霊と肉

ガラテヤ5:16-24

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5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

 この夏は「キリストに似た者になる」という主題で、そのための訓練について学んでいます。まずはじめに「神との親密さ」、次に「シンプルであること」、「沈黙と孤独」、「明け渡し」、「祈り」、「謙遜」と六つのことを学んできました。今朝は、第七番目の訓練「自制」についてごいっしょに考えてみたいと思います。

 一、罪と自制

 チャック・スウィンドール先生は「自制」についての章の中で、若いころハーフ・ガロンのアイスクリームをひとりで平らげてしまったことがあると書いています。その話というのはこうです。先生がリビング・ルームでくつろいでテレビを見ながらスプーンで一口、一口アイスクリームを口に運んでいるうちに、アイスクリームの缶が空っぽになってしまったのです。先生はアイスクリームの缶についているアイスクリームを「もったいない」と考えて、アイスクリームの缶をマイクロウェーブに入れて溶かし、それを呑んでしまいました。ほんとうに少しも残さず、文字通り平らげてしまったのです。そうしてから、先生は、奥さんと子どもたちがもうすぐ帰ってくるのに、はっと気がつきました。子どもたちが帰ってきたなら、きっとアイスクリームに手を伸ばすだろう。もし、アイスクリームが無いことに気付いたら大変なことになると思い、すぐに、同じメーカの同じ種類のアイスクリームを買いに行きました。そして、フリーザを開けてアイスクリームがもとあったところにきちんと置きました。「これなら、私がアイスクリームを全部食べてしまったことに誰も気がつかないだろう。」と安心したのですが、実は、もとからあったアイスクリームには、こどもが一口だけ食べた跡があって、それは全く新しいものではなかったのです。そのため先生がアイスクリームを平らげたことは、やがて家族のみんなが知るところとなったのですが、その後どうなったは、本には書かれていませんでした。みなさんの想像にお任せしましょう。

 私たちは、しばしば食べ過ぎます。寝すぎます。しゃべりすぎます。車に乗るとスピードを出しすぎます。自制が効かないのでそうなるのです。自分に与えられた分をはみ出して、人の領域に踏み込んでしまうということもあります。それは、心理学でいう「バンダリーを犯すこと」であって、アメリカの社会では問題となることがらです。いわゆる「おせっかい」の多くは、自分では相手のためにそうしていると思いこんでいるのですが、実際は自分の満足のためにそうしていることが多いのです。こういう症状を「コディペンデンシィ」と言います。私は、こういう方面で学んだことがありますので、いつかそんな勉強もしてみたいと思っていますが、こういうことが起こるのも、そこに「自制」が欠けているからです。自制が欠ける時、私たちは思わぬ罪に落ち込んでしまいますので、注意が必要です。

 聖書には「罪」を表わすことばがいくつか使われています。その中のひとつ「ハマルティア」というギリシャ語には「的外れ」という意味があります。私たちの向かっている方向が、神が定めた方向とずれていること、それが「罪」だというのです。野球でどんなに遠くにボールを打ったとしても、それがラインから外れていたら、決してホームランにはなりません。ファウルです。ゴルフでもホールに向かってボールを撃たなければ意味がないのです。同じように、私たちの人生も、どんなに真面目であっても、熱心であっても、また、勤勉であっても、その心と行いが神の求めておられる正しい方向に向かっていなければ、それは罪になるのです。「真面目であること」、「熱心であること」、「勤勉であること」はそれ自体はみな良いことです。しかし、方向を間違える時、本来良いものが悪いものとなるのです。人間にとってもっとも望ましいもの「愛」ですら方向を間違えるととんでもないことになります。特に現代に多く見られるようになりましたが、子どもを溺愛して駄目にしてしまったり、他の人の配偶者を横取りしたり、愛人に貢ぐために会社のお金を盗むというようなことが起こるのです。神の愛をはきちがえて自己愛と混同してしまうことも、よくあることです。最もきよいものが一番汚れたものになる、最も美しいもの一番醜いものになるというところに、罪の恐ろしさ、惨めさがあります。

