得ることができるのです。「米」という字は「八十八」と書きます。これは、「稲」が「米」になるには、実に「八十八」回も手がかかるからだそうですが、確かに、それほどに手をかけてやらなければ実りはないのです。私たちも、同じように、「時期が来て刈り取ることになる」ということを信じて待つのです。ヤコブの手紙に「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」(ヤコブ5:7-8)とあります。実りを得るためには、収穫を得るためには、忍耐が必要です。しかし、その忍耐は報われます。聖書は、収穫の時は必ず来る、それは近いと約束しています。

 最後に一つのお話をして終わりましょう。私の車のラジオは、スイッチを入れるとファミリーラジオが入るようになっているのですが、ファミリーラジオのプレジデント、ハロルド・キャンピング氏が、真珠湾攻撃の隊長がクリスチャンになり、伝道者になったということを話していました。キャンピング氏が話していた人は、渕田美津雄という人で、元海軍大佐でした。渕田さんが救われたのは、かって彼の部下だった人を通してでした。渕田さんは、その人がアメリカでの捕虜生活から解放されて帰ってきた時、彼に「捕虜になって、きっとひどい仕打ちを受けただろうな。」と同情して話したのですが、その人は「いいえ、そんなことは何一つありませんでした。私たちは、敵国人なのに、とても寛大に取り扱われました。とりわけ、その捕虜収容所に勤めていたひとりの美しいアメリカの女性は、私たちに心から、やさしく接してくれました。私は、不思議に思って、その人にわけを聞いてみたのですが、その女の人は、こう話してくれました。

 『私の父は、J.H.コベルといって、1919年に日本に宣教師となって行きました。しかし、日本が軍国主義になって、1939年に日本を追われ、他の宣教師と一緒にフィリピンのパネイ島の山奥に移り住みました。ところが、日本軍が宣教師たちを捕まえに来たのです。女性と子どもが日本軍に捕まえられたため、私の父は、他の十人の宣教師と一緒に日本軍のところに行って、「私たちは、戦闘員ではありません。日本にも、アメリカにもどちらにも加担するつもりはありません。」と日本軍に説明したのですが、日本軍の答えは、「命令なので殺す。」の一点張りでした。ついに、私の父も、他の宣教師たちも首をはねられて死んでいったのです。私は、私の父母が、命をかけてまで愛した日本人のために、できるだけのことをしたい、そう思って日本人捕虜収容所の勤務を志願したのです。』」

 それまで、アメリカにあだ討ちをするのだとしか思ってこなかった渕田さんは、「どうしてそんなことができるのか。」とかっての部下に聞きました。彼は、一冊の聖書を渕田さんに手渡して、「これが、その答えです。コベル宣教師の娘さんのおかげで、私も、クリスチャンになりました。」と言いました。渕田さんは、このようにしてクリスチャンになり、伝道者になったのです。

 コベル宣教師の殉教のことはアメリカで『輝く凱旋門を通って』という小冊子になって出版されたのですが、その小冊子は「この人々を殺した日本人の誰かが、彼らの立派な死に方を見て、いつの日にかキリストを信じるようにならないと、誰が断言できるであろうか。」と結ばれているそうです。この小冊子に書かれているとおり、コベル宣教師の死によって、ひとりの捕虜が救われ、その人を通して渕田さんが救われ、渕田さんを通して多くの人が救われていったのです。コベル宣教師の死は、その時は無駄に見えたかもしれませんが、やがて、大きな実を結んだのです。

 詩篇126:5-6に「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」とあります。たとえ苦しみの中で種を蒔いても、それはやがて喜びとなって帰ってきます。私たちの人生と、永遠に大きな収穫を備えてくださっている神に、大きな感謝をささげましょう。

 (祈り)

 収穫の主よ、あなたは、御霊のために種をまくように、そのことを機会を見つけてするように、そして、収穫の時を信じてそうするようにと、教えてくださいました。今年のサンクスギヴィングに、あなたが与えてくださった収穫を喜び、感謝するとともに、さらに大きな収穫を期待して、みことばの種、信仰の種、愛の種、喜びの種を蒔き続けていく私たちとしてください。キリストのお名前で祈ります。

11/23/2003