啓示によって

ガラテヤ1:11-24

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1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。
1:18 それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。
1:19 しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。
1:20 私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。
1:21 それから、私はシリヤおよびキリキヤの地方に行きました。
1:22 しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。
1:23 けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、
1:24 彼らは私のことで神をあがめていました。

 一、再発見された福音

 「10月31日は何の日でしょう。」と言うと、すぐに「ハロウィーン」という答えが返ってきそうですね。アメリカではそれほどにハロウィーンがポピュラーです。ハロウィーンは悪魔崇拝にかかわっており、クリスチャンにとっては歓迎すべき行事ではありませんが、この日は人々の間に定着してしまっていますので、それぞれの家庭では子どもたちにキャンディをあげたりすることはさしつかえないと思います。このごろは、子どもの安全のために、家々を渡り歩かないよう、学校で催しをしたりするようになりました。多くの教会では、それを「ハーベスト・フェスティバル」と呼んで、私たちに穀物、野菜、果物の実りを与えてくださっている「収穫の主」に感謝する時としています。クリスマスやイースターも、もとから教会の祝日ではありませんでした。もちろん、クリスマスやイースターの出来事そのもの、神の御子が人となってこの世に来てくださったこと、私たちの罪のために十字架にかかり、三日目に復活されたことは、教会の土台とも言うべき事実なのですが、クリスマスの日やイースターの日は、もとはヨーロッパで祝われていた他の祝日の日だったのです。教会は、そうした行事、祝日を「贖って」それをクリスチャンの祝日に変えていきした。やがて、ハロウィーンも、クリスチャン的なものに変えられるようにと願っていますが、私は、10月31日が宗教改革記念日であることを忘れないで欲しいとも願っています。10月31日は、教会のカレンダーによると、All Saints Day(万聖節、諸聖徒の日)でした。今から487年前、1517年10月31日、アウグスト会の修道士マルティン・ルターが、免罪符についての神学的な議論を呼びかけ、「九十五ヶ条の提題」をウィテンベルク教会のドアに掲げたのが、10月31日でした。そこから「宗教改革」の運動が起こり、プロテスタント教会が生まれたのです。

 ルターの宗教改革というと、ローマ・カソリックの方々は、教会を分裂させた出来事として眉をひそめられるかもしれませんが、実は、宗教改革はプロテスタント教会ばかりでなく、ローマ・カソリックにも大きな変化をもたらし、ローマ・カソリックの改革のためにも用いられたのです。イエズス会の宣教師たちが日本にまで伝道するようになったのも、宗教改革の結果のひとつでした。かって、ローマ・カソリック教会は、プロテスタント教会を「異端」、「反逆者」あるいは「放蕩息子」と呼んだこともありましたが、今は、ローマ・カソリックとプロテスタントの対話や協力が進み、お互いが、お互いの足らなかったところを認め合い、お互いの神学や伝統を聖書に戻って確かめ合い、キリストにあっての兄弟として受け入れ合うようになってきました。ルターは、教会が聖書の真理に立ち返り、本来の姿を取り戻すことを心から願って立ち上がったのですが、今は、ローマ・カソリックもそれを認め、ルターとその後の改革者たちの労苦が報われようとしています。

 ところが、宗教改革から500年にもならないのに、プロテスタントのクリスチャンたちがルターや改革者たちのこと、また宗教改革記念日をも忘れるようになってきました。ローマ・カソリック教会がルターを評価しているのに、プロテスタント教会が彼の功績を忘れてしまっているという逆転現象が少なからず見られるような気がします。宗教改革、あるいは教会改革は16世紀に起こって、それで終わったわけではありません。その時教会は「改革されてしまった」のではなく、教会は今も改革され続けていかなければならないのです。教会を不純なものにしょうとする力はいつの時代にも働いており、また教会のかしらであるキリストも教会をきよめて聖なるものとしようとしておられるわけですから、ローマカソリック、プロテスタントを問わず、どの教会も常に「改革され続け」なければならないのです。何よって、改革されるかというと、もちろんそれは、聖書の真理によってです。大切なのは宗教改革記念日そのものよりも、教会が長い間忘れていて、改革者たちが再発見した聖書の真理ですが、その聖書の真理が忘れられているために、宗教改革記念日も忘れられているとしたら、それはとても残念なことです。宗教改革記念日を前に、もういちど、聖書の真理がどんなものなのか、そして、それがどこから来たのかを確認しておきたいと思います。