 では、的外れなことをしないために何もしないでいれば罪を犯さなくて済むのかというと、そうではありません。聖書によれば、何もしないでいること、「怠慢」もまた罪なのです。これは、大変厳しいことばですが、ヤコブ4:17に「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」とあります。聖書は、「悪いことさえしなければ良い。」とは教えていません。人の心を傷つけてはならないことはもちろんですが、あなたの身近にいる人が励ましを必要としている時に知らん顔をしているというのも同じように罪です。目の前で間違ったことが行なわれているのに、見てみぬふりをして通りすぎていくのも罪です。人を助ける力があるのに、困っている人に与えなかったり、人と喧嘩はしないとしても、人に冷たい視線を投げかけたり、口を開けば相手を見下すことばだけで、温かいことばをかけることなどまずないということはないでしょうか。借金をすることはなかったとしても、多くの人から受けている愛の負債を感謝しているでしょうか。神は、私たちをご覧になる時、私たちが「悪いことをしなかったかどうか」ということだけでなく、私たちがすすんで「良いことをしたかどうか」をもご覧になるのです。

 罪を表わす言葉に、もうひとつ「パラプトーマ」というのがあります。これは「過ち」、あるいは「罪過」と訳され、基準や制限を超えてしまうことを意味します。食欲は大切なものです。どんな病気になっても食欲があれば快復の希望があり、食欲がなくなると危険な状態になると言われています。しかし、食欲も限度を超えてはてしなく強くなると大変なことになります。それは健康を損ね、様々な病気を生み出します。どんなことでも、ある基準を超えてしまうと、それは罪となるのです。働くことは良いことです。しかし、働きすぎることは、精神にも肉体にも害になります。生活をエンジョイすることは決して罪ではありません。しかし、それが行き過ぎて毎日遊び歩くようになると罪になります。趣味を楽しむこともクリスチャンに許されていることです。けれども、それがクリスチャンの生活で第一のものとなってしまうなら、それは神を第一にするという生き方に反するものになってしまいます。人生を考え深く生きることは大切なことです。しかし、それが懐疑的になったり、思い煩いに姿を変えてしまうなら、考え深いことが逆効果になってしまいます。正義を求める心はなくてならないものです。しかし、それがたんなる憤りで終わってしまうなら、聖書が言うようにそれも罪になってしまいます(エペソ4:26)。「的外れの罪」は、ステアリング・ホイールが効かなくなった車にたとえることができます。他の車と衝突したり、道路からはみ出して崖から落ちたりしかねません。的外れの罪は私たちを神から遠く引き離し、他の人を傷つけるのです。また、怠慢の罪は、車でたとえるなら、エンジンがかからないようなものであり、罪過(パラプトーマ)の罪はブレーキの効かない車のようです。スピードが出すぎて止まるべきところできちんと止まることができないので、危険きわまりありません。私たちには、車のブレーキに相当する「自制」が必要です。神に従う人々は、的外れの罪や怠慢の罪を犯さないように注意しているかもしれませんが、「パラプトーマ」の罪、行き過ぎの罪は犯しやすいのです。私たちはどんな罪からもきよめられたいと願っているのですから、「パラプトーマ」の罪からもきよめられることを求めましょう。そして、この罪から免れるため、神に「自制」を願い求めましょう。

 二、肉と自制

 クリスチャンの生涯は、平安や喜び、希望や力に満ちたものですが、それは決してタナボタ式に得られるものではありません。それは、罪との戦いの中で得られるものです。自分の罪をきちんと処理し、罪に勝利していくことによってはじめて、その戦いのただ中でも、心の深いところで平安や喜び、希望や力を味わうのです。クリスチャンの味わう平安は「嵐の中の平安」のようなものです。罪との戦いで勝利を得るために、また、その中でそのような平安を味わうために、私たちは、いったい何とどう戦えばよいのでしょうか。

 聖書は、「パラプトーマ」の罪、基準や制限を越えて自分の思いを押し通そうとする罪の背後に「肉」というものががあると教えています。ガラテヤ5:16-17に「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」とあります。クリスチャンの信仰における戦いは「肉」との戦いなのです。

 では「肉」とは何なのでしょうか。多くの人は「肉」を「肉体」であると考えています。そして「肉の欲望」を「身体の欲求」だと解釈しています。もし、そうなら、ここで「肉の欲望を満足させない」というのは、おなかがすいたけど我慢する、眠いけど頑張る、などという意味だということになってしまいます。それでは単なる禁欲主義になってしまいます。聖書が「肉の欲望」と言う場合は、身体の欲求以上のもの、その人の物の考え方や感じ方、価値観、生き方のことを言っています。「肉」というのは神から離れ、罪の支配の中にある人間の物の考え方や感じ方、価値観、生き方を指しているのです。「肉」が「肉体」でなく「こころ」だというのは、現代の私たちにはわかりにくい表現ですが、新約聖書が書かれたギリシャ語とギリシャの文化では、適切な表現だったのです。

