モーセ―信仰の勇者(6)

出エジプト記3:1-12

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3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 一、逃亡者モーセ

 モーセというと、皆さんは、どのような人物として思い描きますか。モーセは民族解放の英雄であり、イスラエルの偉大な指導者でした。映画「十戒」などで見るような、人を近づけないような威厳に満ちた人物というイメージを持っている人が多いようです。確かにモーセには、人間の威厳以上のもの、神の栄光の輝きがありました。出エジプト記34章には、神と語り終えて山から降りてきたモーセの顔から光が放っていたとあります。人々が恐れてモーセに近づくことができなかったので、モーセは顔おおいをつけなければならなかったほどでした。しかし、ここでのモーセは、英雄でも、指導者でもありませんでした。一介の羊飼いでした。しかも、この時のモーセは、エジプトで殺人を犯して、ミデアン人の土地に逃れてきた、逃亡者だったのです。

 ここでモーセの生涯のふりかえってみましょう。モーセの百二十年の生涯は、ちょうど四十年ごとに分けることができます。最初の四十年間、モーセはエジプトの宮廷で過ごしました。次の四十年間、モーセはミデヤンの地で過ごし、最後の四十年間は、イスラエルを導いて荒野で過ごしました。

 ヨセフの時、エジプトに移住したヤコブの一族は、ヨセフの保護のもとにエジプトで大きな民族になるのですが、エジプトの王朝が代わってからは、エジプトはイスラエル人を奴隷にしました。モーセが生まれた時には、イスラエル人が増え広がるのを恐れたパロが、男の子が生まれたら、殺してしまうようにとの命令を出していました。モーセは、生まれてからしばらくは両親によって隠して育てられたのですが、隠し切れなくなった両親はモーセを籠に入れてナイル川に流しました。モーセは王女に拾われ、エジプトの宮廷で王女の子として育てられることになりました。

 歴史によりますと、トトメス三世の姉ハトシェプストは、エジプトの王パロに並ぶ力がってエジプトの女王として君臨したことがあり、諸外国の王子たちを集め、彼らに教育を施して、それぞれの国に送り返したことが知られています。そうすることによって、近隣の国々が親エジプトになることを狙ったのです。もしかしたら、モーセは、ハトシェプストに拾われ、他の国の王子たちと一緒に教育を受けたのかもしれません。ハトシェプストなら、ユダヤの赤ん坊を自分の子として育てても、誰も、文句がつけられなかったでしょう。またハトシェプストはシナイの鉱山に関心を持っていましたから、モーセが鉱山の監督となってシナイに住んだことがあったかもしれないのです。もし、そうだとしたら、そうした経験が、出エジプトの時、どんなにモーセの助けになったかわかりません。

 宮廷で育てられても、モーセは、やはりイスラエル人の子でした。エジプト人がイスラエル人を打っているのを見て、モーセは、心に憤りを覚え、そのエジプト人を殺してしまったのです。モーセは、自分のしたことが誰にも分からないように、エジプト人の死体を砂に埋めたのですが、それは、一日のうちに人々に知られるようになっていました。この時すでに王女は亡くなっていたのでしょう、何の後ろ盾もないモーセは、このことがパロの耳に入いる前に、エジプトを脱出し、ミデヤンの地に逃れてきたのでした。それは、モーセが四十歳の時で、それから四十年間、モーセはミデヤンの地で、羊飼いとして過ごしたのです。

 最初の四十年、モーセはこの世の栄光の中にいました。最後の四十年は、神の栄光の中にいました。しかし、ミデヤンの地での四十年、モーセにとっては苦労のない日々であったかもしれませんが、生きがいも、やりがいもない、モーセにとっては、人生の谷間のような日々でした。モーセは、昔を振り返ってそれをなつかしんだり、過去の失敗にさいなまれることはあっても、これからをどう生きていくかという、人生の目的も、目標も、そしてそのための力も失っていたのです。四十台からの人生の一番充実した時を無為に過ごしていたのです。

 私たちの人生は、この時のモーセのようではありませんか。過去にとらわれたり、これから何をしてよいのかわからないといった状態ではないでしょうか。もしそうなら、まず、正直に、そのことを認めましょう。そして、神に、「私を過去から救い出してください。この人生の谷間から、将来にむかって歩ませてください。」と求めましょう。神は、その求めにかならず答えてくださいます。神は、逃亡者モーセにも語りかけてくださったお方であり、私たちの求めに答えてくださらないわけはありません。

