聖徒たちを整えて

エペソ4:7-13

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4:7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
4:8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
4:9 ―この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
4:10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。―
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 10月31日は何の日でしょうか。「ハロウィーン」という答えが返ってきましたが、この日は、教会にとってもっと大切な日、「宗教改革記念日」です。1517年、アウグスティヌス会の修道士で、ウィッテンベルグ大学の教授、神学博士マルチン・ルターが、ウィッテンベルグの城の教会の扉に『95か条の提題』を掲示したのが、10月31日でした。ルターの著作は、当時発明された印刷機によってたちまち、ヨーロッパ中に広まり、宗教改革が起こりました。宗教改革は、厳密に言えば「教会」改革でしたが、当時のヨーロッパでは「宗教」といえば、「キリスト教」のことでしたから、それは今も「宗教」改革と呼ばれています。

 しかし、なぜ、ルターは、『95か条の提題』を発表するのに、10月31日を選んだのでしょうか。それは、翌日の11月1日が All Saints Day(諸聖人の日)という大祝日で、大勢の人々が教会に集まる日だったからでした。「諸聖人の日」は、殉教者たちを覚える日として、初代教会以来守られてきたもので、教皇グレゴリオ四世が、835年にそれを11月1日と定めました。ヨハネの黙示録7章に、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、神と主イエス・キリストを賛美している人々の姿が描かれています。聖書は、この人々について、「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7:14-17)と言っています。「諸聖人の日」は、天に召された聖徒たちの幸いを思い、天使と聖徒たちの賛美を受けておられる栄光の主を礼拝する日でした。

 宗教改革の時代、プロテスタントのクリスチャンに数多くの殉教者が出ました。「諸聖人の日」を迎えるにあったって、私たちも、10月31日をたんに「ハロウィーン」として過ごすだけでなく、信仰を守り通し、真理のために命をかけ、教会を愛して、その改革のために生涯をかけた聖徒たちを覚え、その足跡に倣うものとなりたいと思います。

 一、聖徒

 「聖徒」というと、多くの人は、アッジシのフランチェスコやマザー・テレサなどといったずばぬけて優れた人々のことだと考えますが、聖書では「聖徒」という言葉は、すべての真実なキリスト者に対して用いられています。長年信仰を守ってこられた本田姉妹も、東兄弟姉妹も、最近洗礼を受けられた鈴木兄弟姉妹も、等しく「聖徒」であり、神はそうした人々を、セイント・ホンダ、セイント・ヒガシ、セイント・スズキと呼んでくださるのです。"From Sinners to Saints" というのは、私の好きなことばの一つです。イエス・キリストを信じる者は、キリストの十字架の血によってその罪が赦されただけでなく、きよめられて、「罪びと」から「聖徒」へと変えられたのです。

 エペソ4:11〜12に「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、…」とあります。この箇所には、神が特別な召命と賜物を与えた「使徒、預言者、伝道者、牧師」といった、教会の指導者のことが書かれていますが、そうした指導者たちではなく、指導を受ける一般の信徒が「聖徒」と呼ばれています。使徒たちは、聖ペテロ、聖パウロなどと呼ばれ、教会の指導者たちは、聖アタナシオスや聖アウグスティヌスと呼ばれていますが、使徒たちや教会の指導者だけではなく、神は、すべての信徒を「聖徒」と呼び、すべての信徒が「聖徒」になるように、また、神に仕えるように願っておられるのです。

 宗教改革までは、「聖徒」というと特別な人々と考えられ、神に仕えるのは、聖職者たちや、特別な献身をした人々だけであるとされてきました。しかし、宗教改革によって、一般の信徒もまた、聖職者と同じように、神に仕えるために召されているということが、教えられるようになりました。教会の指導者だけが神の召しを受けているのではありません。そうでない人々もまた、信徒としての召命を受けているのです。聖職者だけでなく、すべてのキリスト者が神からの召命を受けており、その召しに忠実であるように求められているのです。ある人は、医者や教師などに召されますが、ある人は、主婦に召されます。私の知っている夫妻は、教会の清掃に召されていると感じ、リタイヤしてから20年近く、毎週欠かすことなく、教会のトイレ、サンデースクールのクラスルームを清掃し、ソーシャルホールと廊下をモップで磨き続けてくれました。ある人は、洋服を直す仕事をしながら、注文を受けた洋服の一着一着を心をこめて仕上げ、それによって多くの人に神の愛を伝えています。ある人は、ストロークのため、ナーシングホームのベッドに横たわったままでしたが、その人は「祈りに召されている」ということに気付き、教会のために祈り続けてくれました。

