自制の御霊

ガラテヤ5:16-26

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5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
5:26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

 一、自制

 スウィンドール先生は、すべてのクリスチャンに必要な八つの霊的訓練をあげています。「神との親密さ」、次に「シンプルであること」、「沈黙と孤独」、「明け渡し」、「祈り」、「謙遜」、「自制」、そして「犠牲」です。この七番目の訓練、「自制」について、スウィンドール先生はご自分のことを、その本の中に書いています。

 その話というのはこうです。先生がリビング・ルームでひとりでテレビを見ながらスプーンで一口、一口アイスクリームを口に運んでいるうちに、ハーフガロンのアイスクリームの缶が空っぽになってしまったのです。先生はアイスクリームの缶についているアイスクリームを「もったいない」と考えて、アイスクリームの缶をマイクロウェーブに入れて溶かし、それを呑んでしまいました。ほんとうに少しも残さず、文字通り平らげてしまったのです。

 そうしてから、先生は、奥さんと子どもたちがもうすぐ帰ってくるのに、はっと気がつきました。子どもたちが帰ってきたなら、きっとアイスクリームに手を伸ばすだろう。もし、アイスクリームが無いことに気付いたら大変なことになると思い、すぐに、同じメーカの同じ種類のアイスクリームを買いに行きました。そして、フリーザを開けてアイスクリームがもとあったところにきちんと置きました。「これなら、わたしがアイスクリームを全部食べてしまったことに誰も気がつかないだろう」と安心したのですが、実は、もとからあったアイスクリームには、こどもが一口だけ食べた跡があって、それは全く新しいものではなかったのです。そのため先生がアイスクリームを平らげたことは、やがて家族のみんなが知るところとなったのですが、その後どうなったは、本には書かれていませんでした。みなさんの想像にお任せしましょう。

 私たちは、しばしば食べ過ぎます。しゃべりすぎます。車に乗るとスピードを出しすぎます。趣味や仕事に夢中になり、家庭を壊したり、健康を損ねたりします。また、自分に与えられた分をはみ出して、人の領域に踏み込んでしまうということもあります。それは、心理学でいう「バンダリーを犯すこと」で、日本では大目に見られていても、じつはここから様々な問題が起こります。自分では相手のためにしている、良いことをしていると信じ切っていて、そうしないことは「愛のないこと」だとさえ、考えていますが、実際は自分の満足のためにそうしていることがあるのです。こういう症状を「コディペンデンシィ」と言いますが、これも「自制」が欠けていることから起こるのです。

 聖書には「罪」を表わすことばがいくつか使われています。その中のひとつ「ハマルティア」というギリシャ語には「的外れ」という意味があります。私たちの向かっている方向が、神が定めた方向とずれていること、それが「罪」だというのです。野球でどんなに遠くにボールを打ったとしても、それがラインから外れていたら、決してホームランにはなりません。ファウルです。同じように、私たちの人生も、どんなに真面目であっても、熱心であっても、また、勤勉であっても、その心と行いが神の求めておられる正しい方向に向かっていなければ、それは罪になるのです。「真面目であること」、「熱心であること」、「勤勉であること」はそれ自体はみな良いことです。しかし、方向を間違える時、本来良いものが悪いものとなるのです。人間にとってもっとも望ましいものは「愛」ですが、これも方向を間違えるととんでもないことになります。子どもを溺愛して駄目にしてしまったり、他の人の配偶者を横取りしたり、愛人に貢ぐために会社のお金を盗むというようなことが起こるのです。神の愛をはきちがえて自己愛と混同してしまうことも、よくあります。最もきよいものが一番汚れたものになる、最も美しいもの一番醜いものになるというところに、罪の恐ろしさがあります。

 では、的外れなことをしないために何もしないでいれば罪を犯さなくて済むのかというと、そうではありません。聖書によれば、何もしないでいること、「怠慢」もまた罪なのです。ヤコブ4:17に「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」とあります。聖書は、「悪いことさえしなければ良い。」とは教えていません。人の心を傷つけてはならないことはもちろんですが、あなたの身近にいる人が励ましを必要としている時に知らん顔をしているというのも同じように罪です。目の前で間違ったことが行なわれているのに、見てみぬふりをして通りすぎていくのも罪です。わたしたちは誰も「愛の負債」を負っています。神からも人々からも愛された分をとてもお返しなどできないばかりか、それに感謝することを忘れています。わたしたちは、神の目からみて、神が求めておられる基準に足らない者たちなのです。

