神の武具

エペソ6:13-15

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6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。

 最近はアメリカでも女性の兵士や指揮官が珍しくなくなってきましたが、昔は兵士といえば男性の仕事でした。実際の戦争で戦うことがなくても、父親はさまざまな面で、家族を守るために戦う兵士です。とくにシリコンバレーは戦いの多いところですから、父親には多くの苦労があることでしょう。さらに、クリスチャンの夫や父親は経済的に家庭を支えるだけでなく、霊的に家族を守り、導く責任を与えられていますので、キリストの兵士として、霊の戦いの先頭に立たなくてはなりません。男性のかたがた、そのための備えは大丈夫でしょうか。

 悪魔はさまざまな策略を使って、クリスチャンを神から引き離そうとしています。この悪魔の策略に立ち向かうために、「主にあって、その大能の力によって強められ」(エペソ6:10)る必要がありますが、この神の力は、私たちが神の武具を身に着けることによって与えられます。エペソ6:11に「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。」とあります。13節にも「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」と言われています。エペソ6:14-17には全部で六つの武具が挙げられています。「神のすべての武具」とあるように、キリストの兵士には六つの武具のすべてが必要なのですが、いちどに六つすべてについてお話しする時間がありませんので、今日は最初の三つについて学び、次回残りの三つについて学ぶことにしましょう。

 一、真理のベルト

 最初の三つの武具は「真理の帯」「正義の胸当て」「福音の靴」です。この三つは武具というよりは、身支度です。でも、身支度も、武具の一部です。消防士 Fire Fighter は火災の現場に向かうときかならずヘルメットをかぶり、特別なスーツを着、そしてブーツを履きます。Tシャツにショーツ、サンダル履きでは、燃え盛る火と闘うまえにやけどをしてしまいます。聖書もまた、悪魔と戦うのにまず身支度から始めるよう教えています。

 その身支度の第一は「真理の帯」です。ここではローマの兵士の姿を思い浮かべるとよいでしょう。ローマの兵士は、決して長い丈、長い袖の服を着ません。そんな服装では自由に動くことができませんし、服が何かにひっかって身動きがとれなくなってしまうからです。短い丈、短い袖の服を着ます。しかもその上にベルトをしっかりと巻きつけて、それが乱れないようにします。

 帯、ベルトは腰に巻きます。「腰」は漢字で「身体の要」と書くように、身体の動きの中心的な部分です。ですから「腰には真理の帯を締め」というのは、真理、しかも神の真理を行動の原理、原則とするということです。

 主イエスが、ヨハネ8:44で「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」と言われたように、悪魔は偽りの父です。悪魔は、神が禁じられた木の実を取っても、つまり、神のことばに逆らっても「あなたがたは決して死にません。」と、エバに偽りを吹き込み、アダムとエバをその偽りによって罪に引き込みました。それ以来、悪魔は人間に偽りを語り続けています。悪魔は、偽りの神々を作り出し、偽りの宗教を作り出してきました。あからさまに神のことばを否定するだけではなく、聖書のことばを使ってクリスチャンをだまそうとします。聖書のことばを使って主イエスを誘惑したのと同じことを、悪魔はクリスチャンに対してするのです。異端やカルトは聖書の一部だけを取り出してそれを強調しますが、聖書の教えから遠く離れてしまっているのです。また、リベラリズムの教会は、聖書からいっさいの超自然的な要素を取り除いて、聖書を道徳や倫理の書物にしてしまいました。そうすれば多くの人が聖書に耳を傾けてくれるという悪魔の甘いささやきに乗ってしまったのです。そこには救いはありません。また、建前では聖書が神のことばであるとしていても、実際には聖書をこの世の生活に知恵を与える書物としてしか語らない、読まないことによっても、神の真理はないがしろにされます。今の時代の流行の教えにも警戒しなければなりません。悪魔は巧妙です。真理に限りなく近いけれども真理ではないもの、似てはいるが違うものによってクリスチャンをだまそうとするのです。