 みなさんは「聖徒」として召されていることに気付いていますか。神の召しを喜び、それに精一杯答えているでしようか。

 二、奉仕の働き

 次に「奉仕の働き」という言葉に目を留めましょう。聖書は誰が「奉仕の働きをする」と教えていますか。ここには、「使徒、預言者、伝道者、牧師」という人々が出てきますので、「奉仕の働きをする」のはこういう人たちだと思われがちですが、そうではありません。教会の指導者たちの役割は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」ることであり、奉仕の働きをするのは、すべての聖徒たち、つまり、信徒ひとりびとりなのです。

 日本で「総動員伝道」が始まったのは、私が神学校で学んでいる頃で、神学校で総動員伝道についての特別講義がありました。「多くのクリスチャンが、伝道や教会の仕事は牧師や役員がすることであると考えているが、それは、大勢の人が乗っている船を、船頭がひとりで進ませようとするようなものである。だから、伝道が進まず、教会が成長しないのだ。教会という船に乗るみんながこぎ手になり、牧師が舵を取るという聖書の原則を実践しよう。」と習いました。教会が船で、信徒がこぎ手であるというのは、とても分かりやすいたとえですね。みんながこぎ手になれば、船は早く進みますが、誰かがそれをリードしないと、船はまっすぐ進みません。右にまがり、左に曲がり、同じところをぐるぐる回るだけになってしまいます。悪くすればバランスを失って転覆してしまいます。みなさんも見たことがあるでしょうが、ボート競技などでは、ボートの先頭に座って、ボートをこぐ人に指示を与えている人がいますね。その人がこぎ手のペースを定めて、みんながいっしょにボートをこぐことができるようにするのです。教会では、牧師がその役割をします。牧師を通して示される神のことばによって方向を示され、示された目標に向かって、進んでいく教会は幸いだと思います。

 では、奉仕のわざが目指す方向とは何でしょうか。聖書は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」ということばに続けて、「キリストのからだを建て上げるため」と書いています。それは、キリストのからだとしての教会が霊的に成長していくためです。使徒、預言者、伝道者、牧師たちは、キリストのからだの骨格や神経のような働きをしますが、骨格や神経だけではからだは、生きて働くものとはなりません。骨格に筋肉がつき、筋肉に血管がとおり、その血管に心臓から新鮮な血液が流れて、はじめて、からだは生きて働くものとなります。教会が成長するためには、すべての聖徒たちの、奉仕と献身とが必要なのです。

 奉仕する者にはどんな態度が求められているのでしょうか。「しもべ」として仕えることです。ここで「奉仕」と訳されている言葉、ギリシャ語の「ディアコニア」には「しもべとして仕える」という意味があります。教会での働きは、どれも「しもべとして仕える」ことであって、決して、誰かの上に立って、他の人を支配するものではありません。一般の団体や組織では、そこで役職を与えれたり、仕事を任されたりすると、それが「特権」となり「権力」となることがあります。聖書がいう「奉仕」はそのような意味での「特権」ではなく、神から与えれた「義務」で、謙虚に受け止めるべきものです。主イエスは、「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)と言われました。奉仕は「わたしはこれだけのことをしました。」と言って誇ることのできるものではない。たとえ人に認められず、褒められることがなくても、なすべきことに励むのが、キリストの弟子であると、主は教えておられるのです。

 じつは、「奉仕」(ディアコニア)という言葉から、「執事」、ギリシャ語で「ディアコノス」、英語で「ディーコン」という言葉が生まれました。「執事」のもともとの意味は「仕える者」です。使徒パウロはエペソ3:7でこの言葉を使って、「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」と言っています。ここで「仕える者」と訳されているのは「執事」とも訳すことができる「ディアコノス」という言葉です。使徒は執事を任命する立場にあり、執事は使徒を補助するものであるのに、使徒であるパウロが、自分を「執事」「仕える者」と呼んでいます。なんという謙遜でしょうか。「目的の四十日」で学んだように、私たちも、パウロにならい、しもべの心を持って、「奉仕」に励みたいと思います。

 三、整える

 最後に、「聖徒たちを整えて」という部分にある「整える」という言葉について学びましょう。「整えること」(カタルティスモス)という言葉は、もともとは医学用語で、骨を折った時、添え木をあてて治療することを表わします。この言葉の動詞はカタルティゾーと言い、聖書に数多く出てきます。「過ちに陥った人を正す」(ガラテヤ6:1)、「生活を正す」(コリント第二13:11別訳)、あるいは「網を繕う」(マタイ4:21)などというふうに使われています。足の骨を折ったら、それをまっすぐにしないと、もういちど立って歩くことができません。破れた網はきちんと繕わなければ、次の漁で使うことができません。そのように、神は、霊的な骨折状態にある私たちをまっすぐにし、破れた網のようになっている部分を繕って、私たちを「聖徒」にふさわしいものにしてくださるのです。