 二、神からの福音

 聖書の真理とは、何でしょうか。その中でもいちばん大切なことは何なのでしょうか。聖書は、聖書の真理のエッセンスを「福音」という言葉で言い表わしています。コリント第一15:1-2に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」とあります。ここに「よく考えもしないで信じたのでないなら」とありますが、随分現実的な物の言い方ですね。信仰を持つということは、たんに「キリスト教はいいなぁ」と思うことでも、「言っていることは良く分からないが、熱心に勧められたから信者になりましょう。」ということでもありません。救われるとはどういうことなのか、何から救われるのか、救われたらどうなるのかを、分かったうえで、信じるべきものだというのです。真心からの神への悔い改めと、キリストを主として、自分の人生と日々の生活にお迎えするという決断が必要なのですが、初代教会にも、雰囲気だけでキリスト教徒になった、悔い改めがあいまいなまま教会員になった人々がいたのかもしれません。しかし、私たちは、福音を正しく信じ、受け入れました。もし、スタートの時点で足りないところがあったら、その後、信仰がきよめられるように、福音をしっかり理解できるようにと、祈りながら努力していきましょう。

 福音の真理は、具体的には、イエス・キリストの死と復活にかかわる真理です。続くコリント第一15:3-5に「 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」とあります。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたこと、私たちをその罪から救い、永遠の命を与えるために復活してくださったこと、そしてそれを信じる信仰によってだけ救われるというのが、聖書の真理のエッセンス、福音です。「福音」は、もとのギリシャ語では「ユアンゲリオン」と言い、「良い知らせ、グッド・ニュース」という意味です。それは、私たちの救いを知らせているわけですから、まさにグッド・ニュースです。どんなに教育が普及してもそれで人間の罪がなくなるわけではなく、どんなに科学技術が発展しても、人は永遠の命を得ることはできません。イエス・キリストの十字架なしには罪の赦しも、きよめもなく、復活なしには、私たちの救いはないのです。イエス・キリストの十字架と復活はまさにグッド・ニュースです。

 「ユアンゲリオン」という言葉にはもう一つの意味があります。それは、王からその民に与えらた「公式の宣言」という意味です。たとえば、王室に王子が生まれた時、「今日、王子が生まれた。この者こそ、王国の世継ぎである。国民よ、王子の誕生を祝え。」といった「おふれ」が出るわけですが、「ユアンゲリオン」はそうした「おふれ」を指す言葉でした。実は、イエス・キリストが生まれた時も、この「おふれ」が出たのです。ルカ2:10-11に、羊飼いに天使が現われて「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と言ったとあります。ここで使われている「知らせに来た」という言葉は、「ユアンゲリオン」の動詞の形で、「おふれを告げる」ということを表わしています。神は、神の民に、神の御子の誕生を、天使によって正式に伝えたのに、それを聞いたのは羊飼いだけだったというのはいかにも残念なことですね。福音は私たちにとって「良い知らせ」であるだけでなく、神が権威をもって伝えようとしているもの、神から出たもの、私たちが耳を傾けるべきものでもあるのです。私たちは聖書に向かう時、また福音のメッセージを聞く時、それが、神からのものであることをしっかりと覚えていなければなりません。

 ところが、ガラテヤのクリスチャンは、福音が神からのものであることを忘れて、人間の教えに耳を傾け、福音を人間の教えと取り替えてしまったのです。ガラテヤ1:1-10からのメッセージでお話ししたように、ガラテヤのクリスチャンが傾いていった教えというのは「イエス・キリストを信じるだけでなく、割礼を受け、ユダヤの戒律も守らなければならない。」というものでした。こう主張する人々は「割礼派」と呼ばれましたが、割礼派の人たちは、キリストの十字架や復活をまっこうから否定したわけではありません。もし、それを否定していたら、ガラテヤのクリスチャンもそうした教えを受け入れなかったでしょう。割礼派の人々は「キリストへの信仰は結構なことだが、それだけでは足りない。キリストを信じるだけでなく、ユダヤの戒律を守ってユダヤ人のようにならなければならない。」と教えたのです。つまり、信仰にユダヤの儀式や戒律を守るという条件を付け加えたのです。ガラテヤの人々は、使徒パウロから教えられたイエス・キリストへの信仰を捨てるわけではない、自分たちは、キリストを信じること以上の良いことをしているのだと考えたわけです。しかし、信仰に律法を付け加えたら、信仰はもっと立派なものになるのでしょうか。そうではありません。信仰に律法を付け加えたら、信仰は台無しになってしまうのです。皆さんもよく御存じのお話ですが、昔、中国で、絵描きたちが宮廷に集められて、「蛇の絵を描け。」と命じられました。一番上手く描けた者が褒美をもらえるというので、みんな一所懸命描きました。その中で、「俺が一番絵がうまい。」とうぬぼれていた男は、早々と絵を描き上げ、時間をもてあまし、蛇に足を描きました。確かに彼の絵が一番上手く、褒美をもらうことになったのですが、その絵を良くみると、なんと蛇に足がついています。それで「これは蛇にあらず。」ということになって、褒美を取り上げられてしまったということです。ここから「蛇足」、「余分なもの」という言葉が生まれたというのですが、蛇の足と同じように、信仰に何かを加えたなら、それは信仰ではなくなってしまうのです。

