聖霊の満たし〜その必要

エペソ5:15-21

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5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

 エペソ人への手紙には、どの章にも、「聖霊」あるいは「御霊」という言葉が出てきます。「聖霊」または「御霊」という言葉が、この短い手紙の中に、なんと13回も使われているのです。エペソ人への手紙の「聖霊」や「御霊」という言葉をたどって学んでいくと、聖霊について多くのことを学ぶことができます。今月は、聖霊についての教えの中でも最高の教えである「聖霊の満たし」について四回に分けて学びます。

 エペソ5:18に「御霊に満たされなさい。」とありますが、これは命令形になっています。神は、聖霊の満たしを命じておられるのです。「できれば、御霊に満たされたほうが良いよ。」と言っておられるのではありません。神は、キリストを信じて神の子どもとされた者たちが「なんとしても、御霊に満たされて欲しい」と願っておられるのです。聖霊の満たしは、神の子どもにとって、なくてならぬもの、必要不可欠なものであり、聖霊に満たされても、満たされなくてもどちらでもよいというものではないからです。神がこれほどまでに、切実に、私たちが聖霊に満たされることを願っておられるのですから、私たちも「御霊に満たされなさい。」という命令を真剣に受け止めなければなりません。

 一、聖霊の働きを知る

 神が私たちに聖霊の満たしを切実に求めておられるのなら、私たちも「御霊に満たされたい。」と願い求めるのが当然なのですが、実際には、すべてのクリスチャンがこの願いを強く持っているわけではありません。そして、それが問題なのです。私たちが聖霊の満たしを体験できないのは、聖霊の満たしを真剣に願い求めないからです。では、なぜ、聖霊の満たしを願い求めないのでしょうか。いくつかの理由が考えられますが、第一に、御霊の満たしについて教えられていないからです。パウロがエペソで伝道を始めた時、バプテスマのヨハネの弟子たちに出会いました。パウロは彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、その人たちは「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えました。この人々のように、聖霊のことを「聞きもしなかった」なら、聖霊に満たされることを求めることもないでしょう。「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)のですから、神のことばに聞き、学び、理解することがなければ、誰も、神のことばが約束しているものを欲しいとは思わないでしょう。

 父なる神と、御子イエス・キリストと、聖霊とは、等しく神であり、聖書のうちにご自分を現わしておられますが、聖霊の働きの多くは隠れた働きです。それで、聖書を良く学んでいる人でも、父なる神についてそれなりに知り、御子イエス・キリストについてある程度の理解があっても、聖霊の働きを正しくとらえている人は多くはないと思います。聖霊による生まれ変わりについては知っていても、生まれ変わった者に働きかけてくださる聖霊の働きを知らない人が多くあります。聖霊が救いの保証であることは知っていても、聖霊の満たしを知らない人が多くいます。クリスチャンはもう聖霊を持っているのだから、求める必要はないという人もいますが、それは、生まれ変わりや救いの保証などが、聖霊の働きの一部にすぎないことを知らないからなのです。また、聖霊を強調すると極端に走るから、聖霊のことをあまり教えないほうが良いなどと言う人もいますが、とんでもないことです。聖霊の働きをしっかりと学んでいないから、その一部だけをとらえて極端に走るのです。私たちは聖書全体から聖霊と、聖霊の働きを良く学んでおく必要があります。

 渡辺暢雄先生は、仏教大学での恩師、増永霊鳳博士が、「自分は聖書を研究して、神やキリストのことは理解したつもりだが、聖霊というのがどうもわからん。」と言われたと、話しておられました。優れた学識と宗教体験を積んできた高僧にしても、聖霊が分からないというのは、うなづけることです。なぜなら、聖霊を受けることなしには、本当の意味で聖霊を知ることができないからです。神とキリストは、聖書を勉強している人なら、ある程度は知ることができます。しかし、聖霊を知るのは、イエス・キリストを信じて、聖霊によって生まれ変わり、その心に聖霊を宿すようになった人でなければできないのです。

 洗礼を受けるまでの学びは父なる神とキリストについての学びが中心ですが、洗礼を受けてからの学びでは、聖霊についての学びが中心になっていきます。洗礼を受けてからの学びがきちんとなされていないと、長年のクリスチャンであっても、聖霊について何も分かっていない、分かっていないから聖霊を求めないということになるのです。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)これが今年の年間聖句でしたね。主イエスから学びましょう。「聖霊に満たされるとはどういうことかを学びたいのです。主よ、教えてください。」と祈りつつ、学びましょう。

