4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
イエスは十字架にかかられる前に弟子たちに聖霊について教え、天にお帰りになる前には、弟子たちがもうすぐ聖霊を受けると約束されました(ヨハネ16:7、ルカ24:49)。弟子たちも、イエスが昇天されてから聖霊を受けるために自らを整えました。そしてイースターから50日目、ペンテコステの日に弟子たちは聖霊を受けました。私たちも、6月8日のペンテコステに向けて、しばらくの間、聖霊について学び、ペンテコステを祝う準備をしたいと思います。
一、聖霊は贈り物
イエスは祈りについて教えられたとき、こう言われました。「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:11-13)父なる神は、私たち神の子どもとされた者たちに、いつでもいちばん良いものをくださるのですが、その中で最高のものは「聖霊」だと、イエスは言われました。
ペンテコステの日にペテロは、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)と、イエスを信じるすべての人に聖霊が賜物として与えられると言いました。実際この日、120人の弟子たちに続いて、イエスを信じた3千人の人々もみな聖霊を受けました。聖霊はイエスを信じる者に与えられる神からの賜物です。
使徒信条の最後の部分で、私たちはこう告白します。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命――これらすべては、信じる者に与えられる神からの贈り物です。そして、使徒信条はそれらの賜物の最初に「聖霊」を置いています。「教会」は聖霊によって生まれ、「聖徒」の交わりは聖霊によって保たれ、「罪の赦し」は聖霊によって確信するもの、「身体のよみがえり」は聖霊の力によるもの、そして「永遠の生命」は聖霊によって保証されます。ですから、使徒信条は、「我は聖霊を信ず」と言って、聖霊をイエス・キリストを信じる者に与えられる神からの第一の賜物であると言っているのです。私は使徒信条を告白するたびに、父なる神が私たちに御子イエス・キリストを賜り、父と御子が、御子を信じる者に聖霊を賜ったことを感謝しています。
最近、もう一度人を月に送り、また、火星にまで送り込もうという計画が立てられていますが、月や火星は人間が住むには全く適さない場所です。放射線や有害物質、砂嵐などが命を奪います。極端な温度差のため、宇宙船も長くは保ちません。そこでは食糧も水も調達できません。宇宙開発が進めば進むほど、地球がどんなにかけがえのない場所かが分かるようになりました。神は地球を人の住処としてみごとに造ってくださり、80億という人々を養ってくださっています。人々が争わず、国と国とが戦争をしなければ、地球にはもっと多くの人々を豊かに養うことができるだけのものがあるのです。
神がこんなに素晴らしい地球と自然を与えてくださったことだけでも神の愛を感じるのですが、神は、さらに人を愛して、人を罪から救うため、ご自分が造られた物だけではなく、ご自分の独り子さえ与えてくださいました。そればかりでなく、御子イエスによって成し遂げられた救いが私たちのものとなるために、聖霊を賜物としてお与えくださったのです。御子イエス・キリストは父なる神から私たちへの愛の贈り物ですが、聖霊もまた父と御子から私たちへの最高の贈り物なのです。私たちは聖霊をいただくことによって、聖霊が生み出してくださるすべての恵み、祝福を受けるのです。イエスを信じて聖霊を頂いたことがどんなに大きな恵みなのかを知り、もっと感謝したいと思います。
二、聖霊への罪
私たちは聖霊を受けています。ですから、もし聖霊を軽んじるなら、それは聖霊に対する罪となります。「聖霊に対する罪」といわれても、ふだんはあまり意識しないと思いますが、じつは、聖書には、聖霊に対する罪が四つ挙げられています。
第一は、「聖霊を冒瀆する」罪です。イエスが聖霊のお力によって奇跡を行われたとき、ユダヤの指導者たちは、聖霊の働きをサタンのしわざだと言いました。そのときイエスは彼らにこう言われました。「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(マルコ3:28-29)イエスに反対したのはユダヤ教の指導者でした。彼らは「自分たちは聖霊の知恵を持っている」と自慢していましたが、実際、聖霊の働きをサタンの働きだと言って聖霊を冒瀆する者たちだったのです。
イエスが「聖霊を冒瀆する罪は赦されない」と言われたのは、この罪が知らずに犯す罪ではなく、イエスに対するあからさまな悪意や憎しみから出たものだからです。私たちも、キリストを信じるまでは、「神なんかいらない。信仰など必要ない」と言って、神に対して頑固で反抗的な態度をとっていました。しかし、そうしたことは、まだ神の恵みをよく知らないためにしたことで、聖霊が真理を知らせてくださった時、悔い改めて、赦されました。しかし、聖霊は私たちに悔い改めを促してくださっているのに、それさえも拒否するなら、赦しの道がなくなってしいます。父なる神に対する罪はイエスがとりなしてくださり、イエスに対する罪は聖霊がとりなしてくださるのですが、聖霊に対する罪は誰もとりなすことができないからです。これは非常に厳しい言葉ですが、神の御子であり、万物の主であるお方が、「まことに、あなたがたに言います(アーメン、わたしは言う)」と前置きして語られた言葉です。主の言葉に、姿勢を正して向かいたいと思います。
