御霊の実

ガラテヤ5:22-23

オーディオファイルを再生できません
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 「聖霊」と聞いて、皆さんが最初に連想するものは、何でしょうか。「力」、「栄光」、「奇跡」、「確信」、「情熱」など、何か特別なこと、力強いものかもしれません。確かに、ペンテコステの日、人々が聞いたのは、「ゴー」という力強い風の音でした。「どこから聞こえてくるのだろう」と、それが聞こえて来るところに行ってみると、そこにいる人たち、一人ひとりの上に炎のようものがとどまっていました。そして、その人々が、なんと、様々な国の言葉で神の御業を語っていたのです。風、炎、諸国の言葉。それはまさに聖霊の力と栄光の現れでした。弟子たちはイエスの復活を力強く証しし、迫害を受けても、福音を語り続けました。福音は、風を得た炎が広がっていくように、エルサレムからユダヤ、サマリアへと広がっていきました。

 ペンテコステには、そうした力強い聖霊の働きが見られましたが、センセーショナルなものだけが、聖霊の働きのすべてではありません。聖霊の働きの大部分は、目に見えないところで、静かに働くものです。聖霊は私たちの救いのために働き、救われた者のために働き続けてくださいます。救われた者のための働きは、さらに「御霊の賜物」を与える働きと「御霊の実」を結ばせる働きに分けることができます。きょうは、「御霊の賜物」と「御霊の実」比べながら、学びましょう。

 一、御霊の賜物

 「御霊の賜物」とは、私たちが神のために働き、人々に奉仕するために聖霊が与えてくださる力のことです。神に喜ばれる奉仕は決して人間の力でできるものではありませんし、報いを求めないで人に仕え、人を活かすことは、生まれつきの性質によっては達成できません。それは、聖霊がくださる力、「御霊の賜物」によってしかできないのです。

 では、「御霊の賜物」にはどんなものがあるでしょうか。コリント第一12:8-10には、「知恵のことば」、「知識のことば」、「信仰」、「癒やし」、「奇跡を行う力」、「預言」、「霊を見分ける力」、「異言」、「異言を解き明かす力」などが挙げられています。「知恵のことば」、「知識のことば」人を教える力で、「信仰」は人々にビジョンを与え導く力を指しています。「癒やし」と「奇跡を行う力」は神の力を直接的に働かせること、「預言」は神のみこころを明確に示すことを言っています。「霊を見分ける力」とは、語られていることや、為されていることが聖霊から来たものか、それとも人間の霊の働きでしかないのか、あるいは、悪霊によるものかを判断する力です。「異言」は人の霊が言葉を介さないで、直接神に語りかけるものです。神への思いが心のうちに溢れ、それが霊の言葉となって口から出てくるものです。それは本人には分かっても、他の人には分かりません。ですから、それが他の人に理解されるためには、「異言を解き明かす力」という賜物が必要になります。「異言」と「異言を解き明かす力」は必ずセットになって働きます。

 コリント第一12章に挙げられている賜物には、いつの時代のどこででも必要なものもありますが、そうでないものもあります。聖書は「異言」を否定していませんが、それは時代とともに、誰もが理解できる言葉で語られ、歌われる祈りや賛美に置き換わっていきました。神のみこころを直接的に示す「預言」は、聖書ができあがってからは説教に置き換わりました。賜物は時代や場所、また、状況によって変化するのです。コリント第一13:8-10に「預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです」とある通りです。

 コリント第一12章には28節に、別の賜物のリストがあります。そこには順序があって、「第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言」となっています。ここでは、使徒、預言者、教師たちが持つ教える賜物が、奇跡や癒やしよりも優先されており、異言は一番最後です。異言よりも順位の高いものとして、8-10節にはなかった「援助」や「管理」が加えられています。人々の実際的な必要を助け、そのための財政や人材を管理、運用することなど、今で言えば、マネージメントもまた、「御霊の賜物」の一つとしてあげられています。

 ローマ12:6-8にも賜物のリストがあります。「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」コリント第一12章にあった「癒やし」や「奇跡」、「異言」は姿を消し、「奉仕」、「教え」、「勧め」、「分け与えること」、「指導すること」、また「慈善を行うこと」といった、今日の私たちにとって身近なことがあげられています。こうしたことは、必要とされる賜物は、時代や状況によって変わっていくことが教えられています。

 よく、「私には何の賜物もない」という人がいますが、それは違います。聖書は、「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」(ペテロ第一4:10)と教えています。聖書が「それぞれが賜物を受けている」と言っているのですから、イエス・キリストを信じ救われた人で、御霊の賜物を持たない人は誰もいないのです。それが、それが、人の目にどう見えるかは問題ではありません。「賜物」は、それによって主に仕え、他の人に奉仕するものであって、それによって他の人と競い合うものではないからです。主は、一人ひとりに、他の人にはないユニークな賜物を与えてくださっています。世の中では、誰かが病気などでその仕事ができなくても、代わりに働く人はいくらでもいます。経営者は私たちを交換の効くの部品のように思っているかもしれませんが、主は違います。神の国は、機械やシステムではありません。神の国は生産性があればよい、効率がよければよいというものではありません。そこは神を父とする大きな神の家族です。そこでは一人ひとりがかけがえのない者として存在しています。要らない人など誰もいないのです。神の国は麗しい芸術作品です。誰かが欠ければ、それに代わるものはないのです。そのことが分かれば、私たちは、主が自分に与えてくださった賜物をもっと喜び、それを成長させ、それによって主に仕え、人々に奉仕したいと願うはずです。賜物の無い人は誰一人いません。それは「私の」賜物ではありません。「御霊の」賜物です。ですから、それを用い、主に仕え、人々に奉仕しなければならないのです。

