私のためにも

エペソ6:19-22

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6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
6:20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
6:21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
6:22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。

 一、祈りによる戦い

 エペソ人への手紙の6章には、霊の戦いのことが教えられています。私たちは、霊の戦いに備えて、神の武具、「真理の帯」「正義の胸当て」「福音の備え」を身につけ、「信仰の大盾」、「救いのかぶと」、そして「御霊の剣」、つまり神のことばを手にとらなければならないということを学んできました。こうした武具を身につけたなら、次にクリスチャンがしなければならないのが祈りです。クリスチャンは祈りによって霊の戦いをするのです。

 神の武具を身に着けても、祈らなければ、戦いを投げ出してしまうことになります。戦いを投げ出したら、相手に「不戦勝」を与えてしまいます。相撲で、休場すれば、相手に白星を与えるのと同じです。今の時代、サタンが勝ち誇っているように見えるのは、クリスチャンが戦うべき戦いを戦わないために、彼にたくさんの「不戦勝」や「白星」を与えているからかもしれません。ちょうど、ペリシテ人と戦っていたイスラエルの人々が背丈が2メートル80センチもある巨人ゴリアテを見て恐れをなし、彼と戦おうとしなかったのと似ています。ゴリアテは確かに強かったでしょうが、決して勝てない相手ではありませんでした。それが証拠に、サムエル記第一17章を見ると、ダビデは石投げと五つの石ころだけで彼に立ち向かい、しかも、一撃のもとに倒しています。ダビデは剣も槍も持たずに、完全武装したゴリアテを倒したのですが、実は、ダビデには目に見えない強力な武器があったのです。ダビデは、神、主の名をののしったゴリアテに対して「万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう」と言いましたが、「万軍の主の御名」がダビデの秘密兵器だったのです。サタンが最も恐れるのは「主の御名」です。クリスチャンが主の御名によって祈るとき、サタンは逃げ去るのです。

 主イエスはゲツセマネの園で眠りこけてしまった弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。」(マルコ14:38)と言われました。クリスチャンは祈りによって自分の弱さに、この世の悪に、そしてサタンの誘惑に勝つことができます。祈らなければ、祈り続けていなければ、信仰の戦いに、また霊の戦いに敗北してしまいます。

 二、祈りの妨げ

 祈ること、祈り続けることはクリスチャンにとって大切なこと、いや、なくてならないことです。しかし、祈り続けることは、決して努力なしにできることではありません。さまざまな祈りの妨げがあります。本気で祈ろう、祈り続けようと努力してきた人は、それぞれ、祈りを妨げようとするものを体験してきたことと思います。

 第一に、時間がないという妨げがあります。じっと座って祈ることができないほど、忙しさに追い回されている人が大勢います。けれども、どんなに忙しい中でも決して祈れないわけではありません。ある人は、職場に向かうのに15分早く家を出て、静かなところに車を停め、車の中で祈っていますと話してくれました。このごろは、飛行機に乗るのにかなり早く空港に着いていなければなりませんので、出張の多いある人は、「空港と飛行機の中が私にとっての祈りの場です。」と言いました。それを聞いた別の人が「飛行機に乗って空を飛ぶときは、天に近いので、『天のお父さま』と祈るにはいちばんいいときですよ。」と冗談をいっていました。

 祈りだすと、10分、15分、30分があっという間に過ぎていきますが、ごく短く、瞬間的に祈ることもできます。たとえば、ネヘミヤがペルシャ王の献酌官だったとき、エルサレムがまだ荒れたままになっていることを聞いて、王の前でしおれていたことがありました。ネヘミヤの表情を見てとった王は、彼に「どうしたのか。」と尋ねました。それでネヘミヤは祖国の状況を王に告げました。すると王が「わたしに何を願うのか。」とネヘミヤに聞いてくれました。ネヘミヤにとっては、千載一遇のチャンスでした。ネヘミヤは、王に答える前に、瞬間的に、神に祈りました。ネヘミヤ自身がネヘミヤ記に「そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた。」と書いています。その祈りは「神よ。この機会を感謝します。王に願うべきことばを与えてください。それが受け入れられますように。」というごく短い、心の中での祈りでした。王に願いを話す前に、まず神に導きを求めたのです。それは瞬間の祈りでしたが、その祈りに神は答えてくださり、ネヘミヤは王からの寛大な援助と強力な保護を受けることができたのです。

