時間の聖別

出エジプト記20:8-11

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20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

 一、聖別

 皆さん、「聖別」という言葉をご存知ですか。「せいべつ」といっても「男か女か」の区別ではありません。「聖書」の「聖」と「特別」の「別」という文字を使います。新共同訳では今朝の箇所、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」を「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と訳しています。ヘブライ語では קָדַשׁ(qadash)と言います。もともとの意味は「分離する」「隔離する」で、英語では “to consecrate” や “to sanctify” と訳されます。

 旧約の時代、さまざまなものが「聖別」されました。とくに、モーセの時代に神殿が作られたとき、それは「神の家」として聖別され、そこにある器具のひとつひとつにも「聖別の油」が注がれました。神殿で神に仕える祭司と、祭司が身に着ける衣服にも油が注がれ、聖別されました。

 神殿や祭司が聖別されたのは、神の民全体が聖別されたことのしるしでした。神は、エジプトの奴隷であったイスラエルの人々を聖別して神の民とされたのです。レビ記22:32-33にこうあります。「あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」とあります。神ご自身が聖なるお方であるので、神はご自分のものとした人々を聖別され、神の民に、神を聖なるお方とし、みずらかを聖別することを求められました。レビ記11:44にこうあります。「わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。」聖別は祭司だけでなく、すべての神の民に、また儀式だけでなく、生活のすべてに求められました。

 きょうの箇所を含んでいる「十戒」は、すべての神の民に、神を聖なるお方とし、みずからを聖別することを教え、それを生活の中で実践することを命じるものです。第一戒、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)は、神ご自身を聖別することを教えています。第二戒、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(4節)は神への礼拝を聖別すること、第三戒、「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」(7節)は神の「名」を聖別することを言っています。第四戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(8節)は時間の聖別を教えています。

 このように、神のものを神のものとするとき、他の人のものを尊重する心が生まれきます。第五戒、「あなたの父と母を敬え」(12節)は親や指導者を尊重することを、第六戒「あなたは殺してはならない」(13節)は生命の尊重、第七戒「あなたは姦淫してはならない」(14節)は結婚の尊重を教えています。第八戒「あなたは盗んではならない」(15節)は所有の尊重、第九戒「あなたは隣人について、偽証してはならない」(16節)は真理の尊重を言っています。第十戒「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」(17節)は、他の人の財産を尊重するというだけでなく、「貪欲」などの罪が生まれてくる、思いをきよめることを教えています。

 十戒は、「すべし、すべらかず」という戒律の寄せ集めではありません。それは、わたしたちに、神を聖とすることから始まり、内面をきよめ、生活が変えられていくこと、つまり、「聖別」を求めているのです。

 二、忘れられた聖別

 ところが、現代は「聖別」ということが忘れられているように思います。わたしはアメリカに来て、聖餐卓や講壇のうえに自分の上着やバッグなどを置いたり、聖餐卓に腰掛けたりするのを見て、驚きもし、また、そうした人たちを戒めてもきました。日本人はテーブルやデスクに腰掛けることはめったにしませんが、アメリカではよくあることです。しかし、聖餐卓や講壇は特別なもので、たんなる「家具」ではありません。わたしは、聖餐卓は主の晩餐のため、講壇は神の言葉の説教のために「聖別」されているものだと信じています。

 わたしは、聖書がマグカップのコースターがわりにされているのを見て、ずいぶんがっかりしたこともあります。聖書は “The Holy Bible” 「聖なる」書物です。たしかに大切なのは聖書に書かれている内容かもしれません。しかし、神の言葉を大切に扱う人は、それを書きしるした書物をも大切に扱うはずです。ある人が言いました。「わたしは本を積み重ねるとき、聖書を一番上に載せます。」

 礼拝堂は、かつては “Sanctuary”(聖所)と呼ばれ、聖餐卓があり、講壇があり、バプテスマ槽があり、中央に十字架が掲げられていました。そこは、礼拝のために聖別された場所でした。今では、多くの教会で、礼拝堂は “Worship Hall” とか “Auditorium” と呼ばれ、その正面はミュージシャンのためのステージになっています。礼拝者が仰ぎ見るのは、十字架でなく、ドラムやギター、キーボード、スピーカーです。説教者も、ミュージックスタンドに聖書を置いて語ることが多くなりました。いろいろな制約があって、理想どうりの建物が得られないことは、承知しています。けれども、その制約の中でも、礼拝と礼拝の場所を「天の窓」として聖別していくことがどういうことなのかを考え、それにふさわしいものを目指していく必要があると思います。