 二、自分の無力を知る

 なぜ聖霊の満たしを求めないのか、その第二の理由は、自分の無力に気がついていないからです。自分は満たされていて、欠けたものがないと思っている人は、聖霊を求める必要を感じることがありません。こどもが、食事の前にクッキーやケーキなどを食べすぎておなかがいっぱいになり、食事をちゃんと食べないことがよくありますね。私たちも、真実な神のことばではなく、ジャンクフード的なものをつまみ食いしていると、自分の本当の必要がわからなくなり、聖霊への飢え渇きをなくしてしまいます。

 クリスチャンになると、神からの力が与えられます。今まで、できなかったことができるようになります。キリストを信じると、目が開かれ、今まで分からなかったことも、「ああ、そうだったのだ。」と理解できるようになります。不安から平安へ、嘆きから喜びへと変えられます。キリストの救いは、私たちを一変させる大きな力です。救われたものは、この変化を体験しています。

 しかし、この変化は、一度限りのものではありません。キリストを信じた時に、確かに罪は赦されましたが、それで、もう罪を犯さなくなったわけではありません。救われて神の子どもとされましたが、一足飛びに天使のようになったわけでもありません。救われた時、神は私たちのうちに新しいいのちを与えてくださいましたが、その新しいいのちはまだ、芽生えたばかりで、それは守られ、育てられなければならないのです。

 私の家では、1月6日のエピファニーに、クリスマス・ツリーや庭木を飾っていた豆電球を片づけました。ところが近所の何軒かの家ではその後も、豆電球を付けたままにしていました。どうしてかと不思議に思っていたのですが、それは、サボテンなど、寒さに弱い植物を電球であたためるためだったということが分かりました。1月の前半、とても寒い日がありましたが、その寒さから守るためだったのです。庭に植えた苗木が、やがて大きく育ち、根を張り、枝を伸ばし、実を結ぶためには、寒さや日照り、害虫や雑草から守ってやらなければなりません。キリストによって与えられた新しいいのちは、ほっておいても自動的に成長し、強くなるのではありません。その成長を妨げる「肉」と戦わなくてはならないのです。

 「肉」というのは、聖書に独特な用語で、人間の生まれつきの性質を指す言葉です。それは「血肉」や「肉体」という意味ではありません。もしそうなら、太っている人は「肉的」で、やせている人は「霊的」であるということになってしまいますが、そんなことではありません。聖書が書かれた時代には、「肉体は精神の牢獄である。」といった考え方がありました。人間を精神と肉体のふたつにわけ、肉体を軽視する傾向がありましたが、聖書は、私たちのからだそのものが罪深いわけではないと教えています。からだは罪深い性質に支配されれば罪深い行いをしますが、聖霊に満たされればきよい行いのために用いられるのです。聖書が言う「霊と肉」は「精神と肉体」のことではなく、「神からの新しい性質と人間の生まれつきの罪深い性質」のことなのです。

 ガラテヤ人への手紙に「肉の行い」として「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」(ガラテヤ5:19-21)などといったものがあげられています。それで、ひどく不道徳なことだけを「肉」であると考えてしまいがちです。けれども、不道徳なものだけが「肉」なのではありません。人間的に善良に見えるものでも、実は「肉」であるものが、いくらでもあるのです。「寛容、親切、善意」というと、「御霊の実」(ガラテヤ5:22)としてあげられているものですが、真理も虚偽もいっしょにしてしまうことが本当の寛容ではありませんし、自分の好きな人にだけにする親切も本当の親切ではありません。善意をもって人に接するのは良いことですが、間違ったことに対して「ノー」と言えなければ本当の善意ではなく、結局は「肉」の行いなのです。不道徳で、反社会的で、汚れたものだけが「肉」ではありません。人々に喜ばれるもの、もてはやされるものの中にも「肉」の働きがあります。どんなに人にもてはやされても、人を神から引き離すものであるなら、それは「肉」なのです。そして「肉」は、どんなに立派なものに見えても、決して神を喜ばせることはありません。ローマ人への手紙に「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)とある通りです。また、「霊」と「肉」は相反するもので、「肉」は「神を喜ぶ」こともありません。

 クリスチャンは決して不道徳な生活をしませんし、不道徳を奨励したりはしません。しかし、クリスチャンの生活は、たんに道徳的であればそれでよいというものではありません。道徳的に生きるだけなら、キリストを信じなくてもできるでしょう。クリスチャンの生活が、ハッピーに暮らすということだけなら、さまざまな人生の教訓や工夫がありますから、聖書でなくても、そうした書物を読んでそれを守ればよいのです。それだけなら、聖霊を求めなくても、自分の力で実行することができます。しかし「神を喜ばせること」や「神を喜ぶこと」は聖霊なしにはできません。クリスチャンの生活は、ローマ12:2にあるように「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ことから始まります。エペソ5:10にも「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」とありました。主に喜ばれることを知り行うことは、聖霊なしにできることではありません。「肉」は自分を喜ばせることはできても、神を喜ばせることはできないのです。

