光の子どもらしく

エペソ5:3-14

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5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者 —これが偶像礼拝者です。—こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
5:6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 —光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。—
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 一、光の子ども

ひかり、ひかり、わたくしたちは、ひかりのこども
ひかりのように、あかるいこども
いつもあかるく、うたいましょう
(作詞・山田健二)

 これは、私が日本で子どもたちのための家庭集会をしていた時のテーマソングでした。その集会は「光の子会」と言って、そこから伝道所が出来、やがて建物を購入し、牧師を招いて、教会へと成長していきました。今から20年以上も前のことですが、「光の子ども」という言葉を目にし、耳にするたびに、そのことをなつかしく思い起こします。

 クリスチャンにとって「光の子ども」という言葉はなんでもない言葉ですが、聖書に親しんでいない人にとってはわかりにくいことばかもしれません。「蛙の子はおたまじゃくし、鶏の子はひよこ、ニシンの子は数の子というのはわかりますが、光に子どもがあるんですか? 光の子どもは『薄灯り』ですか?」などと言われそうです。聖書には「○○の子」という表現が多くあります。エペソ2:2-3には「不従順の子ども」「怒りの子ども」という言葉があります。「怒りの子ども」は、新改訳では「御怒りを受けるべき子ら」と訳されていますが、もとは「怒りの子ども」という簡潔な言葉です。「不従順の子ども」という言葉はエペソ5:6にも繰り返されています。

 イエスはルカの福音書にある「ずるがしこい召使い」のたとえ話の中で「この世の子ら」と「光の子ら」という言葉を使っています(ルカ16:8)。「この世の子ら」というのは、この世に属する者という意味です。「この世の子ら」というのは、どうやったら金儲けができるか、成功できるか、ものごとをうまくやっていけるかということには長けてはいても、神のこと、信仰のこと、永遠のことについては何ひとつ分かっていない人のことです。過ぎ去っていくこの世にだけ属していて、永遠の神の国、天国に属していないのです。この世とこの世のものはやがては過ぎ去っていきます。その時、この世のものを誇り、それに頼ってきた人たちはいったいどうするのでしょうか。私たちの人生もあっという間に過ぎ去ってしまいます。人生の総決算をしなければならない時が来た時、天国のために何の準備もしていなかった人は、天国に入ることも、それを相続することもできないのです。

 イエスは、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と言われ、また、「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われました。世の光であるイエスを信じ、イエスに従う人々は「光の子ども」となるのです。「この世の子ら」でなく「光の子ども」になりさいと、イエスは人々を光に招かれたのですが、自分は光を持っている、善良で、十分に満たされていて、イエスから教えてもらう必要はないと思い込んでいる人々はイエスに聞こうとはしませんでした。そればかりが、イエスに敵対し、イエスを亡き者にしようと企んだのです。それで、イエスは、「自分たちはアブラハムの子だ。」と言い張っている人々に、はっきりと「あなたがたの父は悪魔だ。」(ヨハネ8:44)と言われました。とても厳しい言葉ですが、これは、まことの光であるイエスを退け、闇の中を歩いていながら、なお、「光の子ども」であると主張する罪を指摘したものです。私たちは、自分がどこにいるのか、光の側なのか、それとも闇の側なのかを、真剣に考えなければなりません。あなたは、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従っていますか。人は生まれつき「神の子ども」、「光の子ども」なのではありません。イエス・キリストを信じ、この方を「主」として従うことによって、はじめて「神の子ども」とされ「光の子ども」となるのです。

 聖書は言っています。「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は、主にあって光となりました。」(エペソ5:8)あなたの過去がたとえどんな暗闇であったとしても、光に照らされるなら、それはきよめられます。「信仰を持ってもそれを保つことができるだろうか。」などという不安でいっぱいの心を持っていたとしても、光を迎え入れるなら、あなたの心は強められるのです。エペソ5:13-14に「けれども、明るみに出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」とあります。子どものような素直なこころで、まことの光であるイエス・キリストを、あなたの心に受け入れましょう。キリストの光であなたの人生を照らしていただきましょう。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(エペソ5:14)あなたは、イエス・キリストを信じて「光の子ども」とされているでしょうか。

