キリストを着る

ガラテヤ3:23-29

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3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 一、白い衣

 イースターの次の日曜日は「白衣(びゃくえ)の主日」と呼ばれます。古代にはイースターにバプテスマが行われるのが習わしになっていて、バプテスマを受ける人は、教会から「白い衣」を与えられ、それ着ました。バプテスマを受けた後も、この「白い衣」を、イースターから一週間、ずっと身に着け、次の日曜日にそれを教会に返したので、この日が「白衣の主日」と呼ばれるようになりました。

 「白い衣」は、正しさや清さを表します。ヨハネの黙示録に天上の礼拝が描かれていて、こう書かれています。「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」(黙示録7:9)そして、この「白い衣」を身にまとった人たちについて、「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです」(黙示録7:14)と説明されています。「血で白くした」というのは不思議な表現です。着物に血がつけば赤く染まり汚くなるはずです。ところが、神の子羊であるイエス・キリストが十字架の上で流された血は、人の罪をきよめ、その着物を白くするのです。「白い衣」を着た人たちとは、イエス・キリストの十字架が「私の罪のため」であったことを信じて、その血による赦しときよめを受けた人、言い換えれば「贖われた人」のことです。この「白い衣」はイエス・キリストの贖いによって与えられる「義」や「聖」を表すのです。

 私たちの多くは、何事においても「自分は正しい」と主張したり、「あの人よりはましだ」と考えながら生活しています。しかし、どこから見ても正しく、潔癖な人はどこにもいません。聖い神の前では、私たちの正しさや清さは、それは汚れきったボロ布のようでしかありません。イザヤ64:6に「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます」とある通りです。

 けれども、聖なる神は、同時に、恵みの神であって、私たちの着物が罪で汚れていると指摘するだけでなく、私たちのために、新しく、きれいな着物を用意してくださるのです。イザヤ61:10にこう書かれています。「私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」身分制度があった時代には、庶民は王族や貴族が着るような豪華なものを着ることを許されませんでした。しかし、ただひとつだけ例外があって、結婚式のときには、花婿は王子の服装、花嫁は王女の服装をすることが許されたのです。「花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくだる」というのは、神がイエス・キリストによって贖われた者をご自分の子どもとして愛し、天の王の王子、王女としてくださったことを表しています。贖われた者が着る「白い衣」には神の子どもとされた特権、また、その特権を与えてくださった神の愛も示されているのです。

 現代でも、たいていの場合、バプテスマを受ける人は、白いバプテスマ・ガウンを身に着けます。それによって、神の子羊イエス・キリストの血により罪が赦され、きよめられたこと、また、神の子どもとされたことを言い表すためです。

 二、古い人と新しい人

 では、イエス・キリストによる罪の赦し、また、罪からのきよめは、一度限りのことなのでしょうか。いいえ、私たちには日毎に赦され、きよめられる必要があります。そして、そのようにして神の子どもとして成長していくのです。バプテスマは神の子どもの誕生を表します。誕生のあとに成長が続き、神の子どもとされた者は、より神の子どもらしくなっていくのです。古代に、バプテスマを受けた後も、バプテスマの白い衣を着続けたのは、バプテスマがゴールではなく、むしろ、信仰生活の出発点であることを教えるためでした。神によって与えられた「白い衣」はバプテスマを受けたら脱ぎ捨てていいものではありません。もとの「古い服」に戻っていってはいけないのです。バプテスマの日から、天で再び「白い衣」を着せられる日まで、毎日着続けるべきものなのです。

 エペソ4:22-24では、信仰者はバプテスマによって「古い人」を脱ぎ捨て、「新しい人」を着たと言われています。こう書かれています。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」人は神のかたちに造られました。それは人間が他の動物にはない知能を持っているというだけでなく、神が持っておられる義や聖、また愛などの性質を神から分け与えられていることを意味します。ところが、人は罪を犯したため、その神のかたちを失ったのです。けれども神は、イエス・キリストを信じる者を新しく造り変え、本来の神のかたちを回復させてくださったのです。エペソ人への手紙にある「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人」とはそのことです。

 私たちがバプテスマの水の中に沈んだとき、私たちの「古い人」は水の中に沈んで死に、水から上がったとき、「新しい人」が誕生しました。しかし、この変化はバプテスマの時にすべて終わり、完成したのではありません。むしろ、古い人を脱ぎ、新しい人を着るという歩みは、バプテスマから始まって、生涯にわたって続けられ、深められていくものなのです。

 確かに古い人は死んだのですが、自分の中の新しい人が、まだ成長、成熟していないと、古い人が生きているかのような歩みをしてしまいます。物理学には「慣性の法則」というものがあります。ある物体にある力を加えると、妨げるものが無い限り、その物体は、その力に従うという法則です。例えば、ボールを転がしたら、そのボールは永遠に転がり続けるというものです。実際は摩擦や空気抵抗があるので、ボールはやがて止まってしまいますが、理論的には、ボールはいつまでも転がり続けるのです。「古い人」を脱いで、「新しい人」を着た信仰者も、今まで生きてきたものの考え方や生き方が働き続け、霊的な「慣性の法則」に従ってしまうことがあります。この世の力は、絶えず、信仰者に新しい人を脱ぎ捨てさせ、再び、古い人を着させようとしています。それは私たちが思う以上に強く働いているのです。