 ところが、人間は、信仰に、いつでも何かを付け加えたがります。信仰とは、神の前に自分が罪人であることを認めること、「私には自分を救うことのできるものは何一つない。イエス・キリストの恵み以外には私を救うものはない。」と認めて、キリストの恵みだけにより頼むことです。信仰以外に戒律を守って救われるとするなら、「私は、戒律を守ることによって自分を救った。他の人のように戒律も守れないような人間ではない。」という誇りがいつしか生まれてて来て、キリストの恵みにだけ頼る純粋な信仰が損なわれ、キリストの十字架の死を無駄なものにしてしまうのです。現代では、ユダヤの戒律ではなく、道徳的であることや社会的なステータスを持っていること、教会で数多くの奉仕をしていることなどが、キリストへの信仰に付け加えるものになっているかもしれません。道徳的であることや、社会的に成功することは決して悪いことではありません。信仰から生み出された良い行い、御霊の実として与えられる品性は、私たちが追い求めるべきものです。神の祝福によって社会的なステータスを得ることは、ひとつのあかしとなるでしょう。しかし、すこしばかり道徳的であるからといって、真剣な罪の悔い改めを求めようとしないなら、また、社会的に成功したからといって、霊的な信仰の宝を見失ってしまっているとしたら、それはクリスチャンとして悲劇的なことです。奉仕も、献金も、神への愛や献身から出たものであれば、神はそれを喜んでくださいますが、それによって天国の扉が開かれる、神の恵みを買うことができると思っているとしたら、大きな勘違いです。真実な悔い改めの伴った信仰だけが、人を救い、きよめ、成長させると、福音は教えています。

 福音は、人からでない、神の、公式の、最終的な、権威ある告知です。公の書類に何かを付け加えたり、書き換えたりしたら犯罪になります。人間の権威によって書かれたものでさえ、それを破ると罰則を受けるとしたら、神の権威によって告げ知らされた福音に付け加えたり、変えたりするならどうなることでしょうか。ガラテヤでは、信仰に人間的な何かを付け加え、それを誇りたい人々が、キリストの福音を別のものに変えようとしていましたが、私たちは、そのようなことが、私たちのうちで起こることがないよう、神を恐れ、絶えず目を覚ましていたいと思います。

 三、啓示された福音

 使徒パウロは、ガラテヤ1:11-12で「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。」と言って、福音が人間からのものではなく、神からのものであることを強調しました。そして、福音が神からのものであることを立証するため、パウロは、自分の回心とその後のことを書いています。パウロはもとはユダヤ教徒でした。しかも、ユダヤの戒律を守ることに何よりも熱心なパリサイ派でした。彼の熱心は、自他ともに認めるところでした。ユダヤ教、とくにパリサイ派は、ユダヤの戒律とともに、伝承、言い伝えを重んじました。彼らは過去の学者たちがユダヤの戒律をどう解釈したかを丹念に調べ上げ、それに基づいて、ものごとを判断していました。どの学者がどう言い、それを後の時代の学者がどう解釈したか、さらに、次の世代にはその解釈がどのように理解されたかということを、延々と並べ立てるのが、彼らの方法でした。しかし、それが、どんなに古い起源を持っていようが、また、そこになるほどと納得させる論理があったにせよ、結局は、人から人へと伝えられてきた教えにすぎません。パウロは割礼派の人々の教えを「人間によるもの」にすぎないと一蹴していますが、それはパウロ自身がユダヤ教パリサイ派の最先端にいて、割礼派の教えが人間の体験や伝統、また論理から生み出されたものにすぎないことを一番良く知っていたからです。

 それに対して福音は、神からのもので、パウロは福音を「イエス・キリストの啓示によって受けた」(12節)と言っています。「啓示」という言葉は、日本語で「啓き示す」と書きます。英語では "revelation" と言います。"revelation" のもとになった "reveal" という動詞はヴェールをはがすという意味があります。美術作品の除幕式というのがありますね。作品は一般に公開されるまで、布で覆われています。その布が取り外されるまでは、人々は、それが絵画であれば、何がどのように描かれているのだろうかと、いろいろと想像します。それが彫刻であれば、どんなものがどのように表現されているのだろうかとと予想します。ああでもない、こうでもないという意見が飛び交うかもしれません。しかし、その作品を覆っていた布が取り除けられる時、いままでの想像も予想も、いっさい終わりを告げます。啓示というのは、このように、ヴェールが取り除けられて誰の目にも明らかにされることを言います。パウロは、ユダヤ教の教えというものは、布で覆われた作品を想像しているようなものだが、福音、私たちを救う神からのメッセージは、除幕式でヴェールを取り除かれた作品のように、神から直接的に示されたものだと言っています。