 二、光の子どもの歩み

 エペソ5:8は「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は、主にあって光となりました。」と言うことばに続いて、「光の子どもらしく歩みなさい。」と言っています。「キリストを信じて、光の子どもとなったのだから、光の子どもらしく歩みなさい。」と教えているのです。聖書で「歩く」というのは、「生活する」、「実践する」、「従う」などという意味で使われています。聖書の教える「信仰」は、信仰箇条を丸覚えすれば事足りるような頭脳だけの信仰ではありません。神のことばをはっきりと理解しなければなりませんが、それだけではなく、理解した神のことばを心にたくわえ、それを愛して保つ必要があります。聖書の信仰は頭脳の信仰ではなく、「心の信仰」です。そして、きよめられた心から、きよい生活が生み出されるのです。聖書の信仰は、また、「生活の信仰」でもあるのです。神のことばを「信じること」は神のことばを「愛すること」であり、また、神のことばに「生きること」なのです。

 聖書はほとんどの国語に訳されていますが、少数の人々しか使っていない言語にはまだ訳されていないものがあります。多くの宣教師が、少数の部族の中で聖書翻訳のために働いています。そうした翻訳宣教師から聞いたのですが、その人のいた地域で、福音書など聖書のいくつかの部分が翻訳され、それを用いての伝道が始まりました。大勢の人々が「キリストを信じる。」と告白するのですが、その人たちは、相変わらず嘘をついたり、盗みをしたりして、すこしも生活が変わっていかないのです。どうしてだろうかと調べてみたら、その人たちが使っている「信じる」という言葉には、たんにものごとを「承認する」、ものごとに「同意する」という意味しかなく、聖書にある真剣な意味がないことが分かりました。それで宣教師は「信じる」という言葉を「従う」という言葉に訳し変えたところ、人々は、信仰が何であるかが分かり、その生活が変わっていったというのです。英語でも、 "I believe ..." というのは「〜だと思うよ。」といった軽い意味で使われますので、注意が必要です。私たちも、「信じること」は「従うこと」だということをよく教えられる必要があります。

 では、「光の子どもらしく歩く」とはどうすることでしょうか。エペソ人への手紙にはふたつのことが教えられています。ひとつは、「暗やみのわざ」を捨てること、もうひとつは光の実を結ぶことです。

 エペソ5:3-4に「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。」とあって、「不品行、汚れ、むさぼり、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談」などといった「暗やみのわざ」が並べられています。ここでリストアップされているものは、闇のわざの一部にすぎず、聖書は他に二カ所で同じようなリストをあげています(コリント第一6:9-10、ガラテヤ5:19-21)。そのうちのひとつ、ガラテヤ5:19-21には、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」という長いリストがあります。エペソ5:12に「なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。」とあるように、「暗やみのわざ」は隠れて行われます。「不品行、汚れ、好色」をおおっぴらにする人はあまりあません。「偶像礼拝、魔術」などといったものは、たいてい人里離れたところにある建物の薄暗い部屋で行われます。このリストにあげられている「争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」などというもののは、人の心の奥底に隠されています。そして、悪事をたくらむ人はそれを隠れたところで行い、裏から手を回して悪事を行うのです。しかし、それが人の目に触れることがなくても、神はすべてを見通しておられ、聖書は、こうしたものが罪であると指摘しています。そして、「こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」(エペソ5:5-6)と厳しく戒めています。神の国を受け継ぐようにと召された「光の子ども」は、自分を神の国から締め出すようなことに手を染めてはいけないのです。神は、私たちを、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった」(ペテロ第一2:9)のですから、私たちは「この世の子ら」と同じように生きることはできないのです。私たちは、「暗やみのわざ」を捨てて、「光の子ども」として生きるのです。