 二、御霊の実

 次に、「御霊の実」について考えてみましょう。御霊の実とは、聖霊が、神の子どもとされた者たちの内面に、神の子どもにふさわしい人格を生み出してくださることを言います。人は本来持っていた「神のかたち」を罪のために失くしましたが、聖霊がそれを取り戻してくださるのです。御霊の賜物は救われた者の「働き」のために与えられますが、御霊の実は、信じる者の人格に働きかけてくださる聖霊のみわざの結果です。

 御霊の賜物はいつまでも続くものではありません。完全なものが現れたら、部分的なものは姿を消すのです。天では、誰も神とそのみこころを教える必要がありません。そこでは、人は直接的に神を知るのです。天では「教える」賜物はもういらなくなるのです。けれども、「御霊の実」は永遠までも続きます。人はそれによって神とまじわるからです。

 また、御霊の実は、いつの時代にも、どこの国の人にも変わらず求められるものです。ガラテヤ5:22-23に、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあって、9つの御霊の実があげられいますが、そのあとで、「このようなものに反対する律法はありません」と言われています。ここでの「律法」は、旧約時代にユダヤの人々に与えられた「律法」を指しています。9つの実は律法がユダヤの人々に要求していたものでした。そして、それは、新約時代の異邦人である私たちにもそのまま求められています。旧約時代であれ、新約時代であれ、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、いつの時代のどこの国の法律、道徳、社会の基準も、ここにあげられているものを否定するものはありません。これらはいつでも、どこででも称賛され、奨励されてきました。

 賜物の場合、一人の人がすべてを持つことはできませんから、それぞれが自分の賜物に専念するよう教えられています。ローマ12:6-8に「預言であれば…預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は…分け与え、指導する人は…指導し、慈善を行う人は…それを行いなさい」とある通りです。しかし、御霊の実の場合は違います。9つの実のうち、どれか一つだけを持っていればよい、それだけに集中すればいいというのではありません。「私は寛容があるから自制はいらない」とか、「誠実さえあればそれでいい」というのではありません。御霊の9つの実は、それぞれ別々の木になる別々の実ではなく、1本の木に同時になる9つの実なのです。ぶどうの房のように、9つが一つのセットになっています。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のすべてが一人の人格の中に実るのです。神は私たちにそのことを期待し、聖霊は、そのことを実現するため、私たちの内に働いておられます。

 赤ちゃんの成長は、はっきりと目で見ることができます。寝返りができるようになり、つかまり立ちができるようになり、はいはいするようになり、歩けるようになります。一年の間にどんどん成長し、親やおとなはそれを見て喜びます。御霊の賜物も、割合短い間に、それが成長し、発展していくのを見ることができます。

 一方、御霊の実は、人格の中に結ばれるもので、すぐに目に見えるとはかぎりません。御霊の「実」とあるように、人格の実も木が実を結ぶようにして結ばれます。植物は動物と違って動き回りはしません。しかし、何も変化しないかといえば、そうではありません。植えられた場所にとどまってはいますが、その根は、毎日、水分と養分を求めて地面の下で伸びています。また、枝を伸ばし、葉をしげらせ、また、それを落とし、季節ごとに姿を変え、年々大きくなっていくのです。御霊の実も、同じように、徐々に結ばれていくのです。

 木が実を結ぶようになるのに時間がかかるように、御霊の実が結ばれていくには、時間がかかります。人格の成長というものは、背丈や体重を測るようには測ることができません。それで私たちは、御霊の実よりも御霊の賜物に目を向けがちになります。主のための働きは尊いものですが、あまりにも忙しくなりすぎて、人格の成長に心を向けることがおろそかになることがあります。活動的な人はそれだけ多くの経験を積むことができ、その経験が人格を形作るために用いられるはずなのですが、もし、私たちの内に御霊の実を結ばせてくださる聖霊の働きから目がそれてしまうと、せっかくの経験も人格の成長に生かされないことがあります。

 御霊の実も、御霊の賜物も、どちらも必要なものです。それらは、同じ、おひとりの聖霊が与えてくださるもので、両手、両足のようなものです。右の手と左の手、左足と右足、両方がそろってからだのバランスが保たれ、前に進むことができます。どちらかひとつだけあればいいというものではありません。私たちは「存在」(Being)の世界と「行為」(Doing)の世界の両方に生きています。まことの信仰は、宗教的な概念をもてあそぶことではありません。神のみこころを知ったなら、それを実践することが必要です。私たちはみな、Doer でなければなりません。けれども、みこころの Doer であるためには、神のみこころにかなった存在(Being)でなければならないのです。人間のことを英語で “human-being” と言いますが “human-doing” とは言いません。Being が先にあって、Doing があとに続くのです。

 御霊の実は Being に属し、御霊の賜物は Doing に属します。年齢や環境によって、私たちの Doing は制限を受けます。しかし私たちの Being には制限がありません。木が人の寿命をはるかに超えて花を咲かせ、実を結ぶように、私たちの Being は、永遠までも成長を続けるのです。天では御霊の賜物は止むでしょう。しかし、御霊の実は残るのです。そのことを思って、聖霊が結んでくださる永遠までも続く御霊の実に心を向けたいと思います。「聖霊よ、私の内に、あなたの実を結んでください」と祈り、求め続けたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、聖霊は、私たちの働きのために御霊の賜物を与え、私たちの人格のために御霊の実を結んでくださいます。聖霊が、私たちの内と外、Being と Doing の両方において働き、それを支え、結びつけてくださっていることを、さらに理解させてください。私たちが、聖霊の働きに信頼し、御霊の実を結び、御霊の賜物によって働くことができるよう、日々、私たちを助け、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/28/2023