 神との祈りのホットラインはいつもつながっています。人間の側から切ってしまうことはあっても、神の側から切ってしまわれることはありません。毎日イーメールとにらめっこしながら仕事をしているときでも、ひとつのメールから次のメールに移る時、目を閉じて、「神さま、いまひとつの仕事がかたづきました。また、祈りに戻ってきました。短い祈りですが、私の祈りを聞いてください。」と言って祈り、そしてまた仕事に戻ると良いのです。祈りのホットラインは、一時間おきにでも、30分おきにでも、一日に何度使っても良いのです。祈りのためにまとまった時間をとることができないときでも、短い祈りを数多くささげることによって、神との祈りのまじわりを保つことができます。

 第二に、疲れきって祈れないという場合があります。疲れきって聖書を開くのもおっくうになることがあるかもしれません。そのような時は、身も心も神の手にまかせる祈りをすると良いのです。そのような祈りを Contemplative Prayer と言いますが、私は、ソファーに深く腰をかけ、深く呼吸をして、思いを神に向け、「ただ Jesus とだけ唱えなさい。」と教わりました。それを実行してみましたが、まず、今まで耳に入らなかったエアコンの音、車の音、飛行機の音が聞こえてきました。窓が閉まっているのに小鳥の声までも聞こえてきました。いろんな思いが起こってきますが、それを去らせていくうちに、主イエスだけが心を占めるようになりました。主イエスが私の思いの中に入ってくださる、それを満たしてくださるという体験でした。私は、このような祈りによって心と身体の疲れをいやされました。「疲れて祈れない。」ということがありますが、「祈らないから疲れがいやされない。」ということもあります。疲れたときこそ、主イエスのお名前を呼んで、主に身をまかせる祈りをしてみようではありませんか。

 第三に、あまりにも大きなショックがあって、祈れなくなってしまうこともあります。榊原 寛先生は、交通事故で息子さんを亡くされた後、しばらくの間祈れなかったと言っておられました。祈ることが仕事である牧師が祈れなくなる、「祈りなさい。」と教えてきた者が、祈ることができない。それはどんなに苦しいことだったかと思います。私たちも、苦しみの大きい、小さいはあっても、同じような体験があるのではないでしょうか。そんなときはどうしたら良いのでしょうか。まず、主イエスに祈っていただくのです。主イエスはペテロに言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)ぺテロは、ゲツセマネの園で捕まえられた主イエスの後を追って、大祭司の官邸の中庭に潜り込んだのですが、「おまえはイエスの弟子だろう?」という声に恐れをなして、三度も「おれはそんな者ではない。イエスなど知らない。」と言って主イエスを否認してしまったのです。ぺテロは自分の罪にさいなまれ、どん底に落ち込んでしまいました。ぺテロは、十二人の一番弟子として、イエスのご受難のときに、他の弟子たちのために、祈り、彼らをささえなければならなかったのに、彼自身が祈ることができなくなってしまっていたのです。けれども彼はそこから悔い改め、再び立ち上がることができました。何によってでしょうか。主がぺテロのために祈ってくださった祈りによってです。「祈れないほどの苦しみに遭ったときも、私が支えられたのは、主イエスが私に代わって祈ってくださっていたからだ。」という体験をみなさんも持っておられると思います。「シモン、シモン」と名指しで「わたしは…あなたのために祈った。」と言われた主は、私たちにも、その名前を呼んで「わたしは…あなたのために祈った。」と言ってくださるのです。

 そうです、主イエスが祈ってくださるのです。そして、さらにもうひとりの助け主、聖霊も私たちのために祈ってくださいます。聖書は「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)と教えています。クリスチャンは、聖霊のとりなしによっても保たれています。

 三、クリスチャンのとりなし

 私たちは第三の「とりなし」も持っています。それは、聖徒たちのとりなしです。他のクリスチャンが私のために、私とともに、また、私にかわって祈ってくれる「とりなし」です。

 使徒パウロは、この「とりなし」の祈りの力をよく知っていました。ですから、彼自身が、懸命に人々のために、諸教会のために祈るとともに、他のクリスチャンに「私のために祈ってください。」と「とりなし」をお願いしています。ローマ人への手紙には「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(15:30)と書き、エペソ人への手紙では、「私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」(エペソ6:19-20)と、二度も「私のために祈ってください。」と書いています。そればかりでなく、「あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。」(エペソ6:21)と言って、テキコに「エペソ人への手紙」と、自分の祈りの課題を托して、エペソ教会に遣わしています。

