朽ちない愛

エペソ6:23-24

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6:23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
6:24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

 2006年1月8日にエペソ人への手紙からの連続メッセージをはじめ、2年間で36回のメッセージを語ってきましたが、今日(2007年7月29日)がこのシリーズの最後になります。今日のメッセージを含めて、全部で37のメッセージはすべて、私のホームページに載りますので、どうぞ最初から最後まで通して読み、エペソ人への手紙の学びに役立ててください。

 エペソ人への手紙の最後は、「どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。」との祝福の祈りで閉じられています。ここには「平安」と「愛」と「恵み」が祈られています。この三つはそれぞれにたいへん深い内容を持っていて、それぞれを何回かにわけて話しても足らないほどですが、今朝は、ごく簡潔に「平安」、「愛」、「恵み」の三つの言葉について触れ、それを私たちの祈りとしたいと思います。

 一、平安

 最初に「平安」という言葉ですが、これは「繁栄」とも訳すことができます。ヨハネの手紙第三に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるように、「平安」というのは、人が、あらゆる分野で神の祝福をいただいて満たされている状態をさします。詩篇1:1-3に

幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
とありますが、「その人は、何をしても栄える。」ということばのなかに、「平安」な状態が描かれています。聖書でいう「平安」は、目に見ることができる、神の具体的な守りや祝福を指し示しています。

 しかし、同時に、神の「平安」は目に見える祝福以上のものを示しています。「平安」は「平和」とも訳すことができ、エペソ人への手紙では「神との平和」という意味で使われていました。エペソ2:14-16に「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、…ふたつのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」とります。神から遠く離れ、神に敵対していた者たちが、キリストの十字架によって、罪の赦しを得、神と和解しました。つまり、神を敵としていた者が神を味方として持つことがでるようになりました。これが神との平和です。この神との平和がなければ、もうひとつの「平安」、目に見える守りや祝福も私たちのものとはならないのです。使徒ヨハネが「あなたが、たましいに幸いを得ているように…」と言っているように、たましいの幸いが先に来て、それから目に見える祝福が伴うのです。神の前に自分の罪を言い表わし、悔い改め、イエス・キリストの十字架のもとで赦しを受ける、そのような「たましいの幸い」があってこそ、「すべての点でも幸いを得る」ことができるのです。

 使徒パウロの時代は、大きな戦争のない平和な時代で、その平和は「ローマの平和」(Pax Romana)と言われました。しかし、この平和は、強大なローマ帝国が武力で国々を従えていることによって成り立っていたものでした。一部の人々は繁栄を楽しんだかもしれませんが、それは決して人々にほんとうの平和を与えなかったのです。だから、使徒パウロは、「ローマの平和」の時代であっても、キリストによって与えられる本物の平和を告げ知らせなければならなかったのです。今日の私たちも、使徒パウロが生きたのと似た時代に生きています。世界には戦争があり、内乱があり、飢餓があり、災害があり、エイズなどの恐ろしい病気があります。私たちが考える以上に世界は悲惨な状態にあります。しかし、それは外国のことであって、アメリカには目に見える形で及んではいません。私たちは「アメリカの平和」のもとに食べ物に事欠くことなく過ごし、夜も心配なく眠ることができます。ここシリコンバレーには最新の情報があり、あらゆるエンターテーメントがあって、人々はすべてに満ち足りているかのように見えます。しかし、そのたましいには、表面の繁栄とは裏腹に、不安や虚しさ、不満や思い煩いがあるのです。神の平安以外にそれをいやすものはありません。ピリピ4:7に「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」との約束があります。多くの人々に神の平安を分かち合うことができるためには、まず自分がこの平安を体験していなければなりません。神の平安を、私たちも真剣に祈り求めましょう。

 二、愛

 次に祈られているのは「愛」です。「平安」と同じように「愛」も誰もが求めるものですが、聖書でいう「愛」は、一般に言う「愛」とは違います。エペソ6:23-24では、それは「神からの愛」、「神に向かう愛」、そして「朽ちない愛」だと言われています。

