キリストの花嫁

エペソ5:25-32

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5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

 聖書は、教会をさまざまに描いています。教会はキリストのからだであると言われ、教会は聖霊の宮であるとも言われてることは、先月、学びました。今朝の箇所では、教会がキリストの花嫁であると言われています。この箇所は、結婚について教えられているところですが、ここで、使徒パウロは「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と書いています。結婚の関係の中に、キリストと教会との関係が反映されている、教会はキリストの花嫁であり、キリストは教会の花婿として教会を愛してくださっていると言うわけです。ですから、使徒パウロは、夫に対して、たんに「妻を愛しなさい。」と言うだけでなく、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と教えているのです。本当に良い夫になるには、キリストとが教会を愛された愛を知っていなければならないのですが、あなたは、キリストの愛を体験しているでしょうか。また、良い妻になるには、教会がキリストの花嫁と呼ばれていることの意味を理解していなければならないのですが、あなたは、キリストが教会に求めておられることを知っているでしょうか。今朝は、特に、25-27節から、キリストが教会を愛してくださっていることと、キリストが教会をきよめてくださることを学ぶことにしましょう。

 一、教会への愛

 まず、キリストが教会をどのような愛で愛しておられるかを見ましょう。キリストの教会への愛は、第一に対等の愛と言うことができます。教会がキリストのからだであるという場合、キリストがかしらで、教会は、キリストの命令に従って動きます。そこでは、キリストと教会の関係は、命令と服従の関係で表わされています。かしらが上にあってからだがその下にあるのです。また、教会が聖霊の宮であるという場合も、キリストが土台で、その上に、教会が聖霊の宮として建てられていくわけで、土台であるキリストが建物である教会を支えています。キリストと教会の関係は、キリストが教会を支え、教会はキリストに依存するという関係だというのです。ところが、教会がキリストの花嫁であるという場合は、キリストと教会は対等の関係を持つのです。花婿は花嫁を愛し、花嫁は花婿を愛します。花婿と花嫁の関係が、命令と服従の関係ではなく愛の関係であり、上下の関係ではなく対等の関係です。教会がキリストの花嫁と呼ばれていることの中には、キリストの教会に対する、対等の愛があらわされているのです。

 夫にとって妻は自分以下の存在ではありません。妻は夫と対等の存在です。エペソ5:28-29には「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。」とあるとおりです。創世記にエバはアダムのあばら骨から取って造られたとあります。クリスソストモスは、このことについて、「もしエバがアダムの頭の骨から造られたら、エバはアダムを見下げただろう。もし、エバがアダムの足の骨から造られたら、アダムがエバを見下げただろう。エバがアダムのあばら骨から造られたのは、アダムがエバをその胸に抱いて、エバを愛するためである。」と言っています。夫婦の愛は、互いに敬いあい、互いに服従しあう対等の愛です。キリストは、すべてのものの主であるお方であり、私たちはそのしもべ、はしために過ぎないのですが、教会を花嫁とし、教会をご自分自身であるかのように、対等の愛で愛してくださっているのです。

 第二に、キリストの教会に対する愛は、献身の愛です。花婿の愛が花嫁に注がれるように、キリストの愛も、教会に注がれています。夫婦の愛は、その中に誰も入り込んではならない、独占的な愛ですが、そのように、キリストも教会を特別な愛で愛してくださっているのです。イザヤ43:1-4にこうあります。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」このことばには、神の民に対する、神のひたむきな愛が、みごとに表現されています。旧約聖書のイスラエルは、新約聖書の教会の雛型です。旧約時代に、神が大きな民族や強い国民ではなく、とるに足りない小さな国イスラエルを、数少ないユダヤ民族を選び、愛された、その愛はそのまま、新約時代の教会に向けられています。このことばは旧約聖書のことばですが、新約時代の教会に対するキリストの愛を言い表わしているのです。

 第三に、キリストの教会に対する愛は、犠牲の愛です。神は、変わらない愛、真実な愛で人間を愛してくださっているのですが、人間の神への愛は、貧弱で、変わりやすく、不真面目なものでした。旧約時代の神の民は、神に愛されていながら、神以外のものを神として、神の愛を裏切りました。それで、彼らの罪は霊的な姦淫の罪と呼ばれています。イスラエルは霊的な意味で純真なおとめであったのに、遊女になりはててしまったのです。ホセア書第三章に書かれていることですが、神は、預言者ホセアに、遊女になってしまった妻ゴメルを買い取るよう命じました。それは、神から離れて遊女のようになった神の民を、神がなおも愛して、罪の中から買い戻そうとしておられるという、神からのメッセージを伝えるためのものでした。ホセアはゴメルを買い取るために「銀十五シェケルと大麦一ホメル半」を支払いましたが、神は、罪の中にある者たちを買い取るために、ご自分のひとり子を差し出されたのです。エペソ5:25に「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」とあるのは、そのことです。キリストは、私たちを罪の中から買取り、キリストの花嫁とするために、その命を十字架の上にささげられたのです。キリストの教会に対する愛は、教会をご自分のように愛する対等の愛、他のものにまさって愛する献身の愛であるばかりでなく、ご自分の命と引き換えにしてまでも教会を生かそうとする犠牲の愛なのです。私たちは、キリストを信じる時、この愛のうちにとどまることができるのです。

