新しい人

エペソ4:17-24

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4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
4:19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
4:20 しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
4:21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

 2006年の年間聖句は「あなたがたは…神の家族なのです。」(エペソ2:19)でした。2007年の年間聖句は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)です。礼拝プログラムにしおりが入っていますので、みんなで声を出して読み、覚えましょう。

 一、目的への旅

 「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)が年間聖句に選ばれたのは、今年が Purpose Driven Life の三年目で、第三の目的「弟子訓練」に取り組む年だからです。マタイ11:29については、別の機会にくわしく学ぶことにして、ここで Purpose Driven Life についておさらいをしておきましょう。「私たちは何のために生きているのか。」 これは誰もが持っている疑問です。この答えは自分勝手に決めるものではなく、神から与えられるものです。神は私たちに五つの目的を与えておられます。第一は「礼拝」です。これは2005年「目的の四十日」キャンペーンをした年に学びました。第二は「まじわり」です。これは昨年取り組んできたことです。第三が「弟子訓練」で、今年、これに取り組もうとしています。第四は「奉仕」で、これは来年取組みます。第五は「伝道」です。これは2009年、サンタクララ教会40周年の年に取組みます。「礼拝」、「まじわり」、「弟子訓練」、「奉仕」、「伝道」の五つの目的は、バラバラのままでは、決して身に着くことはありません。この五つは「礼拝」からはじまって、順に積み重ねられています。私たちは五つのステップを一歩一歩登っていくのです。まず、「礼拝」の大切さを良く知り、礼拝と聖餐を欠かさないようにして、神とのまじわりを深めましょう。神との交わりが確立したなら、教会の「スモール・グループ」に参加してキリストにある互いの交わりを深めましょう。互いの交わりの中で神の子として成長し、学びの機会を用いてキリストに似た者となることを目指していきましょう。キリストがしもべとなって仕えたように、私たちもキリストにならって神と人とに仕えるものとなりましょう。そして、礼拝、まじわり、弟子訓練、奉仕のすべてを用いて、キリストをあかししていきましょう。このように五つの目的をひとつづつマスターし、それを組み合わせて行く時、私たちは神が与えてくださった人生の目的に生きることができるようになります。急がずに慌てずに、一歩一歩、互いに励ましあって進んでいきましょう。そしてゴールに到着しましょう。

 今朝の聖書には、「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」と言われています。エペソの教会は、異邦人のクリスチャンが中心の教会でした。なのに「異邦人のようであってはいけない」と言われているのは、なぜでしょうか。それは、クリスチャンはたとえ異邦人であっても、キリストを信じることによって、ユダヤ人と同じように神の民とされたからです。キリストを信じる者は、新しくされて、神の民となったのだから、神の民としての新しい歩みをしなさい。救われる以前と同じであってはいけないと教えられているのです。旧約の神の民に「律法」が与えられ、彼らが律法に導かれて歩んだように、神の民とされた私たちも、神は、神のことばによって人生の目的を示しておられます。目的のない人生ではなく、目的を目指して生きる人生であるようにと、神は私たちにゴールを示しておられるのです。

 二、その出発点

 エペソ4:17-24に、キリストを信じる者は「新しい人」になったのだと教えられています。ここに目的への旅の出発点があります。礼拝、まじわり、弟子訓練、奉仕、伝道へと進んでいく前に立っていなければならないスタートラインが示されています。それは、キリストを信じて生まれ変わっているということです。主イエスは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。人は、教会に来ていれば、いつか自然にクリスチャンになるのではありません。私の家のガレージには、冬は寒いから、夏は暑いからと言ってほとんど乗っていない自転車が、引っ越した時からずっと置いてあります。ずいぶん長い間ガラージに置いてあるので、そのうち、この自転車も自動車になるかというと、そんなことはありませんね。クリスチャンになるのもそれと同じです。私たちは自動的にクリスチャンになるのではありません。ある日、ある時に、イエス・キリストを「私の救い主」として心に迎え入れる、そのことによって「新しい人」になり、「クリスチャン」になるのです。「クリスチャン」というのは「キリストのもの」「キリストに属する者」という意味の言葉ですが、私たちがイエス・キリストを「私の主」として自分の人生に迎え入れるなら、キリストは私たちを新しく造りかえてご自分のものとしてくださるのです。キリストと結びつけられ、文字通り、「キリストの者」となるのです。コリント第二5:17には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。