 聖書の教える「愛」は、第一に「神からの愛」です。エペソ6:23では「どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。」と祈られています。「愛」はどこから来るのでしょうか。「父なる神と主イエス・キリスト」から来るのです。ヨハネ第一4:10は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と言っています。愛は人間からはじまるのではありません。人間からはほんとうの愛は出て来ません。人間は罪のためにほんとうの愛を失ってしまいました。人間の愛は自己中心なものになってしまい、人に良くしてあげるときでも、自分の栄誉のためや自己満足のためにしてしまうことがあります。「愛」を祈り求めるというのは、人間の愛を高めようとすることではなく、自らにほんとうの愛のないことを認めて、神からの愛を求めることなのです。

 聖書の教える「愛」は、第二に、「神に向かう愛」です。「信仰に伴う愛」ということばがあるように、クリスチャンは、信仰によって神の愛を受け取りますが、同時に、信仰によって神に愛をささげるのです。信仰と愛とは切っても切り離せない関係にあります。信仰がなくては愛を受け取ることができません。私たちは信仰によってだけ神の愛を知ることができ、愛の神を受け入れることができるからです。信仰のない愛はほんとうの愛ではありません。しかし、神を信じるとは、神が存在されることを、たんに知識として認めるだけのことではありません。それ以上のものです。ガラテヤ5:6に「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」とあり、コリント第一13:2に「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」とあるように、信仰は愛によって表現されなければなりません。愛のない信仰も本物ではありません。神を信じるとは神を愛することです。

 クリスチャンは、神の愛を受けるだけの存在ではありません。神の愛に応えて神を愛する存在です。聖書では、キリストを信じ、キリストに従う者たちは「弟子」、「兄弟たち」、「信者」、「仲間」、「この道の者」、「クリスチャン」など、さまざまな呼び名で呼ばれていますが、「神を愛する者」というのもクリスチャンに宛てられた素晴らしい呼び名のひとつです。それはローマ8:28にあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」良く知られている聖句ですが、ここで「神を愛する人々」というのはクリスチャンをさしています。ローマ1:7ではクリスチャンは「神に愛されている人々」(the beloved of God)と呼ばれ、ローマ8:28では「神を愛する人々」(those who love God)と呼ばれています。この両方とも真実です。神に愛され、神を愛する人々、それがクリスチャンです。

 聖書の教える「愛」は、第三に「朽ちない愛」です。エペソ6:24に「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。」とあります。ここでもクリスチャンは「主イエス・キリストを愛する者」と呼ばれていますが、どのような愛で主を愛するのかというと、それは「朽ちない愛」によってだというのです。この世のものはすべて過ぎ去ってしまいます。人間的な愛も、親切も、善意もやがて朽ちていきます。しかし、神の愛はいつまでも残ります。エペソ人への手紙では、この愛は、キリストと教会との間にある愛として描かれています。エペソ5章に、キリストは「教会を愛し、教会のためにご自身をささげられ」、教会をご自分の花嫁としてくださったとあります。結婚は恋愛とは違って永遠の愛を誓いあうことです。キリストが教会をご自分の花嫁とされたというのは、キリストが永遠の愛、変わらない愛、朽ちない愛を、教会に対して誓ってくださいました。キリストの花嫁である私たちもまた、同じ愛でキリストを愛するのです。

 神が、まず私たちに求められるのは、私たちが何かができること、神に何かを与えることではありません。全能の神は、私たちの助けなしにすべてのことがおできになり、すべてのものを持っておられるお方です。神が、なによりも私たちに求められるのは、私たちの神への愛です。神が私たちに求めておられる「完全」も、愛における完全です。神に対して何の感動もない、いわゆる「立派なクリスチャン」よりも、たとえ、弱さや欠けがあっても、神に愛されていることに常に感動し、神への愛がその心に燃えているクリスチャンを、神は求めておられます。コリント第一16:22に「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」とあります。大変厳しいことばですが、使徒パウロの心には、こう書かずにはおれないほどに、キリストへの愛が燃えていたのです。このことばは、初代教会で聖餐の時に使われました。聖餐にあずかろうとする者は、自分は神を愛しているだろうか、「朽ちない愛」で愛しているだろうかを点検するよう、呼びかけられたのです。これから主の晩餐のテーブルに近づこうとしている私たちも、「朽ちない愛」で私を愛してくださっているお方を、心から愛しているかどうかを点検しましょう。そして、その愛を真剣に祈り求めましょう。

