愛されている子どもらしく

エペソ5:1-2

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5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

 一、神との法的関係

 聖書は、神と私たちの関係を家族の関係を使って描いています。神はキリストを信じる者の「父」となってくださり、キリストを信じる者は「神の子ども」となり、「神の家族」(エペソ2:19)の一員となるのです。しかし、私たちはもとから神の子どもではありませんでした。神は、本来は神の子どもではない者をも神の子どもにしてくださいました。聖書はそれを「養子縁組」にたとえています。キリストを信じる者は、いわば、法的に神の子どもとされたのです。

 以前クラーク桂子さんのことをお話ししましたね。サンロレンゾ教会のクラーク桂子さんは、戦後すぐ、日本でアメリカ兵と日本人女性の間に生まれましたが、両親から捨てられ、大変つらい青春時代を過ごしました。そんな中で森繁久弥さんと出会い、また、宣教師としてして来日していたクラーク青年と出会いました。クラークさんと結婚してアメリカに行こうとした時、彼女に戸籍がなく出国が許されませんでした。森繁さんは、彼女のために役所と掛け合ったのですが、埒があきませんでした。それで、森繁さんは、彼女を自分の養女にし、その戸籍を役所に提出したのです。森繁さんは「桂子はわしの娘だ。どうだ。これで文句があるか。」と役人に言ってやったと、『大遺言』という本にあります。

 エペソ人への手紙に、私たちは、かつては「異邦人、無割礼の者、キリストから離れた者、他国人、神も望みも無い者」(エペソ2:11)だったとありました。しかし、神は、そんな私たちに神の子どもとしての特権のすべてを与え「わたしはあなたの父だ。あなたはわたしの息子、娘だ。」と呼びかけてくださるのです。神は、不承不承私たちを神の子どもにするのでなく、人間の親が自分の息子や娘を自慢するかのようにして、私たちをご自分の子どもとして誇ってくださるのです。こんな神がおられるということ、神が私たちの父であるというのはなんと素晴らしいことでしょうか。

 エリザベス女王が、子どもの頃、身分を隠して民家で遊んでいたことがありました。近所の人が、見慣れない子どもがいることに気づいて、エリサベスに、「お嬢さん。あなたはどなたの娘さんなの? どこから来たの?」と尋ねました。すると、エリサベスは「私? 私は、何でもないのよ。でも、私のお父さんとお母さんはあそこに住んでいるのよ。」と王宮を指差したそうです。エリサベス自身は、小さな女の子に過ぎませんでした。しかし、彼女は、国王を父とすることによって、英国の相続者となったのです。私たちも、同じです。聖書に「子であれば相続人である。」(ローマ8:17)とあるように、私たちは、神の子どもとされることによって天国の相続者となるのです。キリストを信じる者は、英国とは比べものにならないほど大きく、尊く、またいつまでも続く天の御国を相続するのです。主イエスは「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)と教えました。神を父とし、天の戸籍に、神の子どもとして名がしるされていることを、心から喜び、感謝したいと思います。

 二、神との内的関係

 キリストを信じる者は、神の子どもとされました。神の子どもとしての身分が与えられ、神の子どもとして取り扱われます。しかし、救われた者が神の子どもになるというのは、身分や立場だけのことで、実際は、救われる以前と同じなのでしょうか。つまり、「神の子ども」という「タイトル」は与えられるが、中身は何も変わらないのでしょうか。ある人たちは、救いというのは、私たちの罪が赦されるだけのことで、救われた後も、私たちは罪人のままで少しも変わることはないと言いますが、ほんとうにそうでしょうか。聖書はどう教えているのでしょうか。

 ペテロの手紙には「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」(ペテロ第一1:22)とあり、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」(ペテロ第二1:4)とあります。エペソ人への手紙にあるように、クリスチャンは「神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ2:10)者であり、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」(エペソ4:23-24)となったのです。神は、旧約の時代から「わたしは…あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36:26)と約束しておられ、この約束はキリストの救いによって成就したのです。神は、信じる者を生まれ変わらせ、新しい性質を持つ者にしてくださると、聖書は教えています。

