休息のすすめ

出エジプト記20:8-11

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20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。—あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。—
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 しばらく前のことですが、ヤング・アダルト・フェローシップの人たちが牧師館に遊びにきてくれたことがあります。それは一月だったので、夕食の後、「新年の抱負」という話題に花が咲きました。「今年の抱負は?」という質問に、みんなが、口をそろえるようにして、「今年は、もっと遊ぼう。」「もっとゆっくりしよう。」と話し出しました。「教会に来てもみんなが忙しくしているけど、ほんとうに大切なことに集中して、しなくて済むことはやめて、もっとスローダウンしよう。活動を減らして、まじわりを深めよう。」という意見にみんなが賛成しました。「みんなで、シアトルにイチローを見にいこう。」という具体的な提案も出ました。けれども、その時から兄弟たちの仕事はますます忙しくなり、シアトル・ツアーはまだ実現していませんし、みんなが忙しさから解放されて神とのまじわり、またキリストにある兄弟姉妹のまじわりを楽しむというところにはまだ至っていないように思います。

 それで、今朝は「休息のすすめ」というテーマで、私たちの生活に休息が必要であること、また、どうしたら、休息を得ることができるかということをご一緒に考えてみることにしました。

 一、休息の必要性

 最初になぜ休息が必要なのかを考えてみましょう。

 第一に、それは、気力、知力、体力の回復のために必要です。人は、誰も、気力にも、知力にも、体力にも限りがあります。すぐに疲れてしまう人もあれば、少々無理をしても平気な人もいますが、やはり誰でも疲れます。からだが疲れるだけでなく、気疲れもします。他の人と全く関わりのない仕事は、おそらく世の中には何もないでしょう。上司や同僚、またお客さんとの人間関係の中で、誰もが、気を使っており、そのことで疲れを覚えるのは普通のことです。頭脳は使えば使うほどよく働くと言われていますが、やはり頭脳も疲れます。ですから、いつも仕事のことばかり考えている人は、いったん、その仕事から離れて、別のことに頭脳を使ったほうが、良いアイデアが浮かんでくると言われます。頭脳も休息が必要なのです。

 第二に、休息は私たちが病気にならないために必要です。もし、私たちが休みなく働いたらどうなるでしょうか。仕事の能率が下がり、失敗が多くなります。いつもイライラして人間関係が悪くなります。悪くすると、病気になったり、心の病に陥ったりします。「うつ病」という心の病がありますが、うつ病になると人に会うのを避け、自分に閉じこもるようになります。誰も自分を理解してくれない、みんなが自分を嫌っていると思うようになるのです。うつ病が進むと、からだを動かすことが億劫になり、いままできれい好きだった人が掃除をしなくなったり、洗濯をしなくなったりすることがあります。食事を作るのも、食べるのも面倒になのです。アメリカでは総人口の5%がうつ病患者だそうですから、こういう症状が出てきたら、専門的な治療を受ける必要があるでしょう。うつ病はいろんな原因で起こります。精神的な問題ばかりでなく、薬の副作用や内蔵の病気から起こることもあります。また、働きづめに働いて休息を取らないでいるとうつ病になりやすいことも良く知られていることです。からだや心が疲れて休息を必要としているのに、それを無視して働かせ続けると、からだや心は病気になることによって働くことを拒否しはじめます。輪ゴムはある範囲内だと伸びたり縮んだりしますが、限界を超えるとプッツンと切れてしまいます。ひとりびとり、その限界は違います。私たちは、自分の限界を良く知って、限界に達しない前に、からだに、頭脳に、心に休みを与えなければなりません。

 第三に、神ご自身が私たちに休息の必要なことを教えておられます。神は疲れることのない力に満ちたお方で、どんな休息も必要とされないお方ですが、人間には限界があり、疲れやすい存在であることを良く知っておられ、人間に休息の必要なことを教えておられます。神は、十戒の中に「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト20:9-10)と定め、六日働いたら、一日は休むようにしてくださいました。ヨハネの手紙第三に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるように、神は私たちのたましいの幸いとともに、生活の祝福、からだの健康をも気遣ってくださって、「安息日」を定めてくださったのです。私たちは「自分のことは自分が一番良く知っている。」と思っていますが、案外、自分で自分のことが分かっていないものです。「まだまだ休まなくても大丈夫」と思い込んでついつい無理を重ねてしまうのです。私たちを一番良くご存知のお方が、「あなたには休息が必要だ。」と教えてくださるときには、それに素直に従いたいと思います。

 二、休息の方法

 では、私たちはどのようにして休息を確保すれば良いのでしょうか。ここシリコン・バレーでは、休息の必要なことが分かっていても、休みを取れないほどの厳しい条件で働いている人が大勢います。自由になる時間がごくわずかしかない場合、どうすれば良いのでしょうか。その時間をどうしたら有効に使うことができるのでしょうか。

