御霊の一致

エペソ4:2-6

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4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 エペソ人への手紙は、前半の1章から3章と後半の4章から6章に大きく分けることができます。前半は、神が私たちのためにしてくださったことが、後半は私たちが神のためにすべきことが教えられています。英語の "life" は、「命」とも、「生活」とも、「人生」とも、また「生涯」とも訳すことができますので、エペソ人への手紙の3章までは、神が、キリストを信じる者に与えてくださった新しい "life"(命)について教え、4章からは、キリストを信じる者の新しい "life"(日々の生活、人生、生涯)について教えていると言うことができます。

 私たちは「新しい生活」「目的をもった人生」「満たされた生涯」などということばに魅力を感じます。そういうものを手に入れたいと願っています。しかし、多くの人は、それがキリストを信じる信仰によって与えられる新しい命、永遠の命から来ることに気がついていません。みなさん、命がなければ、人生は始まらず、命のないものは生活を営むことができませんね。そのように、キリストを信じる者の生活についていくら学んでも、新しい命をキリストから受け取らなくては、新しい生活に入ることができないのです。これから、キリストにある新しい生活を学ぶおひとりびとりが、キリストにある命を受け取ることができるよう、心から祈っています。

 一、御霊が生み出した一致

 さて、キリストにある新しい生活について、最初に教えられているのは「一致」です。罪はいつでも「分裂」を生みだします。最初の人、アダムが罪を犯して以来、神と人との間にあった一致が壊され、アダムと彼の妻、エバとの間の一致も損なわれました。アダムの子たちは、分裂に分裂を重ね、今日、私たちが見るように、世界の各地で国と国とが争い、同じ国の中でも民族と民族が戦っています。小さなグループの中でも分裂があり、ひとつにならなければならない家庭においてさえ、家族がバラバラになってきています。この人類の分裂をいやすために、イエス・キリストは十字架の上で、その命をささげてくださいました。キリストの十字架によって、神と人との断絶にかけはしがかけられ、人と人との間につくられた隔ての壁が壊されたのです。エペソ2:14に「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、…」とある通りです。いまから45年前、1961年11月10日、ベルリンの壁が壊され、長い間東西に分裂していたドイツがふただびひとつになりました。それは歴史上の大事件でしたが、キリストによって、神と人、人と人との隔ての壁が壊されたのは、もっと大きな出来事でした。今日のドイツの人々の生活が、ベルリンの壁が壊された事実に基づいて営まれているように、キリストを信じる者の生活も、キリストが隔ての壁をこわし、私たちをひとつにしてくださったという事実にもとづいて営まれるのです。

 神が私たちに与えてくださった一致は、エペソ4:3で「御霊の一致」と呼ばれています。英語では "The unity of the Spirit" ですが、この "Spirit" は大文字で始まっており、聖霊を指します。"spirit" には「精神」という意味があって、ベースボールやフットボールのチームが一丸となって良いプレーをした時、「あのチームには一致のスピリットがある。」などと言うことがありますが、ここでいわれているのは、人間の精神のことではなく、神の霊、聖霊のことです。聖書が教える「一致」は聖霊による一致であり、聖霊をいただいている人々の間にある一致のことです。それは、真理も偽りもいっしょにしてしまうようなものではありません。聖書に、「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんなつながりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。」(コリント第二6:14〜15)とある通りです。

 英国を代表する教会、ウェストミンスター・チャペルの牧師だったマーティン・ロイド・ジョーンズは「ある種の人々は、聖霊による生まれ変わりを体験しておらず、キリストを信じる信仰を、たんに善行をする、道徳的である、教会の活動をすることだと考えている。聖霊を正しく信じていない人と話しあっても意味がない。私たちの一致は聖霊の一致であって、聖霊を持たない人々と一致することはできない。」(『キリスト者の一致』38頁)と言っています。みなさんは、はじめて出会う人であっても、まるでずいぶん以前から知り合っていた人であるかのように感じることはありませんか。特に、聖霊を信じ、聖霊によって生かされ、聖霊の満たしを求めている人々とは、信仰の一致、霊の一致を感じるものです。日本にいた時、ヨーロッパやアメリカ、アフリカ、インドネシアやフィリピン、韓国のクリスチャンと出会いましたが、こうした方々とは、外国の方とは思えないほど、意見も、気持ちも一致し、とてもうれしかったことを覚えています。アメリカは移民の国ですので、歴史や伝統、礼拝の形式の違う教会がたくさんありますが、聖霊が働いておられる教会に出席すると、そうした違いを越えて、ひとつ思いになって神を礼拝することができます。けれども、聖霊を持たない人々とは、たとえ同じような背景を持っていても、何か違和感が残ってしまうのです。「御霊の一致」は、「御霊が生み出してくださった一致」です。聖霊による一致だけが、神に喜ばれ、私たちが満足することのできる一致です。