 人は自分の力で自分を変えることはできません。ある程度は自分をコントロールすることはできるでしょうが、神の子どもとしての性質を新しく作り出すことはできません。私たちが神の子どもとしての性質を持つには神から生まれる必要があります。ちょうど、子どもが親からその性質を引き継いで生まれてくるのと同じです。主イエスは、ニコデモというユダヤ教の教師に、「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。」と教えられました。ニコデモは、生まれ変わりのことを聞いた時、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と主イエスに質問しました。主イエスは、何度母の胎から生まれてこようが、人はそれによっては新しい性質を持つことはできない、ただ聖霊によって生まれることによってはじめて、人は新しくされるのだ、と答えてられました。人は自分の力でクリスチャンになることはできません。クリスチャンは作り出されるものではありません。クリスチャンは生まれてくる者なのです。自分で自分を生むのでもありません。聖霊によって生んでいただくのです。クリスチャンとは、主イエスが言われたとおり「御霊によって生まれた者」(ヨハネ3:6)です。救われた者は、聖霊による生まれ変わりによって新しい性質を持ちます。神の子どもの身分だけでなく、神の子どもとしての性質も与えられるのです。

 このことは、聖書の教えであるとともに、すべての真実なクリスチャンに共通した体験です。皆さんはキリストを信じた時、物の考え方、物の見方、物の感じ方に変化が生じたことを体験しませんでしたか。今まで、気付かなかった自分の罪に気付くようになりませんでしたか。気付いていても悔い改めることをしなかった自分の罪を悲しむようになりませんでしたか。今まで感じることのなかった神の愛を感じることができるようになり、真理への愛が湧き起こってくるのを感じませんでしたか。本当に生まれ変わったクリスチャンは、こうしたことを生涯体験し続けるのです。こうした体験は、新しい性質から来るのです。生まれたばかりの赤ちゃんが、人間としてのすべての性質と能力を与えられてはいても、それをすべて発揮していないように、クリスチャンも、生まれ変わったばかりの時は、神の子どもとしての性質をごくわずかしか現わすことができないかもしれません。しかし、だからといって神の子どもでないわけではありません。聖霊によって与えられた新しい性質は、聖霊に導かれていくなら、必ず成長していきます。そして、クリスチャンには、新しい性質を成長させていくという使命があり、神の子どもなっていくという目的があるのです。「私はキリストを信じて救われた。神の子どもになった。以上終わり。」ということでは、決してないのです。

 親は子どもが生まれたなら、成長することを期待します。そしてその成長を喜びます。やがて、子どもと会話をしたり、一緒に何かができることを期待します。同じように、神も、私たちが神の子どもとして成長し、神とまじわることができるようになり、そのまじわりを深めることを期待し、それを喜んでくださるのです。「私はキリストを信じて救われました。それでいいのでしょう。それ以上、何が必要でしょう?」と言う声を時々聞きますが、そう考える人は、この神のみこころが分かっていないのです。また、神の子どもとしての性質を養うことを忘れているのです。そして、古い性質のままで事を行おうとするために、自分では気がつかなくても、さまざまな問題を、引き起こすようになるのです。そういう人たちは、聖書を単なるマニュアルのようにして読むだけで終わっているのです。

 私は、長い間聖書を教えてきましたが、聖書の真理に対して二種類の反応を見てきました。ある人々は、聖書の真理を、「ああそうですか。」と、まるでひとごとのように受け取るだけなのです。聖書のことばにいちおうは耳を傾けるけれども、この世のどんなものも教えることができない真理を、少しも本気で喜ぼうとしないのです。それを握りしめようとしないのです。聖書の真理は、私たちひとりびとりに与えられた、きわめてパーソナルなものであるのに、また永遠の世界と、永遠に続く神と私との関係を教えているのに、どうしてそれに真剣でないのか、エキサイトしないのか、私には不思議でなりませんでした。しかし、もう一種類の人々は、その人のほうが数が多かったのですが、聖書の真理を知るとそれに感動し、その真理をもっと深めたいという願いを与えられてきました。たとえば「私が神の子どもだなんて、すごいことですね。」という感動が生まれたり、「私は少しも神の子どもらしくないのですが、どこかおかしいのでしょうか。」という疑問も生まれ、そこからさらに真理の探求が始まっていきました。

 私たちの神との関係が法律的な関係だけではなく、内面的、霊的な関係であることを知っている私たちは、神から与えられた新しい性質を成長させることに心を向けていこうではありませんか。それこそが信仰の生活でいちばん大切なことなのです。

