聖霊による祈り

エペソ6:18-20

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6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
6:20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 最近、礼拝で聖霊についてお話ししています。聖霊は人格を持ったお方です。イエスと共に、また、イエスに代わって私たちを助けてくださるお方です。聖霊は私たちを真理に導き、私たちの日々の歩みを満たし、私たちの救いの保証となり、私たちに救いの確信を与えてくださるお方です。そういったことをお話してきました。

 一、まず、祈る

 さて、先週は、神の言葉は、聖霊が私たちに与えてくださった「剣」であり、私たちはこの「御霊の剣」によって信仰の戦いや人生の戦いを戦うことを学びました。エペソ6:17の「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」との言葉の後には、「その剣をふるって戦いなさい」などという言葉が続くだろうと、誰もが思います。ところが18節からは、「祈りなさい…祈ってください」と、主題が祈りのことに移っています。祈りは、武具に身を固めた兵士が第一にすべきことです。ここには、武具を身につけたら、まず、ひざまずき、祈りなさいと教えられています。

 確かに、私たちが何かをしようとするときには、まず「祈り」から始めなければなりません。マルチン・ルターは、とても忙しい日々を送っていましたが、ある日、「今日は特別忙しいので、もっと時間をかけて祈ろう」と言って、ふだんよりも祈りの時間を増やしたと言われています。私たちだったら、「きょうは忙しいから祈りを短くしょう」と考えてしまいますが、ルターはそうではなかったのです。「忙しいから、もっと祈ろう」というのが、信仰者の生き方であることを教えられます。私は、よく祈らないで何かをしたり、判断したため、失敗してしまったことがありますが、皆さんはどうでしょう。何をするにも「まず祈る。」これは大切なことです。

 二、祈りによって戦う

 戦いの前に祈る。大事なことですが、きょうの箇所は、祈りによって戦うことが教えられています。私たちの戦場(“battlefield”)は、じつは、祈りにあります。

 2015年に “War Room” という映画が作られました。この映画の主人公エリサベツは、Oak Cliff Bible Fellowship という教会がダラスの南のほうにありますが、そこのトニー・エバンス牧師の娘、プリシラ・シャイラーさんが主人公を演じています。不動産会社で働いているエリサベツは、クララさんから「家を売りたい」という連絡を受けて、彼女の家を訪ねました。エリサベツはクララさんに個人的な悩みを打ちあけたところ、クララさんは、自分の祈りの部屋を見せ、エリサベツに「祈りによってそれと戦いなさい」(“You need to do your fighting in prayer.”)とアドバイスしました。エリサベツはクララさんにならって、自分の家のクローゼットを祈りの部屋にし、祈りに打ち込みました。そうした祈りによってエリサベツ自身が変えられ、夫が変えられ、大きな問題が解決するというのが、この映画のおおまかなストーリーです。軍隊では作戦を立てる部屋を “war room” と言いますが、エリサベツの場合、彼女のクローゼットが霊的な戦いを導く部屋となりました。

 この映画が人々の共感を呼んだのは、多くの人々が、この映画の主人公と同じように、祈りによって人生の戦いを乗り越え、勝利してきたからです。信仰の模範となり、人々に感化を与えてきた人々は皆、「祈りの人」でした。良い証しを立ててきた家庭はどこも、家族が共に祈り合う「祈りの家庭」でした。多くの人をキリストに導いた教会は、そのメンバーが熱心に祈る「祈りの教会」でした。D. L. ムーディが牧師をしていたシカゴの教会には、かつて、多くの見学者が訪れていました。そのツアーのガイドは「この教会の伝道の原動力になっている部屋があります。そこにご案内しましょう」と言って、人々を講壇の真下にある地下室に案内しました。そして、こう説明しました。「ここでは、牧師が説教している間、何十人という人が神の言葉が働き、人々が信仰を持つように祈っているのです。」人々を信仰から引き離そうとする力と戦っているのは、講壇に立つ説教者だけではないのです。説教者は「御霊の剣」である神のことばで戦いますが、その戦いを支えるのは、説教者のために祈る多くの人々の祈りなのです。

 伝道、宣教は「霊の戦い」です。そしてこの戦いは、御霊の剣とともに祈りによって戦うのです。祈りは6つの武具に続く、7番目の武具だと言ってもよいほどです。

 パウロは人々に「祈りなさい」と言うだけでなく、「私のために祈ってください」と願っています。「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」(19、20節)パウロは2年間、軟禁状態にありました。だからと言って、伝道をあきらめませんでした。パウロは訪ねて来る人たちに福音を語り、聖書を教えました。パウロを監視していたローマ兵やその上官たち、皇帝の親衛隊にも福音を語りました(ピリピ1:12参照)。パウロは、まもなく解放される希望を持っていましたので、出獄したら伝道旅行に出かけるつもりでした。それで、「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください」と、人々に祈りを要請したのです。