 悪魔の偽りに対抗できるのは神の真理だけです。教会の執事には「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている」(テモテ第一3:9)ことが求められていますが、これは、執事ばかりでなく、すべてのクリスチャンにも求められていることです。あなたは「信仰の奥義」を理解しているでしょうか。もし、まだ理解できていないと感じているなら、謙虚な心で、また、熱心な思いで神のことばの真理を学ぼうとしているでしょうか。毎日の生活の中でどれほどの時間をそのために割いているでしょうか。男性は仕事のことではかなりの勉強をしていますが、女性にくらべて聖書を学ぶための時間は案外少ないものです。その少ない時間だけでほんとうに神のことばの真理を理解し、それをあなたの行動の原則とすることができるのでしょうか。私は、男性の多いこの教会で、男性たちと深い聖書の学びをしたいと願ってきましたが、その願いはまだ果たされていません。神は言われます。「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。」(ヨブ38:3)真理のベルトを腰に締め、キリストの兵士、神の勇士として立ち上がろうとする人はいるでしょうか。真理を持たなければ悪魔との戦いに勝つことはできません。

 二、正義のチョッキ

 身支度の第二は「正義の胸当て」です。胸は心の宿るところとみなされてきました。今でも heart という言葉は、心臓にも、心にも両方に使います。警察官が身につける防弾チョッキが心臓を守るように、「正義の胸当て」は私たちの心を守ります。

 現代は「ポストモダン」の思想が支配している時代だと言われます。ポストモダンの思想では、絶対的な基準はどこにもないと言います。ですから「正義」も「悪」もないのです。正義のために闘うなどというのはナンセンスなのです。この思想によれば、自分にとって正しいと思えることが正しく、自分が好きでないものが悪なのです。このようにすべてを主観的に判断するのが「ポストモダン」の特徴です。それで多くの若者たちは客観的な基準を持たないで、主観だけで生きるようになってきました。若者たちは自分がしたいことをしたいようにするのだと言いますが、自分でものごとを判断できるだけのものを持っていませんから、結局はその時代の流行に流されるだけで終わってしまうのです。人生の目的を見出すことができず、将来の夢も希望もないまま、一時的な衝動にかられて、犯罪を犯し、自分をダメにしてしまう若者が多いのは、私たちが見聞きしている通りです。彼らは、歴史から学んだり、世界で起こっていることに目を向けることがなく、自分の小さな世界の中に閉じこもっています。

 聖書が「正義の胸当て」を身につけるようにと教えているのは、目を開いて自分のうちにある罪を見てそれを悔い改め、世の中の悪を見てそれと闘うということなのです。この「正義の胸当て」は、じつは、神ご自身が身につけておられるものです。イザヤ59:17に「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。」とあります。このことばは、乱れきった神の民に対して語られたものです。イザヤ59:1-4は、神の民の罪について、こう言っています。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。」(イザヤ59:1-4)

 イザヤ書はさらに「こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」(イザヤ59:14-15)と続けています。真理も、正義も、公正も神の民から消え去ったのです。ところが、神の民の中には、そのことを嘆いたり、それに抵抗したり、そのために祈ったりする人がいなかったのです。イザヤ59:16に「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(イザヤ59:16)とある通りです。そこで、神ご自身が正義を身にまとって神の民をさばかれるというのです。

 神がキリストの兵士に求めておられるのは、神と同じ正義の心を持って、偽りや不義、差別に立ち向かうことです。罪と悪を嘆き、悔い改め、また、人々がそこから立ち返るようにと、とりなし祈ることです。神の国と神の義とを求めてやまない熱い心を神は悪魔と戦う者に求めておられます。悪魔は人間よりも賢く何でも知っていて、私たちをその策略でだまそうとします。しかし、悪魔がひとつだけ知らないことがあります。それは「愛する」ということです。私たちが神を愛し、神の義を愛するとき、たとえ神の義を完全に守り行うまでに至っていなくても、神への愛によって私たちは悪魔に勝つことができます。神への愛によって作られた正義の胸当てを着け、悪魔に立ち向かいましょう。

 三、福音のブーツ

 第三の身支度は、「福音の靴」です。「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ6:15)とありますが、この「備え」というのは、兵士たちが履くブーツのことです。それが「平和の福音の備え」と言われているのは、イザヤ52:7で「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」と書かれていることから来ています。今日のようにインターネットで世界中がつながっている時代とは違って、古代の人はメッセージを伝える伝令によってニュースを知りました。特に戦争の時には、勝ったのか、負けたのか、人々は固唾を呑んで戦場からの伝令を待ちました。「勝利」を伝える伝令、「平和」を告げる伝令が来るのを人々は待ち望んでいたのです。