 二、御霊の示された一致

 「聖霊の一致」には、第二に、「御霊が示してくださった一致」という意味があります。主イエスは聖霊を「真理の御霊」と呼びました。御霊は、私たちに真理を教えてくださるお方だからです。したがって、「御霊の一致」は聖書の真理を正しく信じることから生まれる一致です。

 エペソ4:4〜6は、とてもリズミカルな文章です。初代教会では、大切な真理を覚えやすいことばで要約し、それにメロディーをつけて歌いました。人々はそのようにして、真理を心に刻んだのですが、この箇所はそうしたもののひとつだったかもしれません。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(エペソ4:4〜6)ここには、明らかに三位一体の神が教えられています。普通、三位一体の神は、父、御子、御霊の順で示されますが、この箇所の主題が「御霊の一致」なので、ここでは、三位一体の神が御霊、御子、父なる神の順で示されています。4〜6節のすべてに触れることはできませんが、一節づつ、順に学びましょう。

 4節は「からだは一つ」ということばで始まっています。この「からだ」とは教会のことです。教会はキリストのからだです。キリストは、いまから二千年前、肉体をとってこの地上においでになりました。復活の後、キリストの肉体は栄光のからだに変わり、キリストは復活のからだのまま天に帰り、キリストの復活のからだは今もそこにあります。しかし、キリストは天に復活のからだを持っておられるだけでなく、地上にも教会という「からだ」を持っておられます。キリストは、ご自分のからだである教会を通して、ご自分をこの世に示し続けておられます。人々は教会を通してキリストが今も生きておられること、罪と、世と、サタンと、欲望から私たちを救い出してくださることを知るのです。サンタクララの教会、サンフランシスコの教会、サクラメントの教会という個々の教会も「キリストのからだ」と呼ばれますが、「からだはひとつ」と言われる時には、歴史を通して存在し、全世界にひろがっている、神の民全体を指しています。世界中にはさまざまな教派、教団があり、たくさんの教会があります。しかし、それがどんなに数多くあったとしても、キリストのからだはひとつです。真実にイエス・キリストを信じている者たちは、たがいに、ひとつのキリストのからだ属しているのです。

 次に「御霊は一つ」と言われています。人間は肉体とたましいから成り立ち、ひとつのからだにひとつのたましいを持つ存在です。もしひとつのたましいにからだが二つも三つもあれば化け物になり、ひとつのからだにたましいが二つも三つもあれば、正常な人間ではありません。おなじように、ひとつのキリストのからだには、ひとつの霊、おひとりの聖霊だけが宿るのです。聖霊以外の霊が宿るところはキリストの教会ではありません。「御霊は一つ」です。

 そして、「望みは一つ」とあります。この「望み」は聖霊によって与えられ、聖霊によって確かなものとされる望みです。エペソ1:14に「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」とあり、ローマ8:23には「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」とあります。私たちはしばしば、困難や苦しみの中に投げ込まれ、絶望の淵に追いやれることがあります。しかし、そんな時でも希望の灯火がともっているのを見ることがあります。サタンや私たちの不信仰が、希望を消し去ろうとしても、たましいの奥底に希望が保たれているという不思議な体験です。それは、聖霊が私たちに与えてくださっている天国の希望なのです。

 5節では御子イエス・キリストについて「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」と教えられています。ここで、イエス・キリストが「主」と呼ばれているのには、二つの意味があります。「イエスは主である」というのは、まず、イエスが神であるとの宣言です。この「主」ということばは、旧約聖書に出てくる「ヤーウェ」という神のお名前の翻訳で、「イエスは主である」というのは「イエスはヤーウェである」という意味です。「ヤーウェ」には「有って有る者」という意味があります。人間は、月にまで行き、宇宙空間にステーションを作り出してそこに住むことができるようになりました。しかし、生身の身体で宇宙船や宇宙ステーションから外に出たなら、たちまち蒸発してしまいます。地球上にいてさえちょっとした環境の変化で病気になったり、O-157やさまざまな細菌に冒されて命を失うことがあるのです。人間は、自分の力で生きている、存在していると思いあがっていますが、実は、神に生かされて、存在させられているのです。人間は「有って有る者」ではなく、「有って無きがごとき者」にすぎないのです。神だけが「有って有る」絶対の存在者です。クリスチャンはイエスを絶対の存在者、神であると信じました。そのため、唯一の神を「ひとりぼっちの神」だと誤解したユダヤ人から迫害を受けました。

 また、「主」ということばには「最高の権威を持つ支配者」という意味があります。クリスチャンは、キリストを、あらゆる権威の上に立つお方と信じ、告白しましたので、皇帝を最高の支配者とするローマ帝国から迫害され、その後も、独裁者たちから迫害を受け続けたのです。このように、「主は一つ」ということばは、イエス・キリストと並ぶ者は何もないという、聖書の教え、クリスチャンの信仰を要約したことばなのです。

 「主が一つ」なら、この主を信じる「信仰は一つ」です。キリストを信じる者は、イエス・キリストを知る共通の知識を持ち、信仰の一致を持っていなければなりません。そのことはエペソ4:13に教えられていますので、その箇所に来た時にくわしく学びましょう。