 第一に「スケジュールを一杯にしないよけたくさんのことを体験することだ。」と思っているようです。日本から一、二年の予定でアメリカに来ておられる人々は、その期間に、アメリカのいろんなところに出かけ、できるだけたくさんのことを体験しておこうと、無理な予定を組んだり、毎日を忙しくしてしまうということがあるそうです。アメリカに長くいる人でも、一ヶ月、一週間、そして一日のスケジュールを隙間なく詰め込んでいる人も多くいます。現代では「忙しそうですね。」と言うのは、誉め言葉であり、「暇そうですね。」というのは言ってはいけない言葉になっていますので、忙しくしていないと不安になるのです。スケージュールが空いているのがまるで悪いことかのように感じてしまうのです。

 しかし、スケジュールを全部塗りつぶした生活は、決して良いものではありません。私は日本にいたころ、書道をすこしばかり習っていました。作品を書いて持って行くと、私の先生はいつも、「墨の部分だけを見てはいけない。空白の部分を見て、それが豊かになるようにしなさい。」と教えてくれました。スケジュールをすべて埋めて満足している人の人生は紙を墨で真っ黒に塗りつぶしているだけで、どんなに精力的に動きまわっても、それは人生の実りにはならないでしょう。また、休息のない生活は休止符のない音楽のようなものです。音が鳴りっぱなしの音楽はうるさいばかりです。音のない部分があるからこそ音楽は美しいものになるのです。労働と休息の組み合わせが人生にリズムを与え、メロディとハーモニーを生み出すのです。

 神は、私たちの一週間に「六日働いて、一日を休む」というリズムを与えてくださいました。神は私たちに一日二十四時間、一週間百六十八時間を与えてくださっていますが、その七分の一は神のものだと言っておられます。神の時間までも奪って、そこに自分のスケジュールを押し込んでしまって良いのでしょうか。六日のうち一日は自分の予定、計画、スケジュールではなく、神のスケジュールで過ごす日があって良いのではないでしょうか。神が「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト20:8)と言われ、聖書が「それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」というのは、虚しいことばではないのです。神のものを神のものとして聖別すること、それによって私たちは休息を得るのです。

 休息を得るには、第二に、神を礼拝することです。神は「安息日」に、私たちの労働の疲れをいやし、休息を与えると約束されましたが、この休息は、単に仕事を休んで骨休めをすることによってではなく、神を礼拝することよって与えられます。なぜなら、神こそ、私たちのいやし主であり、休息のみなもとだからです。礼拝で神と出会うことなしには、本当の休息はありません。ですから、神は礼拝の日を「安息日」とし、「安息日」を礼拝の日とされたのです。

 聖書では「七」という数字はとても大切な数字で、「完全」表わします。神が七日間で世界を創造されても不思議ではありませんでした。神が七日で世界を造られたなら、創造の完全性をより表わすことができたかもしれません。しかし、神は、七日のすべてを創造のわざに使わないで六日で世界を創造され、七日目を人が神を礼拝し、神が人とまじわる日としてとっておかれました。このことは、この世界は、神を礼拝することによって完全になるということを教えています。神へ礼拝なしには世界は不完全なのです。現代人は、人は自分の力で存在しているかのように考えていますが、人間は神によって造られたものであって、神から離れては存在できないのです。人はその心に神を迎えてはじめて完全なものになるのです。私たちの一週間は、神への礼拝ではじめることによって意味あるものとなるのです。

 神はどこにでも存在されるお方で、いつでも私たちとともにおられます。ですから、日常生活のどんな場面でも神とまじわることができるのですが、「いつでも、どこでも」となると、残念ながら、人は神とのまじわりを後回しにしてしまい、自分のことを先にしてしまいます。それで神は、神とのまじわりのために時と場所とを定められたのです。その時とは、旧約の時代は安息日であり、新約の時代は主の復活の日、日曜日です。その場所とは、旧約の時代には神殿であり、新約の時代は教会です。神殿には罪のための犠牲をささげる祭壇があって、人々は祭壇に近づいて神を礼拝をしましたが、それは教会でも同じです。教会ではキリストの犠牲を覚える聖餐のテーブルがその祭壇です。私たちは、日曜日ごとにこの祭壇の前に来て、キリストが私の罪のために神の子羊としてご自分を犠牲としてささげてくださったことに感謝して礼拝をささげるのです。七日ごとにめぐってくるこの礼拝で、私たちは神に出会い、神から休息をいただくのです。