 キリストを信じる者は「罪びと」から「聖徒」になりました。その立場においては完全に「聖徒」です。聖徒としての新しい性質も与えられています。しかし、それが、私たちの物の考え方を変え、言葉を変え、行動を買えて実際の生活に表われるには、時間と訓練が必要です。物の考え方がこの世の価値観に支配されているクリスチャン、古いライフスタイルから解放されていないクリスチャン、心の傷が癒されないでいるクリスチャンが多くいます。罪のために歪んでしまった物の考え方が正され、傷ついた感情が癒され、間違った態度や行動は修復されなければなりません。それが「整える」という言葉が意味していることなのです。

 「聖徒たちを整えて」という場合、「整える」という言葉を、マニュアルを作って「奉仕」のやり方を教える、仕事のスキルを身につけさせることであると考えられてきたのは残念なことです。たしかに、カタルティゾーという言葉には「十分訓練を受ける」(ルカ6:40)という意味があります。しかし、それは、教会で特定の仕事のやり方を教えるということではありません。私たちの教会でも、個人伝道の訓練会やリーダシップ研修会などをしました。コンピュータを使っての奉仕が増えましたから、コンピュータの使い方についてもプレゼンテーションをしました。これからはギターを用いて賛美をすることもよいからギターの弾き方の勉強をしましょうというようなことがあるかもしれません。しかし、「整える」という言葉には「奉仕」のためのスキルを磨くというよりは、人々を「奉仕者」として成長させることを意味しています。「整える」という言葉は、「奉仕」という言葉に結びついているのでなく、「聖徒」という言葉に結びついています。神は、私たちが「聖徒」として整えられていくことを望んでおられるのです。テサロニケ第一3:10ではカタルティゾーは「信仰の不足を補う」という部分で使われており、それは、人々を霊的、信仰的に整えることを意味しています。

 私の卒業した神学校には神学部と教会音楽部がありますが、教会音楽部の学生にも、神学の勉強が義務づけられています。教会音楽部を創設した岳藤豪希先生は、つねづね、「聖書の真理によって信仰が養われていなければ、『音楽』の指導者になることはできても、『教会音楽』の指導者になることは出来ない。」と言っておられました。神学部の学生に対しても、舎監の舟喜 信先生は、「神学を勉強したからといって高慢になってはいけない。常に教えられやすい者となり、神とのまじわりを第一にするように。」と、毎週の学生祈祷会で教え続けてくださいました。奉仕のスキルは、神に喜ばれる「奉仕者」でありたいと願って励むなら、自ずと与えられます。私自身、牧師としてのスキルをさらに磨いていかなければならないでしょうが、それよりも、自分自身を神に喜んでいただける「奉仕者」として整えなければならないと思っています。教会がたんなる人間的なスキルやタラントだけで動くのではなく、信仰によって、霊的なものによって進んでいくところであるよう、願っています。

 サンディエゴの教会で、私は「12ステップ」を用いたサポートグループを始めました。神の恵みによってそれは、豊かに用いられ、そのサポートグループでいやしを体験した人々が、執事に、婦人会の会長に、また、チュルドレン・チャーチの教師となって、素晴らしい奉仕をささげてくれました。私は、そのことから、教会が霊的、信仰的なものを第一にしていけば、必ず奉仕者が育ち、必要な奉仕が満たされるとの確信を得ました。

 「12ステップ」が用いられたのは、それが、私のほうから導入したプログラムではなく、信徒の熱心な求めから始まったものだったからだと思います。「12ステップ」は、「私たちは、私たちが無力であり、自分の問題が自分の手に負えないものであることを認めました。」という言葉ではじまります。自分の無力を痛感している人々、心の痛みを感じている人々、信仰の不足を認めた人たちが、神の救いを求め、いやしを求め、満たしを求めて、このプログラムが始まったのです。と言っても、そうした人たちが、特別「弱い人々」「問題だらけの人々」というのではありません。神の前に正直で、誠実な人々でした。だからこそ、自分の間違いと、無力を認めることができたのです。自分は大丈夫、間違いもないし、弱さもないという人のほうが間違っているのかもしれません。私たちは神によって「聖徒」と呼ばれているのですから、自分を卑下してばかりしてはいけません。しかし、同時に、自分に「聖徒」と呼ばれるのにふさしくないものがあることを認めて、聖徒として整えられたいという願いもまた起こされてこなければなりません。私たちのうちにそのような願いが起こされる時、教会は間違いなく、キリストの教会として建てられ、将来に向かって進むことができます。「聖徒」として整えられたいと願う人々と、ともにキリストの教会を建てあげたい、それが、私の願いです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが「罪びと」である私たちを、キリストを信じることによって「聖徒」としてくださいました。それは、なんという大きな恵みでしょうか。私たちにその恵みを深く悟ることができるようにしてください。そして、その恵みに答えて、「私を聖徒として整えてください。」と心から願う者たちとしてください。教会が人間の技能や組織の力で動くのでなく、聖霊と信仰によって前進するところとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/29/2006