 真実なクリスチャンは、自分が神の前に足らない者であることを知り、自分の弱さを知っています。私たちは誰も、自分ひとりだけで信仰の戦いを戦い、霊の戦いを戦いぬくことはできません。自分の祈りだけでは足らない、もっと多くの祈りが必要であることを知っています。ですから、自分自身で真剣に祈るとともに、他のクリスチャンにも「祈ってください。」と願うのです。自分で十分に祈れないときはなおのこと、「祈ってください。」と課題をたずさえて祈り会にやってくるのです。

 以前も話しましたが、「祈り会」は決して良く祈ることができる人たちだけの集まりではありません。むしろ、どう祈ったらよいかを学びたい、ひとりでは祈れないので祈ってもらいたいと願う人たちのためにあります。ですから、励んで祈り会に出ていただきたいのですが、もし、祈り会に出席できないときでも、祈りの課題を知らせてください。連鎖祈祷のシートの最後に、「祈りの課題」を書く欄がありますので、そこに課題を書いて、私に渡してくださるか、献金の時に袋に入れてください。祈りの課題の中には個人的なものもありますので、そういう場合は、「牧師だけで祈ってください。」のところに印をつけてくだされば、私だけで祈り、他の人にはシェアしません。私は個人的な課題は注意深く扱っています。みなさんも個人的な課題を聞いた場合、それを注意深く扱っていただきたいと思います。間違ってもそれが噂の種になるようなことのないようにしてください。祈りの課題は具体的なほうが良いのですが、中には具体的にシェアできないこともあります。そのようなときは詮索するようなことをせずに、そっと祈ってあげましょう。病気の人は、具合が悪いことだけでつらいものです。どんな症状があるのか、どんな薬を飲み、どんな治療を受けているのかなどにいたるまで、まるで医者が患者に聞くようなしかたで聞かれると、もっとつらくなります。くわしいことがわからなくても、神はすべてを知っておられるのですから、その人のために祈ることができます。神は、あわれみ深く、恵み豊かで、やさしいお方です。とりなしの祈りは、神のやさしい心で祈るものです。本当の「とりなし」とは、人のために祈ってあげたという自己満足のためではなく、その人の霊的なさいわいを願って祈ることです。

 こんな実際の話があります。ある宣教師がアフリカの小さな村の診療所で働いていたのですが、彼は、二週間おきに町まで生活物資や診療所で使う薬の買出しに行っていました。町に出て再び村に帰るのに二日かかり、途中、野宿をしなければなりませんでした。この宣教師がいつも決まって町に買出しに行くのを知っていた町のならず者たちが、宣教師を襲って、金品を奪おうとしました。野宿して寝込んでいる宣教師を見つけて襲おうとしたのですが、宣教師のの周りに二十六人の護衛がいるのを見て、彼らは勝ち目がないと思って逃げ出してしまいました。この宣教師は、町に行った時、そのならず者のひとりがけんかをして怪我をしているのを見て、その手当てをしてやっているときに、そのことを聞いたのです。もちろん、宣教師には護衛などだれひとりいません。宣教師は、この不思議な出来事はきっと神の守りに違いないと確信して、神に感謝しました。

 このことがあって、しばらして宣教師は帰国して、ミシガンの自分の教会で、この話をしました。すると、ある男性が興奮して「それはいつ起きたのですか」と尋ねました。すると、その男性は、その時間をアメリカの時間に換算して、「あなたがならず者に襲われたちょうどその時間に、私たちはあなたのために祈っていました」と言いました。そして、彼は皆に向かって言いました。「その時、一緒に祈っていた人は、皆ここに来ているはずです。立ってください」と言いました。宣教師が立ち上がった人を数えたら、なんと二十六人でした。宣教師をガードしていた二十六人の護衛の数と同じだったのです。一同は、神が人々の祈りを用いて宣教師を守ってくださったことを確信することができました。

 祈りには力があります。「とりなし」の祈りにはもっと力があります。私たちの教会が、「私のためにも祈ってください。」という祈りのリクエストで満たされ、みんなが愛をもって他の人のために祈り、祈りが次々とかなえられていくのを見ることのできる教会となりますように!

 (祈り)

 私たちの祈りに、愛をもって耳を傾けてくださる父なる神さま、あなたは、私たちに「祈りなさい。」と教えるだけでなく、「祈ってもらいなさい。」とも教えてくださいました。私たちに、主イエスのとりなしの力、聖霊のとりなしの力、そして、聖徒たちのとりなしの力をも、体験させてください。私たちの間に、祈り、祈られる信仰のまじわりを増し加えてください。あなたの右でとりなし祈ってくださる主イエスのお名前で祈ります。

7/22/2007