 ガラテヤ5:19-21に「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」とあります。このリストの最初の三つ「不品行、汚れ、好色」というのは性的な罪です。性的な罪は、身体的な欲求から来るもののように思われがちですが、じつは、その人の罪深いこころの状態、「肉」からなのです。次の二つ「偶像礼拝、魔術」は宗教的な罪です。宗教は肉体の世界に属するものでなく、精神の世界に属するものです。「肉」というのが「身体の欲求」だけでないことはこのことからもよくわかります。次の八つ「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」は人間関係における罪です。「肉」の働くところには、本当の意味で、愛も、平和も、一致も生まれてこないのです。最後の二つ「酩酊、遊興」というのはライフスタイルにおける罪です。このリストにあるものはどれも、誰もが顔をしかめるものばかりですが、「肉の行い」はいつもこのようなあからさまな形で現れるとはかぎりません。日本では「不品行」はかつては「浮気」と呼ばれましたが、今は「不倫」と呼ばれ、「不倫」は人を縛っている古い倫理観から解放するもので、誉められこそすれ、非難されるべきものではないと思われるようになりました。「偶像礼拝」や「魔術」も「生きる力」や「心のいやし」を与えるものとして、人々の心の中に入り込んできています。ヒットラーのような独裁者もドイツ国に対する愛やヨーロッパの平和、民族の一致を叫んだのですから、大義名分だけに惑わされて中身を見極めることを忘れてはなません。人々は「酩酊」(酒に酔うこと)や「遊興」などといったふしだらな生活は避けてはいるかもしれませんが、健康で、お金があり、人の注目をもらう生活であればそれで良いという考えの中に知らず知らずのうちにひきずりこまれていることも多いのです。

 もう一度言いますが、ここで言われている「肉」は「肉体」のことではありません。肉体は中立的なものであって、善でも悪でもありません。しかも肉体は、多くの場合、訓練すれば、その人に従ってくれます。私は、アメリカに来てながいこと自転車に乗っていなかったので、まだ自転車に乗れるだろうかと、この前、おそるおそる乗ってみました。大丈夫、乗れました。こどものころ覚えた自転車乗りは、長い間中断していても、身体が覚えていてくれたのです。このように「肉体の訓練」は必要ですし、効果があります。しかし、聖書が言う「肉」は訓練することはできません。「肉」というのは、神なしで生きていけるという傲慢や、神に逆らい真理を憎む人間の性質ですから、それは訓練して良くなるものではありません。「肉」とは、また、神に敵対してうちたてられた生活原理のことですから、それは捨て去るしかないのです。私たちは「肉」の性質を捨て、「肉」の原理を遠ざけて、新しい性質を受け、新しい原理に従って生きるのです。それがガラテヤ5:16にある「御霊によって歩む」ということなのです。

 三、聖霊と自制

 しかし、「御霊によって歩む」ことができるようになるためには、踏まなければならない段階があります。そのための第一歩は「御霊によって生まれる」ことです。主イエスは「肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5)と言われました。古い自分にどんなに磨きをかけても、それで神の子になれるのではありません。イエス・キリストを信じる時、聖霊が私たちのうちに働いて、私たちは新しく生まれ変わります。この「生まれ変わり」が無ければ、私たちは肉のままです。