 ですから、ローマ13:12-14には、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たはずの信仰者にも、改めて、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るように勧められているのです。こう書かれています。「夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」

 イエス・キリストを信じる者は、キリストの「義」と「聖」という衣で覆われます。神は、その人の罪ではなく、キリストの「義」と「聖」をご覧になり、その人を受け入れてくださいます。「白い衣」は「救いの衣」です。では、「白い衣」は単に、人の罪を神の目から覆い隠すだけのものなのでしょうか。いいえ、それは、それを着る人の内面にまで働きかけ、人の内面を、外面にふさわしいものへと変えていくのです。

 三、キリストを着る

 ところで、ローマ13:14に「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」とあり、ガラテヤ3:27に「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」とありました。神が与えてくださった「白い衣」は、じつは、イエス・キリストご自身だというのです。「キリストを着る。」いったい、それはどういう意味なのでしょうか。

 イソップの寓話に、ライオンの毛皮を着たロバのお話があります。ロバがライオンの皮をかぶって歩き回わり、他の動物たちを脅かしていました。キツネがやってきたので、あいつもおどかしてやろうと、声を出したら、悲しいかな、それはライオンの声ではなく、ロバの声でした。それで、キツネが言いました。「お前が声を出さなきゃ、僕だってライオンだと思って逃げたかもしれないね。」これは、中身のない人は、どんなに身なりを整えて偉そうにしていても、一旦話し始めるとボロが出るものだという教訓です。では、「キリストを着る」とは、このロバのように、キリストになったつもりでものごとをふるまうということなのでしょうか。ある意味では「ノー」ですが、別の意味では「イエス」です。

 英語で神を信じるという場合 "I believe in God." と言います。信仰によって人は神ものとなり、神の中に入るのです。また、ガラテヤ3:27に「キリストにつくバプテスマ」("You were baptized into Christ.")とあるように、人はバプテスマによって、キリストの中に取り込まれるのです。ですから「キリストを着る」というのは、衣服がその人を包み込むように、信仰者がキリストのからだの中にすっぽりと入り込むことであると言って良いのです。もちろん「キリストのからだ」という場合、それは、人となったイエスのからだではなく、復活されたキリストの栄光のからだを指します。信仰者は、キリストのからだのひとつの部分となって、キリストに生かされ、キリストのために生きるようになるのです。ライオンの皮をかぶったロバは、ロバのままでライオンにはなれませんでしたが、キリストを着たキリスト者は、まことの神のかたちであるキリストに似た者に変えられていくのです。そして、自分をキリストの中に隠して、キリストの栄光を表すために生きるようになるのです。

 パウロは言いました。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1:20)ここで使われている「あがめられる」という言葉には「大きくする」という意味があります。この世の人は自分を「大きくする」のに必死です。自分を見せ、人の注目を浴びようとします。しかし、信仰者は違います。「私の身によってキリストがあがめられる」ことを求めます。「私でなく、キリスト。」それが、「キリストを着る」ということなのです。

 さまざまな職業には、それぞれの制服があります。制服を身につけると、自分の仕事に対する責任感が増します。牧師にも、カラーのついたシャツがあって、私は病院に行くときなど、それを着ていくことがあります。一目で牧師と分かってもらえるので、エマージェンシー・ルームでも優先的に入れてもらえ便利です。訪問した病室が二人部屋だったりすると、別の人からも “Pastor, pray for me.” と祈りを頼まれることもあります。そんなとき私は、牧師の服装に信頼してくだる方の期待を裏切らないよう、心を込めて祈ります。どんな人でも、会社の名前の入った制服を着たり、ネームタグを身につけて働くとき、おのずと、会社のために働こうという意識を持ちます。自分の失敗によって会社の評判を落とさないようにと心を使います。同じように、「キリストを着る」ことによって、私たちはキリストのために働き、キリストのために生きるという自覚を持ちます。キリスト者は、自分ではなく、自分がその名で呼ばれている「キリスト」の栄光を表そうとするのです。

 キリストは、罪ある者の罪を神の目から隠すための「白い衣」となってくださいました。神は私たちを、キリストを通して見てくださるのです。そうであるなら、今度は、私たちを通して人々にキリストを見てもらうようにすべきです。キリストを着せていただいた私たちは、どんな時も、それによって、キリストを証しするのです。制服のある職業を持つ人は、毎朝、制服に着替えてから出かけます。キリスト者の制服は「キリスト」です。「古い人を脱ぎ捨て、キリストを着る。」これは、毎日、毎日しなければならないことです。「脱ぎ捨てる」ことは悔い改めを、「着る」ことは信仰を表します。脱ぎ捨てるべきものを脱ぎ捨て、着るべきものを着る。毎日、毎日、常に新しくされて歩み出す。そんなきっぱりとした悔い改めと信仰の日々を、心から神に願い求めましょう。それによって、人々にキリストを示し、キリストがあがめられるように生活していきたいと思います。

 (祈り)

 イエス・キリストの父なる神さま。あなたは信じる者をキリストに結び合わせ、キリストの十字架とともに古い人に死に、キリストの復活とともに新しい人として生きるようにしてくださいました。私たちの一日一日は、このキリストの救いのみわざを生活の中に表していくためにあります。どうぞ、キリストを着て一日を始め、キリストをあがめるために生きる者としてください。私たちの救いの衣となってくださった主イエスのお名前て祈ります。

4/28/2019