 二、神に召されたモーセ

 では、神がモーセを過去から将来へ、無為な日々から神からの使命を果たす日々へと招き入れてくださった時のことを見てみましょう。

 まず、神はモーセに、燃える柴を見せました。中東のこの地方では、乾季になると、あちらこちらに枯れた柴、ブッシュが点在するようになります。熱気のためにそれに火がついて燃えることがあるのです。しかし、枯れた柴は、岩山のあちらこちらに点在しているので、ひとつが燃えても、他に燃え広がることがなく、すぐに消えていきます。モーセは羊を追って、野や山を歩き回っていましたから、枯れた柴が燃える光景は、幾度となく見ていたことでしょう。ところが、今回は、いつもと様子が違うのです。何時間たっても、柴は燃え尽きないで、それは、赤々と燃えつづけていたのです。モーセは、「なぜ、柴が燃えていかないのか、焼け尽かないのか」と、その柴のほうに引かれていきました。モーセは、好奇心から不思議な光景に引かれて行きましたが、それによって神に出会うことになりました。決して燃え尽きることのない柴は、神の無限の力を表わしていました。生きるほんとうの力を失っていたモーセは、知らず知らずのうちに、そのような神の力に引かれていったのでしょう。

 次に神は、その燃える柴からモーセを呼びました。モーセが「主よ」と神を呼んだのではなく、神がモーセを呼ばれたのです。モーセは、この時、神をどう呼んでよいのかも知りませんでした。モーセは「私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」(出エジプト3:13)と、神に尋ねていまが、この時、彼は、神を「主」(ヤーウェ)と呼ぶことを知らなかったのです。モーセが神を呼び求める前に、神のほうからモーセに呼びかけています。神が、まず、私たちに呼びかけておられる姿は、聖書のいたるところに見ることができす。アダムとエバが罪を犯して、神の顔をさけて隠れた時も、神は「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけられましたね。

 また、神は、モーセに「モーセ、モーセ」と、その名を呼んで呼びかけられたように、私たちにも、その名を呼んで呼びかけられます。イエスがエリコの町に行った時、イエスは、その町のザアカイに、その名前で呼んで「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(使徒19:5)と言われました。ザアカイがイエスを知る前に、イエスはザアカイを知っておられたのです。イエスは「羊の牧者は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」(ヨハネ10:2-3)と言いました。私たちのほんとうの羊飼いであるイエスは、何十億という人がいても、そのひとりびとりの名を知って、その名で呼んでくださるのです。モーセが神の名をまだ知らなかった時も、神はモーセの名を知り、彼をすみからすみまで良く知っておられたのです。モーセはエジプト人から忘れられ、イスラエル人から見捨てられていました。しかし、神は決してモーセを忘れず、見捨ててはいなかったのです。

 神は今も、同じように私たちの名を呼び、私たちが応答するのを待っていてくださいます。私たちが、「神さま」、「天の父よ」、あるいは「主よ」と呼びかけることができるのもまた、「求めなさい」、「祈りなさい」、「わたしの名を呼びなさい」と、まず神が語りかけ、呼びかけていてくださるからなのです。モーセは、神の呼びかけに「はい、ここにおります」と答え、そこから神との対話が始まりました。そのように、私たちも、モーセのように「はい。ここにおります」と答えていきましょう。その時、明日に向かって生きる使命と力を、神からいただくことができるのです。

 それから、神はモーセに「足のくつを脱げ」と命じました。「くつを脱ぐ」という行為には、権利を放棄するという意味があります。ルツ記を読むと、ナオミが手放した畑地とナオミの嫁であるルツを買い戻す権利のあるナオミに一番近い親戚が、自分のはきもの脱いで、その権利をボアズに譲ったということが書かれています(ルツ4:7-8)。このことは、「くつを脱ぐ」ことの意味を良くあらわしています。モーセは、神からの召命を受ける時、自分の権利を主張せず、無条件でそれを受け入れるよう、求められたのです。