 次のステップは「霊の人」へと成長することです。コリント第一3:1-3に「御霊に属する人」「肉に属する人」そして「ただの人」という言葉があります。「ただの人」というのは「生まれつきの人」、「聖霊による生まれ変わりを経験していない人」という意味です。本当なら、聖霊によって生まれた人は皆、「霊の人」「御霊に属する人」のはずなのですが、残念ながら、聖霊をいただいているのに、聖霊に従っていないクリスチャンもあって、そういう人々が「肉に属する人」と呼ばれました。聖霊がくださった新しい生き方にしたがって生きておらず、救われる以前の古い、罪の原理のままの生活をしているので、そう呼ばれたのです。「肉に属する人」は「キリストにある幼子」とも呼ばれています。この人たちは生まれ変わっていないわけではありません。キリストから切り離されているわけでもありません。「<キリストにある>幼子」と言われているように、キリストのものとされ、聖霊をいただいているのです。なのに「肉」に従って生活していますから、そこに大きな矛盾が生じてくるのです。「幼子」というと、良い意味では純粋で成長の可能性を秘めていることを表わしますが、この箇所では「わがままで身勝手な者」という意味で使われています。心理学者たちは、赤ちゃんや幼児は、何が心地よいことか何が心地よくないか、つまり「快・不快」の原理で生きていると言っています。成長するにつれて、「善・悪」や「損・得」が行動の原理になっていき、他の人のことを考えることができるようになっていくのですが、赤ちゃんはおなかがすけば泣き、ミルクをもらうと機嫌がよくなり、おしめがぬれるとぐずり、きれいにしてもらうとニコニコするといったように、全くの自己中心で、自分の感情の満足のためだけに生きています。大人がそんなことをすれば「あの人はインマチュアな人だ。」と非難されるのでしょうが、赤ちゃんは、大人のように格好をつけたり、隠したりせず、正直にそれをするので、かわいいと言って許されるのです。幼児になっても、自分がしたいことを、したい時に、したいようにするという自己中心性が強く残っています。「肉に属する者」も幼児のような振る舞いをするので、「キリストにある幼子」と呼ばれたのです。私たちは、いつまでもそうしたところにとどまっていてはなりません。「肉に属する人」ではなく「御霊に属する人」、「キリストにある幼子」ではなく「キリストにある成人」(コロサイ1:28)へと成長していきたいものです。

 そのために「御霊に満たされる」(エペソ5:14)というステップを踏む必要があります。御霊の満たしは、車にたとえるなら、ガソリンをタンク一杯に満たしてもらうようなものです。どんなにエンジンをチューンアップし、ボディをピカピカに磨いても、それで車が走るわけではありません。ガソリンがなければ車は走りません。「クリスチャンらしく振る舞う」ことだけを追い求めている人は目に見えるボディをピカピカにすることだけに心奪われているようなものです。自分の霊的な状態をまじめに点検する人は、こまめに車をチューンアップする人のようで、良いことです。しかし、御霊に満たされるのを求めるのを忘れてしまうなら、ガソリンを入れ忘れ、道の途中でストップしてしまった車のようになってしまいます。御霊に満たされるかわりに、人間の知恵と努力で自分を満たそうとし、「御霊によって歩む」かわりに肉の力でいたずらに走り回るようになっていくのです。私たちは御霊によって歩むため、御霊に満たされることをいつも求めていきましょう。

 聖霊によって生まれ変わり、聖霊に満たされたなら、「肉」との戦いがなくなるというわけではありません。おそらく逆でしょう。御霊によって歩むのでなければ、肉の願うままに生きるわけですから、そこには戦いはありません。しかし、御霊によって歩みはじめる時、かえって霊と肉との戦いを強く体験することでしょう。17節に「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」とある通りです。使徒パウロ自身もこの戦いを常に体験していました。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ7:15)「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ7:21)「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と言っています。しかし、同時に、パウロは聖霊による勝利を体験していました。それで「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と、私たちに命じているのです。

 「自制」は、この聖霊の働きによって与えられるのです。ガラテヤ5:22-23に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあるとおりです。ですから「自制」の訓練とは、とりもなおさず、聖霊に満たされることを求めることであり、聖霊に信頼し、聖霊に従って歩むという信仰の訓練に他ならないのです。何が御霊に属するものか、何が肉に属するものかをしっかりと見極めて、御霊に属するものを追い求め、御霊に属する者、霊の人、キリストにある成人となることを目指していきましょう。その時、私たちは御霊のくださる自制を働かせることが出来るようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、かつてはあなたを知らず「肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なう」者でした。罪の背後に「肉」という古い性質があることにさえ気がついていませんでした。しかし、キリストを信じ聖霊を頂き、ようやくそのことに気がつきましたが、罪との戦いの厳しさ、肉との戦いの深刻さが分かれば分かるほど、どのようにして罪からきよめられるのだろう、どうやって肉に打ち勝つことができるのだろうと悩む者たちでした。しかし、あなたは聖霊によって生まれ変わり、聖霊によって成長し、聖霊によって満たされ、聖霊によって歩む、新しい生き方を示してくださいました。そこに罪と肉に対する勝利があります。御霊に満たされ、御霊が私たちのうちに結んでくださる「自制」の実をいただいて、歩むことができますよう、私たちを導いてください。御霊の勝利を私たちにお与えくださる主イエスのお名前で祈ります。

8/21/2005