 能力のある人や、恵まれた境遇にある人はどうしても、自分の力に頼って、聖霊を求めることが乏しくなるように思います。しかし、そんな人も自分の力では解決できないような試練に出会うことがあることでしょう。そのような時こそ、自分の無力を認めて、聖霊を求める絶好の機会です。正直に、謙虚に、自分の無力を認めましょう。また、たとえ、大きな試練などなくても、もっと神を愛し、神に喜んでいただきたいという願いを持つなら、人は、自分のうちに神を喜ばせるものがないことを悟ります。そして、聖霊を求めるようになります。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)聖霊を求める信仰へと導かれていきたいと思います。

 三、悔い改めを知る

 なぜ、聖霊の満たしを求めないのか。それは、第一に、聖霊の働きを知らないから、第二に、自分の無力を知らないからですが、第三に、それは悔い改めを知らないからです。たとえ、聖霊の満たしについて十分に理解していても、また、自分の無力を知ったとしても、悔い改めて、聖霊に自分を明け渡すことなしには、聖霊に満たされることはありません。悔い改めとは、聖霊によって、今までの自分のものの考え方、ものの感じ方、言葉や態度、日ごとの歩みを変えてくださいと、願い求めることですから、悔い改めを避けて通っている人は、心の奥底で「聖霊に満たされませんように。」と祈っているのかもしれません。「そんなばかな。」と、皆さんは言うかもしれませんが、実は、聖アウグスティヌスもそのような祈りをしていたのです。

 ご承知のように、聖アウグスティヌスは、354年11月13日、北アフリカのタガステという町で生まれました。幼いころから類まれな才能を発揮し、ローマに留学し、優秀な学者になりました。しかし、その間、マニ教という宗教に入ったり、ふしだらな生活をしたりして、神から遠く離れていました。そのころ、ローマ近郊のミラノにアンブロジウスというすぐれた司教がいましたが、アウグスティヌスは彼の説教に魅せられ、教会に通うようになりました。アウグスティヌスの母モニカも、アウグスティヌスの回心のために17年間祈り続けていました。母モニカの涙の祈りがあって、アウグスティヌスは信仰に近づいていったのですが、その時の彼の祈りは、「主よ、わたしをきよめてください。でも、いますぐにではありません。」というものでした。「やがては信じたいと思います。でも、もうちょっと待ってください。もう少し、自分のしたいことをさせてください。」という気持ちだったのでしょう。みなさんは「神さま、いずれは信仰を持つでしょうが、もうすこしは自由にさせてください。」と、心の中で思ったことがありませんか。「私が救急車で病院に運ばれるようなことがあったら、その時はキリストを信じます。」と言った人がいますが、果たして、そのような緊急の時に、信仰の決断ができるでしょうか。心臓マッサージをほどこされ、点滴を差し込まれ、酸素マスクをつけられた時にできる選択は「息をするか、しかないか」しかないのです。信仰の決断は、先にのばせばのばすほど、その機会がうすれていきます。「今日」という日、「今」という時がベストなのです。

 ある日、アウグスティヌスが何気なく過ごしていると、「取って読め。取って読め。」という声が聞こえてきました。それは子どもたちが遊びに興じてはやしたてていた声でしたが、アウグスティヌスには「聖書を取って読みなさい。」と聞こえたのです。彼は、そのことばの通りに聖書を取って開きました。その箇所はローマ13:11-14でした。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスティヌスは、このみことばによって、「肉」によってでも、「肉」のためにでもなく、神を喜び、神に喜ばれるために生きることを決心し、聖霊を願い求めたのです。悔い改めることなしに、聖霊に満たされることはありません。しかし、悔い改めは決して怖いものではありません。悔い改める者は、赦しをいただくことができます。悔い改めは私たちから自由を奪うものではありません。悔い改めは私たちを罪から自由にします。悔い改めは、決して消極的なこと、後ろ向きなことではありません。それは、おおきな祝福への扉です。悔い改めは恵みです。「主よ、聖霊で満たしてください。でも、今ではありません。」という祈りではなく、「主よ、聖霊で満たしてください。今、そのことをしてください。」と祈る私たちでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは「聖霊の満たし」について学びはじめました。みことばによって、御霊の働きをしっかりと学び、理解することができるよう、導いてください。しかし、いくら学び、理解したからといって、それで聖霊に満たされるわけではないことを、私たちは知っています。どうぞ、自分の無力を認め、言い訳を捨て、ただ一言、「聖霊で満たしてください。」と、真剣に聖霊を求める私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前で、心からの悔い改めをもって祈ります。

2/4/2007