聖霊に対する第二の罪は、「聖霊に逆らうこと」です。ステパノは迫害を受け、ユダヤの指導者の尋問を受けましたが、それにひるむことなく、こう言って、ユダヤ人の罪を責めました。「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」(使徒7:51)ここで「聖霊に逆らう」とは、真理を知りながら、それを受け入れようとしない罪です。これは神の民と呼ばれる人たちが犯す罪です。神の言葉を与えられながら、それに逆らい続けることは、神の言葉の与え主、聖霊に逆らうことになるのです。
第三の罪は「聖霊を消す」ことです。テサロニケ第一5:19に「御霊を消してはいけない」と教えられています。聖霊は、聖書では「ともしび」や「炎」にたとえられています。「ともしび」はものごとを識別する知恵を表わします。何が神に喜ばれることで、何がそうでないかを見分ける知恵は聖霊から来るのです。また、聖書には「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ローマ12:11)、「神の賜物を、再び燃え立たせてください」(テモテ第二1:6)などといった言葉があって、聖霊が私たちに、熱意や忍耐を与えてくださることが教えられています。「聖霊を消す」というのは、聖霊が励ましておられるのに、それを受け入れず、神に対する熱心や誠実さを失くしてしまうことを意味します。
昔、簡単には火を起こせない時代には、囲炉裏(いろり)や火鉢の灰の中に火がついた炭を埋めておいて、それを火種にしました。それを「埋み火」(うずみび)と言います。聖霊は、神が私たちの内に埋めてくださった「埋み火」です。人間的な情熱は冷めることがあっても、聖霊の「埋み火」は消えません。御言葉を学び続け、神に近づきたいという願いを私たちのうちにかきたててくださいます。その聖霊を消すことなく、聖霊によって照らされ、燃やされ、信仰の生涯を最後まで歩み通したいと思います。
三、聖霊の悲しみ
第四の罪は「聖霊を悲しませる」罪です。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけません」とあります。31節に「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい」とあるように、私たちが心に苦いものを根深く持ち、自分の観点からだけで人を判断し、しかも、それを悔い改めないとき、聖霊はそのことを深く悲しまれるのです。
イエスは言われました。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(ルカ15:7)神は人々の悔い改めを心から喜んでくださいます。それと逆に、罪を悔改めようとしないとき、神は深く悲しまれます。創世記6:6に、神はノアの洪水の前の人々の状態を見て、「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とあります。「悔いる」というのは、何か失敗して、それを悔やむことを指しますが、完全な神は失敗なさることも後悔なさることもありません。ですから、ここでの「悔いる」という言葉は、そのあとの「心を痛める」と同じ意味で使われており、二つの言葉が組み合わさって、神の深い悲しみを表わしています。
この神の「悲しみ」はイエスが「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(ルカ13:34)と言われた言葉の中にも表されています。
父なる神が悲しみ、イエスが悲しまれるように、聖霊も、私たちの悔改めのない心や態度を悲しまれます。聖書は神を「父なる神」と呼んでいますが、神がまるで母親のような心で、私たちのことを心にかけてくださることも多くの箇所に記されています。さきほどのイエスの言葉にも、「めんどりが翼の下にひなを集めるように」とありました。神は「父性」だけでなく、「母性」の愛も豊かに持っておられ、それは、とりわけ、聖霊に見られます。実際、聖霊は私たちを神の子どもとして生んでくださったお方で、私たちにとって「母」の役割を果たしておられます。教会は、「母なる教会」と呼ばれてきました。神の子どもたちを神の言葉で養うからです。しかし、その教会を生み出してくださったのは聖霊で、私たちは、教会を「母なる教会」と呼ぶとき、母のような愛で私たちを養ってくださる聖霊を思います。
子どもが何か悪いことをしたとき、ふつう父親はそれに対して怒り、叱りつけますが、母親のほうは子どものしたことについて悲しみ、心を痛めます。母親となった人で、子どものことで悲しみを味わったことのない人は誰もいないと思います。ですから、皆さんにも、聖霊が私たちの罪を悲しまれるお方であり、母のような温かく優しい愛をお持ちの方であることを感じ取ることができるかと思います。
聖霊を悲しませることがないように、いつも聖霊の思いに心を向けていましょう。もし、聖霊を悲しませてはいないかと思うことがあったら、聖霊の悲しみの中にある愛を覚え、私たちも、自分の罪を悲しみ、悔い改める者となりたいと思います。そのようにして神を喜ばせる歩みを続けたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、御子イエスを賜ったほどに私たちを愛してくださいました。また、その上、聖霊をも最高の贈り物として私たちに与えてくださいました。私たちを聖霊に対する罪から遠ざけ、日々の生活の中で、聖霊の愛を豊かに体験できますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。
5/11/2025