 そして神は、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。神は、もちろん、全世界の主であり、すべての人の神です。しかし、ここで、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言われたのは、多くの民族の中から、アブラハムとその子孫を選んで、ご自分の民とされた神が、どんなにか、ご自分の民を愛しておられるかを示すためでした。神は、主権者として、モーセに、イスラエル人を救い出せと命じることもできたのですが、まず、エジプトで苦しんでいるイスラエル人にたいしてどのような思いを持っているか、その心のうちをモーセに明らかにしています。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。」主は、モーセに、神と同じ思いになって、イスラエルを救い出すために立ち上がるよう、求め、モーセに命じました。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」これに対してモーセは「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」と答えています。「私はいったい何者なのでしょう」というのは、「私は何者でもありません。そんなだいそれたことはできません。」という意味にとれば、謙虚なことばに聞こえます。しかし、ここでは、モーセの冷たい心を表わしているように聞こえます。モーセは「私はいったい何者なのでしょう。」と言いましたが、モーセはイスラエル人なのです。エジプトで苦しんでいる人々と同じイスラエル人なのです。モーセはミデヤンの地で安楽な生活をしていますが、エジプトでは同じイスラエル人が苦しんでいるのです。しかも、モーセは、ほんとうはナイル川で死んでいたかもしれないのに、神の特別なとりはからいによって命を救われ、エジプトの宮廷で教育を与えられたのです。それは、今、神の使命を果たすための準備だったのです。神の心はその民イスラエルのために痛んでいるのに、モーセは、同胞のために心を痛めることなく、かってエジプトで与えられた特別な恵みを忘れてしまい、自分が神の民であることも忘れかけていたのです。

 聖歌に「エジプトに住める わが民の 苦しみ叫ぶを 聞かざるか 行けモーセ パロに告げよ わが民 去らせよと」という賛美があります。私たちは、自分の安楽な立場に寄りかかろうとしやすい者たちです。そんな私たちに、神は、神のこころを知るように求めておられます。私たちが、コンフォタブルな自分のはきものを脱いで、福音という靴を履き、神のあかしびととなるよう、願っておられるのです。

 しかし、神がモーセに与えた使命は、何百万というイスラエルをエジプトから救い出すという、途方もないことでした。かって、アメリカでも、南部の奴隷を北部に逃がしてあげる地下組織がありました。多くの人がそのために活躍しましたが、それでも、一度に救い出すことのできた人数は、わずかにすぎませんでした。神がモーセに与えた仕事は、北朝鮮から脱出する人を、ひとりふたり助けるようなものでなく、イスラエル人をひとり残らずエジプトから連れ出すというものです。それは、モーセにとって「困難な仕事」という以上に「不可能な仕事」でした。しかし、神は、私たちにできないことを命じるお方ではありません。神はモーセに「わたしはあなたとともにいる」と約束してくださいました。全能の神がこのことをしてくださるのです。モーセは四十年前、イスラエル人を苦しめていたエジプト人を打ち殺しました。その時、彼は同胞のために、自分の力で何かが出来ると思っていたのでしょう。しかし、その思い上がりはまったく打ち砕かれて、この時のモーセは自分の力の無さをいやというほど感じていましたが、モーセはこの時から、全能の神が無力なものをも用いてくださるということを学びはじめたのです。D. L.ムーディは、モーセの生涯についてこう言っています。「最初の40年間、彼は自分が何者かであると思っていた。次の40年間、彼は自分が何者でもないことを学んだ。そして、残りの40年間、彼は神が何者でもないものを用いてくださることを見出していった。」その通りですね。モーセは、神の前にくつを脱いで、自分の権利だけでなく、能力もすべて、神に任せていったのでした。

 この後、モーセは、言い訳けを繰り返し、エジプトに行くのをためらい、エジプトに行ってからも、神に対してつぶやいています。モーセは神の使命を果たすのに順調なスタートをきりませんでした。しかし、その後、彼は問題にぶつかるたびに神の前に出て祈っています。それは、この時、神の前に「くつを脱ぐ」という体験ができていたからです。彼は「くつを脱ぐ」という体験を繰り返して、神からの使命をまっとうすることができたのです。生まれつき信仰の勇者である人は誰もいません。信仰生活において完璧なスタートをきることのできた人は、おそらく誰もいないでしょう。だれもが失敗をします。しかし、失敗のあとに、失望のあとに、再び神の声を聞き、それに答え、「くつを脱いで」そこから一歩を踏み出す者が、信仰の勇者になるのです。私たちも、モーセのように、改めてその一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、失敗した者も、人に捨てられた者をも、あなたは決して見放さず、見捨てず、その名前をもって呼んでくださることを感謝します。あなたの呼びかけに、私たちは、今、悔い改めと信仰と献身をもって答えます。あなたが、あなたの民のために心を痛めておられる、その思いを、私たちの思いとして、あなたから私たちが受けた使命を果たしていくものとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/17/2003