 「バプテスマ」は、キリストを主とする信仰を公けに告白するものです。ですから、「主は一つ」「信仰は一つ」に続いて「バプテスマは一つ」と言われているのです。

 6節では、「すべてのものの父なる神は一つ」言われています。ここでは、神は「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神」と呼ばれています。「すべて」という言葉が四回出てきて、神がいかにすべてのすべてであられるかが描かれています。四つの「すべて」のひとつひとつについてお話したいのですが、時間がありませんので、いつかの機会にしたいと思います。

 「御霊の一致」とは、真理に基づいた一致です。神が私たちのおひとりの父であること、イエス・キリストが私たちのただひとりの救い主、また主であること、そして、聖霊がただひとりの助け主であることを、ひとつ心で信じ、声をそろえて告白し、御霊の一致を確認しあっていこうではありませんか。

 三、御霊によって守る一致

 では、御霊の一致を保っていくにはどうしたら良いのでしょうか。私たちに与えられた一致は、組織や制度上の一致や表面的な一致、人間のレベルでの一致ではなく、霊的な一致、信仰の一致ですから、単に、組織をひとつにしましょう。いっしょに何かをやりましょうということだけで保つことのできるものではありません。仲間同士で仲良くできればそれで良いというものでもありません。この一致は、人間が作り出したものではなく、聖霊が生み出してくださった一致ですから、人間的に一致を生み出そうとすると、ほんとうの一致を妨げることがあります。聖書は、「一致を生み出しなさい。」とは言っていません。すでにある「一致を…保ちなさい。」と教えています。一致は人間が作り出すものではありません。聖霊が生み出してくださった一致以外のものを勝手に作り出してはいけないのです。そういうものが本物の一致を壊わしてしまうのです。私が神学校に行っていたころ通っていた教会は、とても家族的な教会でした。そのころの日本では珍しく、みんながファーストネームで呼びあうほどでした。とても強い仲間意識があり、互いに助け合っていました。自分の教会出身の人とは何年たっても忘れずにつながりを保っていましたが、初めて教会に来た人に声をかけない、新しく教会に来ている人の名前はいつまでたっても覚えないということがありました。この教会は、その後、開かれた教会へと変えられていきましたが、私は、そうした体験から、教会のまじわりとはなんだろうか、教会の一致とはなんだろうかということを考えさせられるようになりました。

 エペソ人への手紙は、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(2〜3節)と教えています。クリスチャンの集会でも、雰囲気を和らげるために、最初にゲームなどをすることがあります。いわゆる「アイス・ブレーキング」ですね。また、「スモール・グループ」に分かれて、個人的なことをシェアしたりします。お互いがうちとけあえるようにとそうするのです。こうしたことは、効果的に用いれば、良い結果をもたらしますが、しかし、「アイス・ブレーキング」が私たちを霊的な一致に導いたり、「スモール・グループ」がそのままクリスチャンの「まじわり」になるのではありません。「アイス・ブレーキング」も、「スモール・グループ」も、ほんの入り口やきっかけに過ぎないのです。私たちの一致は、なによりも信仰の一致、霊の一致ですから、みことばと祈りによって、私たちのただひとりの天の父を、ただひとりの救い主を、ただひとりの助け主、聖霊を、さらに深く知り、理解し、確信していくことによって、ほんとうの意味での御霊の一致を体験していこうではありませんか。

 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれる」というのは、生半可なことではありません。たんに仲良くする、いっしょに何かをするということ以上のことです。私たちの力では達成できないことです。しかし、御霊は、私たちを引き上げて、このことをさせてくださいます。エペソ人への手紙に言われている「謙遜」、「柔和」、「寛容」、「愛」、「平和」は、すべてガラテヤ5:22〜23にある「御霊の実」ではありませんか。「御霊の一致」とは、聖霊が生み出してくださった一致です。それは「真理の御霊」と呼ばれる聖霊が知らせてくださった真理に基づいています。そして、この「御霊の一致」は、聖霊ご自身によって、はじめて、守ることができるのです。御霊によって、生まれ変わり、御霊によって生かされ、御霊に教えられ、御霊に導かれ、御霊により頼んで、この一致を保ち続けようではありませんか。

 (祈り)

 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神さま。なにものにもまさるあなたと、あなたがくださった尊く、偉大なものを、私たちは、なんとしばしば小さなものにしてしまってきたことでしょうか。しばしば「一致」を、自分たちで作り出し、自分たちの力で発展させていくことができるかのように考えてしまっていたことをおゆるしください。それは、聖霊によって生み出されたもの、聖霊によって示されたもの、聖霊によって守るべきものです。どうぞ、私たちの思いを聖霊に向けさせ、御霊によって一致を保つ私たちとしてください。今朝の礼拝に、まだ聖霊を知らない人がいましたら、どうぞ、その人もまた聖霊を求めることがでるよう導いてください。そして私たちをおひとりの御霊によって結びあわせてください。私たちのおひとりの主イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/8/2006