 三、恵み

 最後に、「恵み」という言葉を見ましょう。使徒パウロは、どの手紙にも、その最後に「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」あるいは「恵みがありますように。」と書いています。手紙の最後に "Grace to you!" と書くのは、パウロの慣わしでしたが、パウロは、それを単にならわしとして書いたのではなく、こう書き記すことによって、この手紙の主題である「恵み」を再確認しようとしたのです。

 使徒パウロがエペソ人への手紙で論じてきたのは、じつに「恵み」でした。エペソ2章では、神に逆らい、自分の欲望のままに生きていた者が救われたのは恵みによってである、また、神の民とは縁もゆかりもない者たちが、神の民とされたのはじつに神の恵みによってであったと記されていました。エペソ3章では、福音に逆らい、教会を迫害してきたパウロが、福音を宣べ伝え、教会を建て上げる使徒とされたのも恵みによってであるとしるされています。使徒パウロは「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられた」(エペソ3:7-8)と言って、神の恵みをあかししています。

 エペソ人への手紙は、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(エペソ1:2)との挨拶で始まり、「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。」という祈りで締めくくられています。エペソ人への手紙は、恵みで始り、恵みで終わっています。そのようにクリスチャンの生活も恵みで始り、恵みで終わります。私たちのキリストとの出会いはまったくの恵みの出来事でした。キリストにあっての成長や神への奉仕もまた恵みの結果です。そして、地上を去る時もまた、恵みによって、永遠の住まいに迎えられるのです。

 ある人が「恵み」を定義してこう言いました。「恵みとは、それを受ける資格のない者に対する神の愛である。」ですから、神の恵みを求める者は、自らが神にふさわしくないことを認めることから始めなければなりません。ちょうど、自分が不安であることを認めなければ「平安」を求めることがなく、自分のうちに愛がないことを認めなければ神の「愛」を求めることもないのと同じです。多くの教会では聖餐のとき、聖餐にあずかる者たちが、「私にはあなたをお受けする資格はありません。ただ、おことばをください。そうすれば、しもべはいやされます。」と祈ります。これは、主イエスにしもべのいやしを願い出たローマの百人隊長に、イエスが「行って、直してあげよう。」と言われたとき、それに答えて言ったことばです(マタイ8:8)。百人隊長は、ユダヤ人でもない自分には、聖なるお方をお迎えする資格がないと考えてそう言ったのです。同じように、私たちが聖餐にあずかることができるのは「権利」や「資格」によってではありません。聖餐にあずかる者には、父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けていることが求められていますが、バプテスマもまた恵みによって授けられたものです。聖餐は恵みによって与えられるものです。ですから、百人隊長のように、謙虚に神の前に出る者が、聖餐によって神の大きな恵みにあずかることができるのです。へりくだって神に近づきましょう。神の恵みを真剣に祈り求めましょう。神は「恵みあれ!」とのことばをもって、聖書に説かれている神の恵みの現実を私たちに体験させてくださるのです。

 (祈り)

 全能の父なる神さま、私たちはあなたのくださる平安によって生かされ、あなたの変わらない愛によって働き、あなたの恵みによってあなたに近づくことができます。私たちは、聖書のおことばのとおりにそれらのものを求めます。平安と、愛と、恵みとを、あなたの御子イエス・キリストによってお与えください。聖餐によってそれを深く体験し、行って人々に、あなたの平安と愛と恵みを分かち与えるものとしてください。聖霊とともにあなたの栄光のうちにおられる主イエスのお名前で祈ります。

7/29/2007