 三、神との動的関係

 キリストを信じる者は法的にはすでに神の子どもです。また、内的にも神の子どもとしての性質が与えられています。しかし、神との関係は、「キリストを信じるなら神の子どもになるのか、なるほど…」と納得して終わるものでも、神の子どもとしての性質が与えられているということを、「そんなものなのかなぁ。」と半信半疑で受け取ったままでいることでもありません。神の子どもたちには、日々の生活の中で神の子どもらしくなっていくことが求められているのです。それは、家庭においても、職場においても、また、地域においてもそうですが、まずは、教会で、その訓練を受けなければなりません。

 主イエスは、弟子たちに、そして私たちに、神を「天の父」と呼ぶように、そして、天の父に子どものような信頼を置くように教えられました。しかし、主イエスは、私たちが神の子どもという身分をもらったままで、じっとしていて良いとは言われませんでした。あなたのうちに与えられた神の子どもの性質を成長させなさい、神の子どもとしていただいた神の愛にこたえなさい、そして、神の子どもとして生活しなさいと教えられました。

 神と私たちの関係は、ダイナミックな関係です。それは双方向のもので、一方通行のものではありません。神は私たちを愛してくださいました。私たちはその愛にこたえて神を愛するようになるのです。神が打てば響くお方であるように、私たちも神の愛に打たれてそれに共鳴するのです。神のいのちが私たちのうちに働き、私たちもまた神に向かって信仰を働かせていくのです。神が私たちの内面に触れてくださり、それによって私たちが変えられ、私たちのまわりが変えられ、そして世界が変えられていくのです。このようなダイナミックな神との関係の中に生きることによって、私たちは「神の子どもである」だけでなく、「神の子どもになる」ことができるのです。あなたは、すでに「神の子どもである」という確信を持っていますか。もしそうなら、そこからさらに「神の子どもになる」ことへ進んでいこうではありませんか。

 では、どうしたら、「神の子どもになる」ことができるのでしょうか。エペソ5:1は「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」と教えています。「神にならう」というのは英語では "be imitators" と訳されています。今日では「イミテーション」というと「偽物」という意味があって、あまり良い意味で受け取られませんが、聖書が書かれた時代では、この言葉は優れたお手本に習い、それをマスターするという、良い意味で使われました。日本の芸術は、書道でも、絵画でも、邦楽でも、まずお手本を真似ることから始まります。信仰の世界も同じで、私たちは、神にならい、キリストにならうのです。使徒パウロは「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17)と言っています。トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」は、聖書についで多く読まれてきた書物で、「キリストのイミテーションになる」ということが教えれられています。「キリストのイミテーション」といっても、外見だけのものでないことは、もう言う必要がありませんね。キリストを真似るとは、キリストの内面を真似ることです。キリストの心を心とすることです。

 エペソ5:2は、「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」と教えています。キリストは、キリストに従う者にも十字架を負えと言われましたが、それは、すべてのクリスチャンが十字架にかかって死ななければならないということではありません。キリストの十字架は殉教の死ではなく、私たちの罪の身代わりの死、贖いのささげものとしての死ですから、人間は誰ひとりそれを真似ることはできません。しかし、キリストが黙って十字架を背負われたお姿、そこにある神への服従や人々への愛、キリストの神への信頼や献身は、私たちが真似て身に着けなければならないものです。今年の年間聖句は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)です。「学ぶ」という言葉は「真似る」という言葉から来ています。私たちの主であり、師であるお方はイエス・キリストです。お手本を真似るには、いつもお手本を見つめていなければなりません。お手本にならないものに振り回されないように、また、自分勝手にお手本を作り出すようなことがないようにしましょう。神の御子イエス・キリストという最高のお手本を忠実に真似て、学んでいきましょう。

 神にならう者になるのは、神の子どもとして生まれるのと同じように、自分の力でできることではありません。私たちを神の子どもとして生んでくださった聖霊によらなければ、それこそ偽物のイミテーションになってしまいます。しかし、この聖霊の働きも、私たちがそれを求めて、一歩を踏み出さない限り始まらないのです。神と私たちの関係はダイナミックな関係です。神が導き、私たちが応答します。私たちが求め、神が私たちの内面に働きかけてくださいます。神との生きた愛の関係の中に歩み、神の子どもとして成長していく決意を新しくしましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたから「わが子よ。」と呼ばれ、あなたを「父よ。」と呼ぶことができることを感謝します。今朝、私たちは、私たちとあなたとの間に、内面的で霊的な関係、生きたいのちの関係、ダイナミックな双方向の愛の関係があることを学びました。私たちがあなたを父と呼ぶごとに、この関係を確認させてください。そして、あなたの「子どもである」者たちを、あなたの「子どもになる」道へと導いてください。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/21/2007