信仰の大盾

エペソ6:16

オーディオファイルを再生できません
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

 一、戦いの必要性

 今週私たちは231回目の独立記念日を迎えます。1776年7月4日、トマス・ジェファソンが書いた独立宣言に13州の代表者が署名したのを記念して、July 4th がアメリカ建国の日となりました。英語の THE DECLARATION OF INDEPENDENCE は

When in the Course of human events, it becomes necessary for one people to dissolve the political bands, which have connected them with another, and to assume, among the powers of the earth, the separate and equal station to which the Laws of Nature and of Nature's God entitle them, a decent respect to the opinions of mankind requires that they should declare the causes which impel them to the separation.

ということばではじまりますが、一万円札でおなじみの福沢諭吉は『西洋事情』という本の中でアメリカ独立宣言を「独立ノ檄文」と題して
人生已(や)ムヲ得ザルノ時運(じうん)ニテ、一族ノ人民、他国ノ政治ヲ離レ、物理天道ノ自然ニ従テ世界中ノ万国ト同列シ、別ニ一国ヲ建ルノ時ニ至テハ、其建国スル所以(ゆえん)ノ原因ヲ述ベ、人心ヲ察シテ之ニ布告セザルヲ得ズ。
と訳しています。なかなかの名文です。

 独立宣言が出されたのは1776年でしたが、アメリカが実際に独立したのは7年後の1783年でした。その間、アメリカはイギリスを相手に苦しい戦いを強いられました。ジョージ・ワシントンは何度もイギリス軍に追い込まれ、アメリカの独立は夢と消えるのかと思われたこともありました。しかし、アメリカは、この独立宣言に励まされて、戦い抜き、ついに最後の勝利を手にしたのです。

 クリスチャンの信仰の戦いも、アメリカの独立戦争と似ています。ガラテヤ5:1に「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」とあります。これは、「クリスチャンの独立宣言」と言われている箇所で、ここにはキリストが信じる者を罪の束縛から、死の恐怖から、そして悪魔の手から解放してくださったと宣言されています。しかし、この「クリスチャンの独立宣言」は信仰の戦いの終わりを宣言しているのではありません。アメリカで独立宣言の本格的な戦争が始まったように、クリスチャンの信仰の戦いは、クリスチャンの独立宣言から始まるのです。私たちは、キリストの救いを受けるまで、罪と悪の支配にがんじがらめになっていて、そうしたものと戦う必要すら気付いていませんでした。しかし、キリストによって、それらのものから解放されてはじめて、それを持続させるための戦いが始まったのです。

 クリスチャンが信仰の生涯において勝利を得るためには、霊的な戦いを避けることはできません。戦いをへなければ勝利を手にすることはできないのです。きよい神とのまじわりは、それを妨げるものを退けないかぎり保つことができないのですから、クリスチャンの内面に罪との戦いがあるのは、その人が神の側にいることのひとつのあかしでもあるのです。ある注解者は、エペソ人への手紙6章にある神の武具について、「これらは成長のための戦いの中で実際に用いられるべきものである。戦いなしに神に近づくことはできない。」と言っています。

 聖書は「では、しっかりと立ちなさい。」(エペソ6:14)ということばで、クリスチャンにこの戦いに備えるよう勧めています。「しっかりと立ちなさい。」と言われていますが、どこに立つのでしょうか。キリストによって与えられた自由の上にです。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)アメリカが独立宣言に励まされてその戦いを投げ出さず、ついに独立を勝ち取ったように、クリスチャンもキリストによって与えられた自由の上に立ってこそ、信仰の戦いを戦い抜くことができるのです。そして、この戦いを戦い抜くことによってクリスチャンは、キリストにある自由を自分のものとして体験することができるのです。

 二、身支度の必要性

 すべてのクリスチャンは霊的な戦いに召されています。この戦いは、ライバルの会社を打ち負かして売り上げを伸ばすとか、スポーツの競技で優勝するなどといった目に見えるものではありません。それは人間の罪や、この世の悪との戦いなのですが、たんに犯罪を撲滅するとか、社会悪に立ち向かうというのではなく、そうしたものの背後にある罪と悪の支配者そのものに対する戦いです。「刑務所の塀の中にいる人がほんとうの悪者ではない。ほんとうの悪者は、決して刑務所に入るようなへまをしないで、悪を支配している。」と言われます。「黒幕」という言葉がありますが、本当の悪者は簡単には人の前に姿を現さず、隠れたところでその手下を動かしています。悪魔は霊の世界の黒幕のような存在であり、クリスチャンの戦いは、彼との戦いなのです。エペソ6:12に「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあるとおりです。

 使徒パウロは、霊の戦いを「格闘」と呼びました。ここでいう「格闘」という言葉はレスリングを意味します。スポーツとしてのレスリングは素手で戦います。しかし、サタンとのレスリングは素手で戦うことはできません。しっかりと武装していなければなりません。しかも、人間の力や人間の武具ではなく、神の力により、神の武具で武装していなければならないのです。

