聖霊の悲しみ

エペソ4:25-32

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4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

 一、罪は神の定めを破る

 日本でのことですが、昨年(2006年)11月2日午後9時ごろ、横浜市旭区でトラックが荷台にショベルカーを積んで走っていました。そのショベルカーのアームが電線を引っ掛け、その弾みで街路灯が倒れました。街路灯は、近くを歩いていた筑井康隆さんと長女の愛ちゃん(1歳)を直撃し、筑井さんは重傷、愛ちゃんは脳挫傷で亡くなりました。

 トラックに荷物を積む場合、高さ制限があって、「3メートル80センチ」となっていたのですが、このトラックはそれを45センチ超えていて、ショベルカーのアームの部分は「4メートル25センチ」の高さがありました。警察は、トラックの運転手とショベルカーを所有していた会社を訴え、裁判が行われました。

 ところが、この事件はそれだけでは終わりませんでした。さらに調べを進めていくと、倒れた街路灯の電線の高さが、規則で定めた基準「4メートル50センチ」より30センチも低い「4メートル20センチ」だったことが分かってきたのです。電線の高さが基準どおりだったら、たとえトラックの荷物の高さが制限を超えていたとしても、事故は起こらなかったでしょう。「4メートル20センチ」の高さの電線を、「4メートル25センチ」の高さのトラックが通ろうとしたため、この事故が起こりました。たった5センチの差で、1歳の愛ちゃんの命が奪われたのです。この電線は、街路灯にとりつけた防犯カメラに電気を送るためのものでしたが、それを設置した会社も、許可を与えた横浜市も基準にあっているかどうかの確認を怠っていたのです。

 たいへん痛ましい事故ですが、この事故は聖書が教える「罪」とはどんなものかを良く教えているように思います。「罪」とは、第一に、ルール違反のことです。どの社会にもルールがあります。たとえそれが文章になっていなくても、家庭にも、教会にも守らなければならないルールがあります。罪とはそれを破ることです。ルールが破られる時、社会は乱れ、家庭が壊れ、教会もまた傷つけられます。神は、いつの時代のどこに住む人にも「良心のルール」を与えておられます。自然の法則に逆らったら大変なことになるように、神が与えてくださったルールに逆らうなら、私たちは、自分を滅ぼすことになるでしょう。

 人はどのようにして、神のルールを破るのでしょうか。まず、神が定めた制限を超えることによってです。街路灯を倒したトラックの積荷が高さ制限を超えていたように、私たちも、神が定めた制限をはみ出す時、それが罪となります。十戒に「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。むさぼってはならない。」とあるように神のルールは「してはいけない。」という禁止の形で示されています。人は、禁じられていることを犯すことによって、神のルールを破っています。現代は、人間がこの世界の主人で、何をしても自由であるという、間違った考え方の影響を受けていますので、神が何かを禁じることを、まるで神が人間の自由を侵害しているかのように思う人が多くいます。しかし、神が十戒で「してはいけない。」と禁じておられるのは、人間から自由を奪っているのではなく、人間を自由にするためです。人間を罪から守り、罪に支配されることがないようにするためです。道路に「進入禁止」や「Uターン禁止」などとあるのが、ドライバーを守るためであるのと同じです。それを無視したら、正面衝突をしたり、崖下に落ちたりしたりするかもしれません。禁止の命令や制限は、私たちの人生がどこかに衝突して台無しになってしまったり、信仰の道からはみ出して崖下に転落し、天国にたどりつけないということがないようにするためのものです。魚が水の中にいてこそ自由なように、私たちも神のルールの中にいてこそ本当に自由に生きることができるのです。

 人は、また、神が求めておられる基準に達しないことによっても、神のルールを破ります。街路灯に取り付けられた電線が基準の高さ「4メートル50センチ」に達していなかったために、悲惨な事故が起こったように、神が私たちに求めておられる基準にいたらないことも罪となるのです。聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3:23)と言っています。この箇所は英語では "All fall short of God's glorious standard." と訳されています。「神の栄光の基準に足らない。」というわけですね。過ぎたことも罪ですが、足らないことも罪です。