 罪を表わす言葉に、もうひとつ「パラプトーマ」というのがあります。これは「過ち」、あるいは「罪過」と訳され、基準や制限を超えてしまうことを意味します。どんなことでも、基準を超えてしまうと、それは罪となるのです。働くことは良いことです。しかし、働きすぎることは、精神にも肉体にも害になります。生活をエンジョイすることは決して罪ではありません。しかし、それが行き過ぎて毎日遊び歩くようになると罪になります。趣味を楽しむこともクリスチャンに許されていることです。けれども、それがクリスチャンの生活で第一のものとなってしまうなら、それは神を第一にするという生き方に反するものになってしまいます。人生を考え深く生きることは大切なことです。しかし、それが懐疑的になったり、思い煩いに姿を変えてしまうなら、考え深いことが逆効果になってしまいます。正義を求める心はなくてならないものです。しかし、それがたんなる憤りで終わってしまうなら、聖書が言うようにそれも罪になってしまいます(エペソ4:26)。

 「的外れの罪」は、ステアリング・ホイールが効かなくなった車にたとえることができます。他の車と衝突したり、道路からはみ出して崖から落ちたりしかねません。的外れの罪は私たちを神から遠く引き離し、他の人を傷つけるのです。また、怠慢の罪は、車でたとえるなら、エンジンがかからないようなものです。道の真ん中で立ち往生している車があったら、交通の妨げになります。罪過(パラプトーマ)の罪はブレーキの効かない車のようです。止まるべきところできちんと止まることができないので、危険きわまりありません。「自制」は車のブレーキに相当します。私たちはどんな罪からもきよめられたいと願っているのですから、この罪から免れるため、神に「自制」を願い求めたいと思います。

 二、肉の働き

 では、どのようにして、「自制」を身に着けることができるのでしょうか。我慢の訓練をすればいいのでしょうか。いいえ、そうしたことではほんとうの自制は身に着きません。

 聖書は罪の背後に「肉」があると教えています。聖書でいう「肉」とは「からだ」のことではありません。それはキリストを信じる以前の生まれつきの性質のことです。ガラテヤ5:17に「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」とあるように、生まれつきの性質を持ったままで、自分を訓練しようとしても、それは、神に逆らう古い性質を強くするだけのことなのです。

 「肉」は、神のために訓練することはできません。「肉」というのは、神なしで生きていけるという傲慢や、神に逆らい真理を憎む人間の性質ですから、それは訓練して良くなるものではありません。「肉」は捨て去るしかないのです。死んでもらうしかないのです。しかし、そんなことが可能なのでしょうか。人間にはできません。しかし、神には出来ます。そして、神はそれをイエス・キリストの十字架によって成し遂げてくださったのです。

 ガラテヤ5:24に「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」とあります。

「肉」には、死んでもらうしかないのです。聖書はわたしたちに「肉」の性質を捨て、「肉」の原理を遠ざけて、新しい性質を受け、新しい原理に従って生きるのです。それがガラテヤ5:16にある「御霊によって歩む」ということなのです。

 三、聖霊と自制

 しかし、「御霊によって歩む」ことができるようになるためには、踏まなければならない段階があります。そのための第一歩は「御霊によって生まれる」ことです。主イエスは「肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5)と言われました。古い自分にどんなに磨きをかけても、それで神の子になれるのではありません。イエス・キリストを信じる時、聖霊が私たちのうちに働いて、私たちは新しく生まれ変わります。この「生まれ変わり」が無ければ、私たちは肉のままです。