 三、光の結ぶ実

 「暗やみのわざ」を捨てることと共にしなければならないことは「光の実」を結ぶことです。「光の結ぶ実」というのは、植物が光を受けて実を結ぶことを指しています。私の家の裏庭にはレモンの木があるのですが、いままで日当たりが悪く、ほとんど実がなりませんでした。ところが、去年、光をさえぎっていた木を切っていただいたため、ずいぶん日当たりが良くなり、今年はいくつもの実がなりました。私は、このことによって、「光が実を結ぶ」ということを実感しました。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」とありますが、世の中には、なんと善意よりも悪意、正義よりも不法、真実よりも見せかけが横行していることでしょうか。そうしたものが光をさえぎるのです。「実を結ばない暗やみのわざ」から離れるなら、光の子どもはかならず光の実を結ぶことができます。「暗やみのわざ」を捨てることと、光の実を結ぶことは互いに平行して起こります。「暗やみのわざ」を捨てなければ、光の実を結ぶことはできず、光の実を結ぶことがなければ、「暗やみのわざ」に巻き込まれてしまうからです。

 「光と闇」ということで、みなさんが思い起こすのは、ヨハネの手紙第一だろうと思います。ヨハネ第一1:5-6にこう書かれています。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」キリストを信じていると言いながら、まだやみの中を歩んでいるなら、その人は矛盾したことをしています。まだ十分に信仰が成長していないために、こうした矛盾が生じるのです。ですから、私たちは、信仰を養うことによって生活を正していかなければなりません。信仰が成長しないままで生活が正されることは決してありません。しかし、どんなに信仰が成長したとしても、地上に生きる間は、信仰と生活に何の矛盾もないということはありません。不信仰でいて不信仰な生活をしている場合は、そこに矛盾も葛藤も見られないでしょうが、信仰が成長してくると、自分の生活の生ぬるさや不完全さに気がつくようになります。それで私たちは、日ごとに悔い改め、日ごとに信仰をもって歩み、信仰と生活のギャップを縮めていくのです。それがきよめの歩みです。光の中を歩むことです。私たちに悔い改めのいらない日はなく、信仰のいらない日もありません。そうした悔い改めと信仰の歩みの中で私たちは光の実を結ぶのです。

 ですから、神の前に最大の罪は「自分には罪がない」という罪です。ヨハネ第一1:8、10は「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。…もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」と言っています。「神を偽り者とする。」というのはなんと恐ろしい罪でしょうか。ただひとり真実で正しいお方を、否定するのですから…。しかし、罪を言い表す者は、「真実で正しいお方」によって罪が赦され、罪からきよめられるのです。ヨハネ第一1:7、9はこう約束しています。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」「真実で正しい」神に赦しときよめを求めましょう。

 この赦しときよめを与えるのは、イエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった救いです。この後、聖餐にあずかりますが、聖餐は、キリストが、罪をきよめ、私たちを光の子どもとして歩ませるため、十字架でご自分をささげ、血を流されたことを示しています。このイエス・キリストを悔い改めと信仰をもって、聖餐のうちに受けましょう。みなさんの手もとに用意されている、聖餐に備える祈りを共にささげましょう。

 (祈り)

 愛するイエスさま。あなたは命のパンです。あなたは、私たちを羊飼いが羊を養うように養われます。あなたは十字架にかかられる前の夜、パンとブドウ酒を取り、それを祝福し、弟子たちに与えて言われました。「これは、あなたがたに与えるわたしのからだです。わたしの血です。」

 愛するイエスさま。どんな時でも愛してくださっていることを感謝します。この聖餐であなたを私の内にお迎えしたいと切に望んでいます。私の心の中に入ってください。そして、この聖餐が私を喜びと平安で満たすものとなりますように。

アーメン。

1/28/2007