 パウロは福音を「イエス・キリストの啓示によって受けた」(12節)と言いましたが、「イエス・キリストの啓示」ということばには二つの意味があります。第一の意味は、福音はイエス・キリストによって啓示されたということです。パウロに福音を知らせたのは、イエスの弟子であったペテロやヨハネ、またエルサレム教会の指導者ヤコブでもありませんでした。イエス・キリストから直接受けたのです。ですからパウロは「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(12節)と言ったのです。私たちの信じている福音は、決して人間の体験や頭脳から出たものではありません。人間の考えだけなら、人間が神になるということは思いついても、神が人となるということは考えられなかったでしょう。また、人が神のために死ぬということは考えられても、神が人のために死ぬということは思いつきもしないでしょう。特に、ユダヤ教徒には、想像すら出来ないことでした。この福音は決して人から来たものではなく、イエス・キリストご自身が、私たちに明らかにし、与えてくださったものなのです。

 「イエス・キリストの啓示」の第二の意味は、イエス・キリストご自身が神の啓示であるということです。神は私たちの存在をはるかに越えて大きなお方であり、私たちの目には見えないお方です。人間にはそのヴェールを引き剥がして神を解剖し、調べ上げるというようなことはできません。神の側からそのヴェールを脱いでご自分を表わしてくださらないかぎり、私たちは神を知ることはできませんが、神はさまざまな方法でご自身を現わしてくださいました。神は、ご自分がつくられたこの大宇宙とそこにある法則、またこの地球とそこにある自然を通してご自分の知恵や力、またいつくしみを私たちに啓示してくださっています。また、人類の歴史を導いておられる神は、その歴史を通して私たちにご自身の計画を啓示してくださっています。しかし、最高、最大の啓示は、神が人となって、私たちの間に生まれ、生き、存在してくださったということです。私たちと同じ人間となられたイエスを見ることによって私たちは神を見ることが出来るのです。

 けれども、ある人は「私たちは、イエスの何千年も後に生きている。どうやってイエスを見るのか。」と言うでしょう。しかし、イエスは、二千年前に死んで亡くなられたお方ではなく、今も生きて私たちに出会ってくださるお方なのです。私たちがまるで目の前にイエスを見ることができるように、聖書にはイエスの姿が刻銘に描かれています。聖書が解き明かされ、みことばの前に悔い改める時、私たちの信仰とともに聖霊が働いて、私たちも、パウロがダマスコへの道でイエスに出会ったような、イエスとの出会いを体験することができるのです。パウロの回心を描いた使徒の働き9章に、パウロは、ダマスコへの道で光を見、声を聞きましたが、イエスの姿を見たとは書かれていません。パウロは、イエスとの出会いを「神は、御子を私のうちに啓示された。」(16節)と言っています。パウロの体験は、他の弟子たちがイエスの姿を直接見たとか、復活のイエスと一緒に食事をしたというような体験ではありませんでした。しかし、パウロは信仰によって、イエスを「彼のうちに」深く知ったのです。私たちもイエスの姿を直接見ることはなくても、パウロと同じように、信仰によってイエス・キリストを「私のうちに」示していただくことができるのです。神の啓示、とりわけ、私たちの心のうちに示されるイエス・キリストは、人間の知恵や努力、また悟りによってとらえられるものではありません。啓示は信仰によって受け取るものです。多くの学者、思想家、宗教家が、知恵を尽くし、思索を凝らし、また瞑想を重ねても得ることのできなかったものを、イエス・キリストを信じる者は、信仰によって得ることができるのです。ですから、恵みによって「私のうちに」示されたイエス・キリストを、信仰によってさらに深く知り、福音の真理を堅く保ちながら、喜びをもってイエス・キリストに従っていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝の礼拝に集いましたあなたを求める方々が、おひとりびとり、人の教えでなく、神の啓示による福音に耳を傾け、主イエスに出会う体験ができますように。また、あなたを信じる者たちが、あなたがおひとりびとりのうちに啓示されたキリストをさらに深く知り、神からのものと人からのものを区別して、福音の真理を守り、それに生きる者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/24/2004