 次のステップは「霊の人」へと成長することです。コリント第一3:1-3に「御霊に属する人」「肉に属する人」そして「ただの人」という言葉があります。「ただの人」というのは「生まれつきの人」、「聖霊による生まれ変わりを経験していない人」という意味です。本当なら、聖霊によって生まれた人は皆、「霊の人」「御霊に属する人」のはずなのですが、残念ながら、聖霊をいただいているのに、聖霊に従っていないクリスチャンもあって、そういう人々が「肉に属する人」と呼ばれました。聖霊がくださった新しい生き方にしたがって生きておらず、救われる以前の古い、罪の原理のままの生活をしているので、そう呼ばれたのです。「肉に属する人」は「キリストにある幼子」とも呼ばれています。この人たちは生まれ変わっていないわけではありません。キリストから切り離されているわけでもありません。「<キリストにある>幼子」と言われているように、キリストのものとされ、聖霊をいただいているのです。なのに「肉」に従って生活していますから、そこに大きな矛盾が生じてくるのです。「幼子」というと、良い意味では純粋で成長の可能性を秘めていることを表わしますが、この箇所では「わがままで身勝手な者」という意味で使われています。心理学者たちは、赤ちゃんや幼児は、何が心地よいことか何が心地よくないか、つまり「快・不快」の原理で生きていると言っています。成長するにつれて、「善・悪」や「損・得」が行動の原理になっていき、他の人のことを考えることができるようになっていくのですが、赤ちゃんはおなかがすけば泣き、ミルクをもらうと機嫌がよくなり、おしめがぬれるとぐずり、きれいにしてもらうとニコニコするといったように、全くの自己中心で、自分の感情の満足のためだけに生きています。大人がそんなことをすれば「あの人はインマチュアな人だ。」と非難されるのでしょうが、赤ちゃんは、大人のように格好をつけたり、隠したりせず、正直にそれをするので、かわいいと言って許されるのです。幼児になっても、自分がしたいことを、したい時に、したいようにするという自己中心性が強く残っています。「肉に属する者」も幼児のような振る舞いをするので、「キリストにある幼子」と呼ばれたのです。私たちは、いつまでもそうしたところにとどまっていてはなりません。「肉に属する人」ではなく「御霊に属する人」、「キリストにある幼子」ではなく「キリストにある成人」(コロサイ1:28)へと成長していきたいものです。

 そのために「御霊に満たされる」(エペソ5:14)というステップを踏む必要があります。御霊の満たしは、車にたとえるなら、ガソリンをタンク一杯に満たしてもらうようなものです。どんなにエンジンをチューンアップし、ボディをピカピカに磨いても、それで車が走るわけではありません。ガソリンがなければ車は走りません。「クリスチャンらしく振る舞う」ことだけを追い求めている人は目に見えるボディをピカピカにすることだけに心奪われているようなものです。自分の霊的な状態をまじめに点検する人は、こまめに車をチューンアップする人のようで、良いことです。しかし、御霊に満たされるのを求めるのを忘れてしまうなら、ガソリンを入れ忘れ、道の途中でストップしてしまった車のようになってしまいます。御霊に満たされるかわりに、人間の知恵と努力で自分を満たそうとし、「御霊によって歩む」かわりに肉の力でいたずらに走り回るようになっていくのです。私たちは御霊によって歩むため、御霊に満たされることをいつも求めていきましょう。

 聖霊によって生まれ変わり、聖霊に満たされたなら、「肉」との戦いがなくなるというわけではありません。おそらく逆でしょう。御霊によって歩むのでなければ、肉の願うままに生きるわけですから、そこには戦いはありません。しかし、御霊によって歩みはじめる時、かえって霊と肉との戦いを強く体験することでしょう。17節に「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」とある通りです。使徒パウロ自身もこの戦いを常に体験していました。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ7:15)「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ7:21)「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と言っています。しかし、同時に、パウロは聖霊による勝利を体験していました。それで「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と、私たちに命じているのです。

 「自制」は、この聖霊の働きによって与えられるのです。ガラテヤ5:22-23に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあるとおりです。ですから「自制」の訓練とは、とりもなおさず、聖霊に満たされることを求めることであり、聖霊に信頼し、聖霊に従って歩むという信仰の訓練に他ならないのです。何が御霊に属するものか、何が肉に属するものかをしっかりと見極めて、御霊に属するものを追い求め、御霊に属する者、霊の人、キリストにある成人となることを目指していきましょう。その時、私たちは御霊のくださる自制を働かせることが出来るようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、かつてはあなたを知らず「肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なう」者でした。罪の背後に「肉」という古い性質があることにさえ気がついていませんでした。しかし、キリストを信じ聖霊を頂き、ようやくそのことに気がつきましたが、罪との戦いの厳しさ、肉との戦いの深刻さが分かれば分かるほど、どのようにして罪からきよめられるのだろう、どうやって肉に打ち勝つことができるのだろうと悩む者たちでした。しかし、あなたは聖霊によって生まれ変わり、聖霊によって成長し、聖霊によって満たされ、聖霊によって歩む、新しい生き方を示してくださいました。そこに罪と肉に対する勝利があります。御霊に満たされ、御霊が私たちのうちに結んでくださる「自制」の実をいただいて、歩むことができますよう、私たちを導いてください。御霊の勝利を私たちにお与えくださる主イエスのお名前で祈ります。

10/7/2018