 そればかりでなく、人は、神のルールを無視したり、適当に扱ったり、軽んじたりすることによっても、それを犯します。1歳の愛ちゃんが亡くなった事故で、トラックの運転手は、警察の取調べに対して、「規則に違反していることは分かっていたが、今までも事故が起こらなかったので、大丈夫だと思った。」と話していました。トラックの運転手ばかりか、電線を設置した業者も、それを許可した市役所もルールを知っていました。しかし、「このくらいなら大丈夫だろう。」と、それぞれが自分勝手にルールを取り扱ったために大きな事故が起こり、尊い人命が奪われたのです。私たちが犯す罪の多くは、神のことばを無視することによって引き起こされます。クリスチャンの場合、神のことばをあからさまに無視することはないかもしれませんが、神のことばに対して、不注意であったり、いい加減であったりすることで罪を犯すことがあります。人類の最初の罪、アダムとエバが犯した罪も、神のことばに対して忠実でなかったことから引き起こされました。神はアダムとエバに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と言われました。エバは「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」という神のことばを「あなたがたが死ぬといけないからだ。」と弱めました。そこにサタンがつけこみ、神のことばに対して疑いを抱かせ、それを自分勝手に解釈させようとしたのです。アダムとエバは、神のことばに対してあやふやであったため、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)というサタンの声に聞き従ってしまったのです。私たちは、神のことばに対して不注意であったり、あいまいであったり、自分勝手な解釈をすることがないようにと、祈り求めながら、神のことばを守っていきましょう。ある人の聖書の扉に「これを守れ。そうすれば、これがあなたを守る。」ということばが書いてありましたが、ほんとうにその通りです。

 二、罪は神の心を痛める

 罪とは、このように、神の定めを破ることやそれに達しないことですが、それは、たんに法律違反以上のものです。それは神の心を痛めることです。神の定め、戒め、律法というのは、神の愛のみこころから出たものです。ですから、神の定めを破ることは神の心を破ることになるのです。さきほど、十戒は、単に「これをせよ。これをしてはいけない。」という冷たい規則集ではなく、私たちを保護するためのものだとお話ししました。十戒は「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト20:1)ということばで始まっています。神は、そこで、私たちを「わたしの民」と呼んでくださっただけでなく、ご自分を「あなたの神」と言ってくださっています。神は「イエス・キリストの父なる神」と呼ばれるお方です。神が、きよく、力ある神の御子イエス・キリストの父なる神と呼ばれることによって、神の偉大な栄光が現わされています。ところが、神が私たちの名前で「誰それの神」などと呼ばれるとしたら、そのことで神の栄光が汚されてしまうのではないかと、恐れを覚えます。しかし、神はそんなことにおかまいなく、「わたしは『あなたの神』だ。」と言ってくださるのです。なんという愛でしょう。十戒は、この神の愛にもとづいて、その愛を私たちに示すために与えられたものです。

 そして、神が十戒で私たちに求めておられるのは、なによりも神への愛なのです。第二戒で神は「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、…」(出エジプト20:6)と言っておられます。聖書は、神を愛するとは神の命令を守ること、また、神の命令を守るとは神を愛することだと教えています。ですから、罪とは神のルールを破ることだけではなく、そのルールを通して私たちに示してくださった神の愛のみこころを傷つけること、それを痛めることになるのです。

 最近、Scott Hahn という人の話をテレビで聞く機会がありました。Dr. Scott Hahn は大学で神学と哲学を教える教授で、最近 "Lord Have Mercy" という本を書きました。その本に、彼が13歳の時、レコードのアルバムを万引きをして捕まった時のことが書かれています。少年スコットは万引がを見つかって、ショップの事務室に連れて行かれました。警察が来るまで、その店の女性の万引き担当者から取り調べを受けました。彼女は「君はまだこどもなのに、どうしてこんなことをしたの? 誰かにそそのかされたの?」と尋ねました。その時、スコットは、作り話をしたのです。「雨の日に友達といっしょに自転車で森を走っていたら、突然、知らない若者に出くわして、これを盗んで、この木の切り株のところに持ってこいと言われたんです。」万引き担当者はその話を信じて、警察に対して、スコットをかばってくれました。警察が来ると、スコットは、警察のバンに連れていかれて、そこで取調べを受けましたが、その嘘をつきとおしました。取調べが終わり、迎えに来た母親に連れられて家に帰りました。

 やがて、父親が仕事から帰ってきて、母親からその日の出来事を聞きました。父親はスコットの部屋に来て、「誰かが、おまえに万引きするように言ったのか?」と尋ねました。スコットは「うん。」と答えました。父親は「森の木の切り株のところだと言ったけど、そこに連れて行ってくれないか。」と言いました。そして、ふたりは、森にでかけました。「切り株のそばで」というのは全くの嘘でしたが、スコットはどこかに切り株があるだろうと思って森に行ったのです。しかし、どんなに目を凝らしても切り株("stump")はありませんでした。ところが、目の前に茂み("clump")がありました。それで、スコットは、「おとうさん、この clump だよ。」と言いました。父親は「stump じゃなかったのか。」と聞き返しました。いや「clump だよ。」「stump と言ったじゃないか。」「いや clump と言ったよ。」そんなやりとりがしばらく続いてから父親は、深くため息をついて、「もう、帰ろう。」と言って家に引き返しました。