 エペソ人への手紙には、神が備えておられる六つの武具があげられていますが、最初の三つと残りの三つでは言葉遣いが違っています。最初の三つの武具、「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」は「身に着けなさい。」と言われていますが、残りの三つの武具、「信仰の大盾」、「救いのかぶと」、そして「御霊の与える剣」は、「受け取りなさい。」と言われています。このことばの違いを理解するためには、兵士たちが控え室で身支度を整えた後、次に武器倉庫に行って自分の武器を手にし、それから戦いに出ていく姿を想像すると良いでしょう。兵士は身支度を整えてはじめて武器を手にすることを許されます。身支度ができていない兵士は武器倉庫に入ることを許されません。身支度ができていなければ、どんなに立派な武具を手にしたとしても、それを持って動き回ることも、その武具を自由自在に使うこともできないからです。

 これは、信仰の戦いにおいても同じです。聖書は、「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。」と言ってから「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。」と言っています。身支度が先で、身支度が整ってから、その上で武具を取るのです。しかし、私たちは人目に見えない身支度はそこそこにして、すぐに目に見える武具をとりたがります。神学校に行って聖書を勉強すれば、長年教会の役員をして経験を積めば、あるいは、流ちょうに話ができれば、それが武具になると思いこんでしまうのです。しかし、信仰の戦いで勝利するためには、人目につくところだけではなく、真理への愛、正義への飢え渇き、そして福音の奥義などといった目に見えない部分でしっかりと身支度ができていなければなりません。真理への愛がなければどんなに聖書の勉強を重ねても、たんなる「物知り」で終わってしまい、そうした知識は実際の信仰生活で助けにはならないのです。また、神の国と神の義を求める飢え渇きなしに、正義をふりまわしても、まわりを混乱させるだけです。福音の奥義を保っていなければ、人のたましいを本当の救いに導くことができません。目に見えるものにまどわされることなく、内面を整えることを忘れずに励みましょう。そして神が与える武具を手に取り、それを用いましょう。

 三、大盾の必要性

 きょうは「信仰の大盾」について学びますが、ギリシャ語の「大盾」という言葉は「ドア」という言葉から出たものです。当時の大盾は幅2フィート半、長さ4フィートもあって、実際に、ドアのようなものでした。聖書にソロモン王が金の大盾を作ったとありますが、それは飾りで、兵士たちが手にするものは木でできていました。それを動物の革で覆い、実際に使う時には、大盾を水に浸して革に水分を含ませませるのです。すこし重くはなりますが、これで、敵が打ち込んでくる火の矢を消すことができます。金属を貼ったものもあったようですが、革を貼ったもののほうがうんと軽く、持ち運びに便利ですから、なかなか良いアイデアだと思います。

 敵が打ち込んでくる火の矢というのは、とても威力のあるもので、鉄の矢尻にタールをつけ、それを燃やしたものです。矢によって相手を傷つけるだけでなく、火傷を負わせます。この矢は兵士が身に着けている胸当てでは防ぎきれません。大盾によって全身をカバーしなければならないのです。

 信仰の戦いにおいて、神の敵が放つ火の矢にはどんなものがあるでしょうか。使徒たちの時代にはそれは迫害という形でやってきました。多くの人が財産を奪われ、鞭打たれ、祖国から追放されました。今の時代のアメリカでも迫害がないわけではありませんが、初代教会のような目に見えるものはありません。しかし真実なクリスチャンが名前ばかりのクリスチャンから中傷されたり、脅かされたりすることが実際にあります。いわれのないことで非難されることは、まるで火の矢で体を差し抜かれるほど痛いものです。そういうことがたび重なると、何をするのもいやになり、失望、落胆します。信仰の敵はそれを狙っています。度重なる攻撃によって失望させ、信仰を失わせようとするのです。失望は敵がしかける恐ろしい火の矢のひとつです。

 別の火の矢は甘い誘惑かもしれません。暗やみに飛び交う火の矢はほんとうは恐ろしいものですが、見た目にはきれいに見えることもあります。そのように、敵は「あなたの知恵も、力も素晴らしい。その知恵と力で努力してみなさい。そうすれば成功する。」とささやき、神に頼り、神に導きを求めて、神のためにものごとを行うことよりも、自分の力で、自分の願いどおりのことを、自分のために実現するようにとそそのかすのです。そしてクリスチャンを神から引き離そうとするのです。自分の願いが自分の努力で果たされていくのを見るのは、楽しいことです。そうしたことも必要なのかもしれませんが、それが自分の力だけでできているように感じ、自己実現が主な動機となっていくなら、それによって、知らず知らずのうちに神から離れて行く危険があります。何かに一所懸命になっている時は、心が燃えているように感じるのですが、もしかして、心が燃えているのではなく、自分が敵の放った火の矢で燃えていないかと反省してみる必要もあります。神以外のものでいくら燃えても、それはバーンアウトするだけです。順調な時ほど誘惑が多いのです。誘惑の火の矢にも警戒しましょう。