 戦場から「勝った」「負けた」「和解した」という知らせを伝えるのも、やはり兵士の務めです。兵士のひとりが伝令となって人々にニュースを知らせます。クリスチャンはキリストの勝利の伝令です。キリストは罪と死と悪魔に勝利されました。私たちはかつては神の敵でしたが、キリストの十字架によって神と和解し、平和を与えられたのです。これが良い知らせ、福音です。私たちはこの福音を聞いて信じ、信じてほんとうの平和を味わいました。そして、今度は、私たちがこの平和のよい知らせを、他の人に伝えるのです。クリスチャンはよい知らせを伝える伝令の兵士です。

 日本ではクリスチャンが全人口の1パーセントに過ぎないと言われていますが、アメリカでも、日系人の間ではクリスチャンは3パーセントほどです。私たちはアメリカでもノンクリスチャンに取り囲まれているのですが、それはかならずしも不利なことだけではありません。逆に考えれば、福音を伝えることができる人がまわりに、こんなにたくさんいるということなのです。桜井先生は、牧師リトリートで南カリフォルニアに行くたびにお兄さんのところに立ち寄り伝道してきましたが、今年のリトリートのおりには立ち寄れなかったので、春のヴァケーションを使って南カリフォルニアにいるお兄さんを訪ねました。お兄さんは桜井先生の導きに応じてイエスを受け入れる決心をすることができました。聖書に「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」とあるように、友人、知人、親族を訪ねて福音を語る、その足はなんと美しいことでしょう。最近は、人々の生活様式が変わり「ぜひ家に来てください。」と言う人が少なくなりました。「訪問してもいいですか。」と言ってもなかなか受け入れてもらえないこともあります。そんな時でも、電話や手紙で福音を届けることができますし、自分の家に招いたり、家庭集会に誘ったり、礼拝やその他の集会に誘うことができます。それもまた、福音を伝える足として用いられることでしょう。

 一昨年(2006年)の10月、私たち家族はヴァケーションをとって、アリゾナにケラー姉妹を尋ねました。フリーウェーのレストエリアのいたるところに「蛇やさそりに注意」という看板がありました。ヴァケーションの最後の日に出席した教会の礼拝で、なんと「わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」(ルカ10:19)ということばが語られました。ここでいう「蛇」や「さそり」は実際のものではなく、悪魔とその手下たちを指すものですが、アリゾナのレストエリアで「蛇やさそりに注意」という看板を見てきたばかりでしたので、このことばが心に強く残りました。その礼拝で、説教者は、ゴムでできた蛇を足で踏み付けながら、「みなさんも悪魔を足で踏みつけましょう。」とよびかけ、千人以上の人々が一同に「蛇やさそりを踏みつけ…」と言いながら、悪魔を踏みつけるしぐさをしました。みな真剣でした。

 「悪魔を踏みつける」と言っても、もちろん素足ではだめです。福音のブーツが必要です。悪魔を踏み付けることができる力は、主が私たちに与えてくださった福音にあります。私たちが、この足を使って人々を訪ね、福音を伝えていくなら、それが悪魔を足の下に踏みつけることになるのです。伝道は悪魔がいちばん嫌うことです。悪魔は、イエス・キリストの十字架のことばを嫌います。キリストの復活による勝利の福音を嫌います。それで、伝道以外のさまざまな活動で私たちを忙しくさせ、キリストの福音を伝えさせないようにします。伝道する足が悪魔を踏みつける足です。そのことを忘れることなく、福音のブーツを履いて、悪魔に立ち向かおうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちをキリストの勝利を知らせるメッセンジャーとして選んでくださったことを感謝します。あなたの真理を確信し、あなたの思いを自分の思いとし、この良い知らせを伝えていく私たちとしてください。キリストの兵士としての身支度をしっかりと身に着けることができるよう、私たちを訓練してください。私たちの指揮官であるキリストのお名前で祈ります。

6/17/2007