 私が英語でいただく Emailに “May I covet your prayer?” という言葉が書かれていることがよくあります。“covet” というのは「他人の物などをむやみに欲しがる」、「おねだりする」という意味の言葉で、決して良い意味ではありませんが、祈りに関しては、大いに使っていい言葉だと思います。他の人に「祈ってください」と願うことは、決して恥ずかしいことではありません。自分でよく祈る人ほど、他の人に「祈ってください」とお願いするものです。それは、よく祈る人ほど祈りの力を知っているからです。理論としてではなく体験して知っているからです。祈りの力を知ると、祈らないと損をした気持ちになります。実際、祈らない人は、祈りによって得られるものを捨ててしまっているのですから、大損をしているのです。他の人に祈ってもらい、また、自分も他の人のために祈る。そんな祈りによって、私たちは霊的な戦いに勝利し、お互いが霊的に豊かになっていくことができるのです。

 三、聖霊によって祈る

 祈りがどんなに大切なものか、誰もが知っています。私たちは18節にあるように「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」祈りたいと思います。しかし、それは「頑張って祈らなければならない」という義務的なものではありません。ここで言われている祈りの「忍耐」は、苦しいだけのものではなく、ほんらい喜びであるはずです。「歌いつつ歩まん」(“Singing I go.”)という賛美がありますが、それは「祈りつつ歩まん」(“Praying I go.”)ということでもあると思います。祈りは私たちの日々の歩みの一部です。

 しかし、日々に祈るという習慣が身につかない、気が散って祈りに集中できない、また、祈りが聞かれているという確信が持てない、何をどう祈ったらよいか分からないという悩みを抱えている人も多いと思います。祈る気力がななり、心を置き去りにしたまま、ただ口先で祈っていることに気付き、「これでは良くない」と反省することもあるでしょう。そんなときはどうすればよいのでしょうか。

 聖書はこう答えています。「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」「御霊によって祈る」、つまり、聖霊に促され、助けられ、導かれて祈ることです。聖霊は、私たちの心に祈りを生み出してくださるお方です。ローマ8:15にこうあります。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」神は、天地の主です。この主なる神から見れば、地球は、大宇宙の中では豆粒にもならないような小さな星にすぎないでしょう。人間はそんな地球にしがみついている弱い生物にすぎません。しかし、神は、そんな人間をご自分のかたちに造り、神と語り合うことができる者にしてくださいました。あらゆる物が神の言葉に服従していますが、彼らは神の言葉を理解していません。人間だけが神の言葉を聞いて悟り、それに答えて祈ることができます。「祈る」ことは人間だけに与えられた特権です。

 しかも、イエス・キリストを信じる私たちは、聖霊によって神の子どもとしていただいています。神に語りかけるといっても、奴隷が恐る恐る自分の主人に物を言うのとは違います。小さな子どもが自分の父親に向かって遠慮なく話しかけるように、神を「父よ」と呼んで、どんなことでも祈ることができるのです。「アバ」というのは、ユダヤの子どもたちが父を呼ぶとき使う言葉です。聖書は「アバ」という言葉を使うことによって、イエスを信じ、聖霊によって生まれ変わった者はだれでも、素直に神を「父」と呼んで祈ることができることを教えています。聖霊は私たちの心を開き、唇を開いて、私たちに「父よ」と呼ばせてくださいます。神を「父よ」と呼ぶことができたら、そこから、おのずと祈りが引き出されてきます。聖霊が祈りを導いてくださるのです。

 聖霊が私たちの祈りを助けてくださることについては、ローマ8:26にこう書かれています。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」何をどう祈ったらよいか分からないとき、また、苦しくて祈りが言葉にならず、ただうめくばかりのとき、そんなときも、私たちの内におられる聖霊が、私たちの霊とともにうめいて、私たちに代わって祈ってくださるのです。

 ローマ8:34には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」とあります。イエス・キリストが天で私たちの祈りをとりなしてくださることが書かれています。このイエス・キリストのとりなしに加えて、私たちは聖霊のとりなしを持っているのです。私たちの祈りは、地上では聖霊のとりなしによって、天ではイエス・キリストのとりなしによって、神に届けられます。この二重のとりなしによって神に届かない祈りはないのです。「祈りは聞かれる。」この確信は、私たちの祈りが立派だから、一日も休ます懸命に祈ったからという、私たちの側の功績によるのではありません。神があわれみのゆえに聞いてくださるから、イエスがとりなしてくださるから、聖霊が助けてくださるからなのです。

 「聖霊によって祈る」というのは、「聖霊に祈る」ことでもあります。私たちは、御父にも、御子イエスにも、聖霊にも、「父よ」、「イエスよ」、「聖霊よ」と言って祈ることができます。しかし、多くの場合、祈りは父なる神に向けられます。けれども、父なる神に祈るときにも、私たちの霊は聖霊に祈っているのです。聖霊は私たちの霊のうちにおられるので、聖霊への祈りはかならずしも声に出る祈りにならないでしょうが、私たちが唇でイエスの御名によって父に祈るときには、私たちの霊は聖霊に祈り、聖霊も私たちの霊に働きかけてくださるのです。こうした「聖霊による祈り」が、信仰の戦い、人生の戦いで、私たちに勝利を与えるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは聖霊によって私たちに語りかけ、また聖霊によって、私たちがあなたに語りかけることができるようにしてくださいました。聖霊によって私たちの祈りを強め、多くの人々のためにとりなし祈る者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/26/2022