 しかし、クリスチャンに決定的なダメージを与えるのは「疑い」の火の矢です。クリスチャンは迫害や中傷を乗り越えて強くなります。あからさまな誘惑は、それを退けることによって、かえってその人を強くします。巧みな誘惑も、それを見破り、退けることによって、クリスチャンを揺るぎないものにします。しかし、疑いはクリスチャンを駄目にしてしまいます。クリスチャンが苦しみの中で耐えられるのは、神を信じるからです。神がすべてのものの主であり、この苦しみを栄光に変えてくださる、自分の身に起こった悪をも善に変えてくださる、と信じればこそ、クリスチャンは苦しみを乗り越え、誘惑を退けることができるのです。ところが、そこに疑いが入って来ると、クリスチャンもまた失望の中に投げ込まれ、そして、その失望から救ってくれるものなら何にでも手を出すようになり、誘惑に無防備になるのです。サタンがアダムとエバに最初に言ったのは、「あなたがたは、園のどんな木からでも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)ということばでした。「神は、ほんとうに言われたのですか。」と、神を疑わせることだったのです。

 こうした火の矢を防ぐのが「信仰の大盾」です。この場合「信仰」という言葉にはふたとおりの意味があります。ひとつは、「信仰の内容」で、もうひとつは「信仰の行為」です。「信仰の内容」というのは、私たちが「キリスト教信仰」という時に使うように、何を信じるかをまとめたものです。主イエス・キリストは、私たちに何を信ずべきかを教え、使徒たちがそれを伝え、それは使徒たちから弟子たちへ伝えられてきました。この信仰は教会によって保たれ、現代の私たちに手渡されました。それで、この信仰は「教会の信仰」とも呼ばれます。信仰と生活の誤りのない基準は聖書ですが、聖書を正しく知り、信じるためには「教会の教え」が必要です。聖書は、世界第一のベストセラーですから、教会以外のところでも読まれたり、解説されたり、利用されたりしています。しかし、そのすべてが聖書を正しく解釈しているわけではありません。聖書の中心的な真理が無視されたり、曲げて教えられていることが多いのです。教会によって解き明かされる聖書の教えが人を救い、人を守るのです。教会は、その教えを「使徒信条」や「二ケヤ信条」などに要約し、説教によって教え、人々は礼拝の賛美や祈りのうちにそれを告白してきました。この「教会の信仰」に立ち返るときクリスチャンは疑いや迷いから解放され、正しく神に向かうことができるようになるのです。「教会の教え」について「これを守れ、そうすれば、これがあなたを守る。」と言われますが、まさにその通りです。教会の教えを守る者はそれによって守られるのです。私たちに伝えられた「教会の信仰」は私たちを守る盾です。

 「信仰の大盾」の「信仰」とは、第二に「信仰の行為」、つまり、私たちの神への信頼を指します。聖書は、神が信じる者の「盾」であると教えています。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」(詩篇18:30)「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」(詩篇84:11)ということばが聖書に繰り返されています。

 詩篇91:4に、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」とあります。「教会の教え」を知り、守ることは大切なことですが、それがたんなる知識に留まって、神への信頼につながらなかったら、私たちは神を「大盾」としていることにはなりません。「信仰」と「真実」という言葉は、ギリシャ語では同じ言葉が使われています。信仰は神の真実にもとづいています。いつでも神の真実を覚え、神を賛美し、感謝できればよいのですが、ものごとがうまくいっているときは、そのことで有頂天になって、神の真実を考えることをしない場合が多いのです。苦しみを与えられて「神さま、あなたは私を祝福すると約束されたではありませんか。あなたの真実はどこにあるのですか。」と神の真実に目を向けるようになることがしばしばです。それで多くの人は苦しみを通して信仰を与えられ、強められてきました。信仰は、神の真実を求めることから始まり、みことばの中で、祈りの中で、キリストの十字架のもとで、神の真実と出会うことによって育ちます。苦しみの日にも、喜びの時にも、どんな場合でも神が真実であることを確認すること、神の完全な真実にこたえて、私たちの精一杯の真実をささげていくことが信仰です。

 「主の真実は、大盾であり、とりでである。」大盾は、その背後に身をかがめるものです。そのように神のもとに身をかがめ、神により頼むとき、神が私たちの大盾となってくださるのです。「大盾」とは、神の真実であり、神ご自身です。この神により頼むことが「信仰の大盾」を手にすることなのです。今日は、今年の残り六ヶ月の最初の日です。これからの半年間が、神の真実のもとに謙虚に身をかがめ、神に信頼して歩む、日々であるようにと、心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝も、私たちに霊の戦いの必要なこと、その身支度の必要なこと、また信仰の大盾の必要なことを教えていただき感謝いたします。あなたご自身が私たちの大盾となってくださるとは、なんという慰めであり、励ましでしょうか。どうぞ、おごり高ぶることなく、あなたのもとに身を低くしてあなたにより頼む私たちとしてください。そして、あなたが私たちの真実な父であることを、日々に体験させてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/1/2007