 スコットは、父親の怒りが爆発して、ひどく叱られると思ってビクビクしていたのですが、とにかく、父親から叱られなくて済んで、ホッとしました。しかし同時に、その心に深い後悔が残りました。父親の落胆した後姿を見ながら、スコットは自分は法律を破っただけでなく、父親の信頼を破り、父親に深い悲しみを与えて、その心を破ったということに気付いたのです。スコットは、このことから、罪とは、単なる法律違反だけではなく、父なる神の愛のみこころを傷つけることだと分かり、やがて罪の悔い改めとキリストへの信仰に導かれたのです。

 Dr. Scott Hahn が少年時代の実話を通して言おうとしたことは、罪とは、律法違反であるとともに、神の愛の心を傷つけることだということでした。罪は、神の怒りを招くだけでなく、神を悲しませます。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけません。」とあります。私たちが罪を犯す時、父なる神も、御子イエスも深く悲しまれるのですが、なにより、聖霊がそれを悲しまれるのです。なぜなら、聖霊は信じる者のたましいの内に住んでおられ、私たちがその心で犯す罪、言葉で犯す罪、そして行いで犯す罪の影響をまっさきに受けるお方だからです。

 教会で「罪」のことが話される時、「それはまだ、神を信じていない人のための話だ。私は、もうキリストを信じて罪を赦されているから、自分の罪のことは考えなくていいのだ。」と考えるクリスチャンがあります。しかし、「神の聖霊を悲しませてはいけません。」というのは、クリスチャンに対する教えです。エペソ4:30には「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」とあります。聖霊を持たない人は聖霊を悲しませることはありません。キリストを信じて聖霊をいただいているからこそ、「聖霊を悲しませてはいけない。」と教えられているのです。私たちは、キリストによって救われ、聖霊によって日々罪から守られてはいても、神のことばのすべてを完全に守ることができるわけではありません。神が禁じておられることをひとつも犯さないということもありません。なんとしばしば、神の定めたことからはみ出したことをしていることでしょうか。また、神が私たちに求めておられることに届いていないことでしょうか。ですから、私たちは日々に赦しを求め、きよめを求める必要があるのです。御霊の悲しみを自分の悲しみとして、罪を悲しむ人が、キリストの救いを喜ぶことができるのです。キリストにある罪の赦しを確信することは大切なことです。しかし、キリストの救いを理解し、罪の赦しを確信することができるほどの信仰があるのなら、なぜ、自分の罪が分からず、聖霊の悲しみが分からないのでしょうか。それは、もしかしたら、本当の信仰ではなく、頭だけの信仰で、神のことばに対して無頓着になり、御霊の声に対しこころが鈍くなり、自分の罪にさえ、気づかなくなっているのかもしれません。聖霊があなたのことを悲しんでくださるというのは、なんという大きな聖霊の愛でしょうか。もし、聖霊があなたを愛しておられないなら、聖霊はあなたのことを悲しむことはないでしょう。この聖霊の愛に気付いてください。

 神は、神のことばにさからい、罪を犯し、神の目から身を隠そうとしたアダムとエバにさえ「あなたはどこにいるのか。」(創世記3:9)と呼びかけてくださいました。神が「どこにいるのか。」と言われたのは、地理的にどこにいるのかということではありませんね。アダムとエバがどこに隠れたとしても、神はすでにどこにいるのか分かっておられます。神は、アダムとエバの霊的な位置を問うておられるのです。神との関係においてどこにいるのかということです。私たちの心は神の近くにあるでしょうか。それとも、遠く離れているでしょうか。聖霊を喜ばせているでしょうか。それとも、聖霊を悲しませているでしょうか。神は、私たちがどんなに神から遠くあったとしても、そこから私たちを連れ戻すことがおできになります。聖霊は私たちを離れず、共にいてくださいます。もし神から遠くあるなら、聖霊を悲しませているとしたなら、今、聖霊がもっとも喜んでくださることをしようではありませんか。聖霊が喜んでくださること、それは、なによりも、悔い改めです。へりくだって、聖霊を呼び求めることです。聖書に、私たちのための祈りが備えられています。その祈りをいっしょに祈りましょう。詩篇51:10-13です。

 (祈り)

 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。 

1/14/2007