 わたしたちの内面の聖別が、外面のこと以上に必要なことは言うまでもありません。内面と外面は結びついています。内面の聖別が外面に表われ、外面の聖別が内面の聖別を示すのです。旧約時代に目に見えるさまざまなものが聖別されたのは、わたしたちに、わたしたちの内面と生活とを聖なるものとすることを教えるためでした。

 神殿を例にあげてみましょう。かつてイスラエルにあった神殿はもうありません。イエス・キリストが言われたように「キリストのからだ」が神殿です。そして、教会は「キリストのからだ」であるので、「主の家」となり、イエス・キリストを信じる者ひとりひとりもまた、「キリストのからだ」に属することによって、神殿となるのです。

 神殿には、外庭と、聖所と、至聖所がありました。キリストにある者が神殿だとすれば、外庭は「からだ」、聖所は「心」、そして、至聖所は「霊」に相当します。わたしたちの人格の最も深い領域、「霊」で神とのまじわりがなされます。そして「霊」が「心」、つまり、知性と感情と意志を導き、「心」が「からだ」を動かし、そこから、みずからを聖別する生活が生まれるのです。聖書は、内面の聖別が、実際の生活の聖別をもたらすと教えています。

 三、時間の聖別

 では、現代のわたしたちが、神が求めておられる「聖別」をとりもどすため、どんなことができるのでしょうか。聖書は、それを、時間の聖別から始めるよう勧めています。時間は、誰にでも平等に、一日24時間が与えられているからです。また、時間は、一度失ったら二度と戻ってこない貴重なものだからです。わたしたちは時間の中で生活し、人生を過ごしています。どんな生活をするか、どのような人生を送るかは、時間をどう使うかにかかっているのです。ですから、時間を聖別することから、生活の聖別、また、人生全体の聖別が始まるのです。

 時間の聖別の中で、基本となるのは「安息日」です。安息日は、神がいちばんはじめに聖別されたものです。創世記2:3に「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」とあります。神殿とその器具、祭司とその装束が聖別される、はるか以前、創造のはじめから、神は安息日を聖別しておられました。

 イスラムの人は金曜日、ユダヤの人は土曜日、クリスチャンは日曜日を「安息日」として守っています。曜日は違っても、「七日に一日」という原則は変わりません。神は収入の十分の一を神にお返しするよう求めておられますが、時間の場合は、七日に一日、七分の一を神のものとするよう求めておられます。

 安息日を守ることは、わたしたちの心身の健康を守ります。人にはほぼ七日のサイクルで繰り返されるバイオリズがあって、七日を越えて働き続けると、このリズムがくずれ、病気になると言われています。安息日を守ることや、安息日をほんとうに安息の日として過ごすことは、わたしたちの益となり、祝福となることなのです。安息日を守ることに限らず、神の命令を守ることは、すべて、わたしたちに大きな祝福をもたらします。神の戒めはどれも神のわたしたちへのいつしみによって定められたものなのです。

 エゼキエル書にこう書かれています。「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。」(エゼキエル20:12-13)「主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。」(エゼキエル20:19-20)

 安息日は神と神の民との「しるし」です。それによって、神がわたしたちの神であり、わたしたちが神の民であることが分かるのです。イスラエルの人々は神への信仰から離れたとき、まず、安息日を守らなくなりました。安息日を守らなくなったので、信仰から離れてしまったと言ってもよいでしょう。そして、まことの神を捨て、偶像に走り、神の民としての祝福を失ってしまいました。そんな神の民に、神に立ち返り、神の民としての祝福を取り戻すため、神は「わが安息日を聖別せよ」と言われたのです。安息日は、信仰にとってそれほどに大切なものなのです。

 安息日をはじめとして、日々、聖書に親しみ、祈りに励む時間を、わたしたちは、どれだけ大切にしているでしょうか。わたしたちは今年、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」との御言葉に導かれ、早くも四分の三を過ごしました。この御言葉がわたしたちのうちに実を結んだでしょうか。この御言葉が実現するために、明日から始まる残り三ヶ月を「聖別」し、それが神の祝福に満たされるよう祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、霊的訓練において、時間の聖別はかかせません。時間は、あなたからの賜物です。あなたとのまじわりのための時間を聖別する信仰を、あなたのために働く時間を生み出す知恵をわたしたちに与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/30/2018