 現代の生活では、ふたつ、みっつのことを同時にするのはあたりまえになっています。たとえば、テレビを見ながら料理をする、ジョギングしながら音楽を聞く、運転しながら電話で話すなどです。私たちはそういうことに慣れてしまっているので、礼拝もまた同じようにしてしまうことがあります。礼拝以外のことは何かをしながら出来ても、礼拝は、他のことをしながらはできないし、してはいけないのです。英語で「祈りの時間」のことを "devotions" と言いますが、これは「専念する」(devote)という言葉から来た言葉です。礼拝とは他のことをやめてそれに「専念する」ことなのです。ですから礼拝のとき、賛美を歌いながらまわりをきょろきょろ見回したり、マンスリーレポートを読みながら説教を聴くといったことはできないはずです。「安息日」という言葉には「止める」「断ち切る」という意味があります。神を礼拝するためには、普段していることをいったん止める必要があります。今の言葉でいえば、"unplug" ということになります。テレビやラジオ、CD や iPod、そして携帯電話のスイッチを切ることはもちろんですが、私たちの心の中にあるスイッチを日常のことや仕事のことから、神と神のことばに切り替えるのです。忙しい中でやっと確保できた礼拝の時、祈りの時であればあるほど、それを大切にし、クオリティの高いものにし、神から与えられる休息を見出すときにしていきたいと思います。

 三、休息のすすめ

 こんなことばがあります。

ギリシャ人は言う、「賢くあれ。自分を知れ。」
ローマ人は言う、「強くあれ。自分を鍛えよ。」
ユダヤ教は言う、「きよくあれ。自分を従わせよ。」
快楽主義は言う、「感覚を用いよ。自分を楽しませよ。」
教育は言う、「知識を蓄えよ。自分を使え。」
心理学は言う、「確信を持て。自分を満たせ。」
物質主義は言う、「多くの物を得よ。自分を喜ばせよ。」
プライドは言う、「人より優れた者になれ。自分の地位をあげよ。」
禁欲主義は言う、「へりくだれ。自分を押さえつけよ。」
理論家は言う、「論理的であれ、自分をコントロールせよ。」
共産主義は言う、「集団をつくれ。その中で自分を守れ。」
ヒューマニズムは言う、「能力を伸ばせ。自分を信じろ。」
博愛主義は言う、「利己的になるな。自分を与えよ。」
この他にも、こうすればあなたの人生は満ち足りたものになる、こうすればあなたの事業は成功するなどという教えは山ほどあります。そうしたものを学べばきりがありませんし、そのすべてを守り行うことは誰にもできません。実際のところ、そうした教えを役立てている人はほとんどおらず、むしろ、それらが要求するものによって押しつぶされ、疲れきっている人のほうが多いのではないかと思います。

 主イエスの教えは、そうしたこの世の教えのひとつではありません。主イエスは、誰もが教えなかったことを教え、どれもが約束していないことを約束されました。それは、私たちにとって一番必要なもの、私たちが求めてやまないものです。主イエスは私たちに「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)と言われ、休息を教え、それを約束されたのです。これをさきほどあげたのと同じ言い方をすると、

主イエスは言う、「わたしのところに来なさい。自分を休ませよ。」
となるでしょう。罪の重荷を背負って生きている私たちにまず必要なのは休息です。新しい人生、力に満ちた日々は休息から始まるのです。

 主イエスは、私たちの罪の重荷を背負って十字架で苦しまれました。私たちを休ませるために、休むことなく働き、一睡もすることなく祈り、十字架に向かわれました。父なる神が旧約時代に約束された「安息」は主イエスの十字架の苦難によって私たちに与えられました。そして主は、毎週の礼拝で「わたしのところに来なさい。…わたしのくびきを負ってわたしから学びなさい。」と呼びかけておられるのです。皆さんは今、教会にまで足を運んできました。多くの人が、教会に来たいと願っていても、病気のために来れない、病気の家族の世話のために来れない、出張のために来れないという状況をかかえている中で、こうして教会に来ることができたのは、大きな神の恵みです。こんなに素晴らしい恵みをいただいているのですから、この恵みを無駄にしないでください。からだを教会に運んできただけで終わらず、「わたしのところに来なさい。」と言っておられる主イエスご自身のもとに、信仰によって近づきましょう。「私は疲れています。私に休息をください。」と、正直に祈り、重荷を主のもとにおろしまましょう。主イエスから休息と、いやし、回復と力をいただき、一週間を始めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエス・キリストは罪と死に打ち勝ち復活された後、弟子たちに何度も「平安あれ。」と言われました。暗黒の三日間を過ごした弟子たちは、主の平安により、赦され、いやされ、力を与えられ、希望を与えられました。主の復活の日ごとにここに集まる私たちにも、主の平安を与え、この世の重荷に疲れた身と心をいやしてください。私たちの休息のみなもとである主イエスによって祈ります。

8/5/2007