 二、教会のきよめ

 次に、キリストが教会をきよめてくださるということを見ましょう。エペソ5:26-27に「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」とあります。キリストは教会を花嫁と呼んで、教会を愛し、その愛によって教会を罪の中から贖い出してくださいましたが、ご自分が贖い出した教会を、きよめ続けてくださっています。教会がキリストに愛され、キリストを愛することによって、また、キリストによってきよめられ、みずからをきよくすることによってることによって、教会とキリストとの関係が保たれるのです。

 主イエスは世を去る前、弟子たちの足を洗いました。その時、ペテロは「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。…決して私の足を洗わないでください。」と言いました。ペテロは、ほんとうは弟子が先生の足を洗わなければならないのに、弟子が先生から足を洗ってもらうなどとんでもない、と思ったのです。その時、イエスはペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と答えました(ヨハネ13:6-8)。キリストとキリストに従う者との関係とは、きよめ、きよめられることによって保たれると言われたのです。ヨハネの手紙第一1:6-7にこうあります。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」キリストを信じ、聖霊による生まれ変わりを体験した者は、過去の罪を清算して新しい歩みをするのです。教会は、光ときよさが支配するところで、そこには、この世の支配や、この世の汚れが入り込んできてはならないのです。「どうせ、私たちは弱いのだから、足らないのだから、罪人なのだから罪を犯してもしょうがないのだ。」と言って、低いところに安住してはいないでしょうか。罪赦された者は、神の前にきよくなること、きよめられることを求めるのです。しかし、それは、クリスチャンが、まったく完璧になって、どんな罪も、決して犯さなくなるとか、人間らしさを失って機械のようになるということではありません。むしろ、自分の罪を知って悔い改め、神の赦しの恵みの中に生きるということなのです。本当の罪の赦しは、私たちをきよめに導き、本当のきよめは、私たちを罪の赦しの恵みの中にとどめます。赦しだけできよめがない、きよめだけで赦しがないということはありえません。赦しときよめが共に手を携えていくのが、キリストの救いです。ヨハネ第一1:8-10を読みましょう。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」罪を言い表わし、悔い改め、赦されていく、互いに赦しあう、その中にきよめがあります。このように、キリストにきよめられることを求めていく、そこに、キリストの花嫁としての教会の姿があるのです。

 しかし、私たちはどのようにしてきよめられていくのでしょうか。キリストはどのように教会をきよめてくださるのでしょうか。このことについて聖書は多くのことを教えていますが、今朝は、エペソ5:26に「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」とあることに注目しましょう。「みことばにより、水の洗いをもって」とありますが、「水の洗い」はバプテスマのことをさしています。バプテスマは生涯に一度限りのことですが、みことばは日ごとに与えられるものです。ですから、ここでより大切なのは「みことばにより」という部分です。ここにはきよめはみことばから来ると教えられています。私たちが、こうして礼拝で神のことばに耳を傾けることによって、ひとりで静かに聖書を読むことによって、また、他のクリスチャンたちと一緒に聖書を学ぶことによって、私たちはきよめられていくのです。みことばは鏡のようなもので、私たちの本当の姿を映し出し、私たちに罪や汚れを示します。実際の鏡は、私たちに汚れがあってもそれを示すだけで、それを取り去ってはくれません。あるがままの姿を映し出すことはできても、あるべき姿に導いてはくれません。しかし、みことばの鏡は、私たちを悔い改めに導き、罪の赦しを与え、汚れを取り除き、私たちを、罪によって損なわれた姿から、私たちのあるべき姿へと造りかえてくれるのです。ヨハネ17:17でイエスは「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」と言いました。使徒パウロも「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)と言っています。みことばにはきよめる力があるのです。私たちが信仰をもってみことばに聞き、それを受け入れる時、みことばの力は私たちのうちに働くのです。

 結婚式で一番美しく着飾るのは花嫁です。結婚式にはみんなが、素敵なスーツやドレスを着て行きますが、誰も花嫁より着飾ってはいません。みんなが花嫁に一番きれいであってほしいと願っています。そのように、キリストも、教会をどんなものにもまさって麗しく、美しいもの、きよいものにしようとしておられます。大きいこと、強いことよりも、きよいことが、キリストが教会に望んでおられることなのです。日本ではクリスチャンが人口の一パーセントにすぎず、アメリカでも教会に集う日本人は、日本人人口のほんの三パーセントにすぎません。私たちはもっと多くの人が教会に集い、教会が「大きく」なることを願っています。また、アメリカは、クリスチャンによって建てられた国でありながら、多くの分野で「非キリスト教化」されています。そんな中で私たちは、社会に対しても発言力や行動力を持つほどに教会が「強く」なることも願います。しかし、そうした力や勢いにまさって、何より忘れてはならないのは、教会が「きよく」なることです。教会が、この世と何も変わらないとしたら、教会はこの世に対して、与えるものを何も持たず、何の役にも立たないものになってしまいます。きよさこそ教会の力です。教会が、キリストの花嫁として、最も美しい姿でキリストの前に立つことができるよう、みことばによってきよめられていくお互いでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちを罪の中から購い出し、キリストの花嫁としてくだった大きな愛を感謝します。十字架で死なれ、三日目に復活し、天に帰られた主イエスが、再び天から来て、私たちを花嫁として迎えてくださる日が近づいています。キリストの再臨を待ち望んで礼拝に集う私たちを、みことばによってきよめ、キリストの花嫁としてふさわしいものとしてください。花婿なるキリストのお名前で祈ります。

2/8/2004