 キリストを信じた者が生まれ変わることを「新生」と呼んでいます。英語で言えば "Regeneration"、もっと分かりやすい言葉では "Born Again" と言いますね。ただ、"Born Again" というと「死んでまた生まれ変わる」という意味の「輪廻転生」("Reincarnation")のことだと受け取る人がいますので、注意が必要です。実際、私は、ある人に信仰のことを話していて、"Born Again" という言葉を使ったところ、それを違った意味で受け取られ、説明しなおさなければならなかったことがありました。それは、ともかくとして、新生がクリスチャンの生活の出発点であることは、分かっていただけると思います。私たちの人生が誕生から始まるように、神の子の生活は神の子としての誕生から始まるのです。赤ちゃんは生まれた時、「オギャー」と産声を上げます。いままで母親から酸素を得ていましたが、生まれた後は自分の肺で呼吸をして酸素を体に取り込みます。ですから、産声をあげない赤ちゃんがいたら、たたいたり、つねったりして無理矢理にでも泣かせるのだそうです。クリスチャンにとって、信仰の告白は「産声」に相当します。ローマ10:9に「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」とあるように、「イエスは私の罪のために死に、私を救うために復活された。イエスは私の救い主、私の主です。」と口で言い表すことによって、「私は生まれ変わっている。」ということが分かるのです。産声をあげた赤ちゃんが産湯を使ってきよめられるように、教会は、信仰の告白をした人にバプテスマ(洗礼)を授けます。赤ちゃんが生まれたら、出生届けが出され、家族の一員になるように、信仰の告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けた人は、同時に教会のメンバーとして迎えられます。このように、教会が守り行っているバプテスマ(洗礼)もまた、信仰の生活が「新生」から始まることを示しています。皆さんが良く耳にする「四重の福音」でも、「新生、聖化、神癒、再臨」というように、「新生」がはじめに来ています。「新生」がなければ「聖化(きよめ)」も「神癒(いやし)」もなく、「再臨」の希望もないのです。新生、「新しい人」となって生まれ変わることからスタートしましょう。そうすれば、目的への旅を間違いなくたどることができます。確かなスタートが確実なゴールに私たちを導くのです。

 三、その身支度

 エペソ4:22-24には「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」ことが書かれています。この箇所では、キリストを信じて生まれ変わることが「古い着物を脱ぎ、新しい着物を着ること」に喩えられているのです。これは「目的への旅」の身支度を教えています。

 昨年の10月、11月頃のことですが、教会の前を通っているユニオン通りで、下水の清掃作業がさかんに行われていました。下水管の中に入って作業する人は大変だろうと思います。マンホールから空気を送ってもらいますが、どんな有毒なガスが発生しているかもわかりません。大変危険な仕事です。危ない目に遇わなかったとしても、暗くて、汚くて、臭いところで、一日中働くのは誰もができることではありません。おそらく、作業服は下水と汗とで泥まみれになることでしょう。仕事が終わったら、早くシャワーを浴びてきれいにしたいと思うでしょう。そして、もちろん、シャワーを浴びた後は、間違っても泥まみれの服をもう一度着ることはありません。きれいな服を身に着けます。私たちが救われ、生まれ変わるというのもそれと同じです。救われる以前の古い人を脱ぎ捨てて、神が備えてくださった新しい人を着るのです。新しく生まれ変わるとは、罪によって泥まみれとなった「古い人」を脱ぎ捨て、神が造ってくださった「新しい人」を着ることなのです。

 ここで大切なことは「脱ぎ捨てる」ことにあります。古い人の上に新しい人を着るのではありません。それは、イエスが言われたように、古い皮袋に新しいぶどう酒を入れるようなもの、新しい服を切り裂いて、古い服に継ぎをあてるようなものです。キリストを信じて生まれ変わるとは、古いものの考え方、ものの感じ方、判断基準、価値基準をきっぱりと捨て去って、キリストに聞き、キリストに教えられて、心の霊において、つまり、たましいの根底から新しくされることなのです。聖書は「古い人」を「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人」と呼び、異邦人は「道徳的に無感覚となって、好色に身をゆだね、不潔な行ないをむさぼっている。」(19節)と言っていますが、「古い人」のすべてが不道徳をあからさまに表わしているわけではありません。「古い人」は「人を欺く」とありますから、そうしたものを上手に隠すことが得意なのです。表面では問題が無いように見えても、神が中心の生き方ではなく、自分を中心にする生き方、天上のことよりも地上の事を優先する生き方が「古い人」なのです。「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(18節)とあるように、自分の罪に気づくことも悔い改めることなく、「私が正しい。」とすることこそ「古い人」なのです。

 日本人の信仰は「多重信仰」だと言われます。日本人はもともとは、原始的な神道を信じていました。自然が、人間に恵みや災害をもたらす神々でした。山のふもとや森の入り口に鳥居を建て、山や森そのものを「ご神体」として拝んでいました。山や森に住む動物、狐や蛇や鳥を神々の使いと考えました。日本に仏教が入って来た時、仏教を推奨する人々とそれを邪教として退ける人々の間に争いがありましたが、やがて仏教は日本に違和感なく取り入れられるようになりました。日本人は、「神道」という着物を脱ぐことなく、その上に「仏教」という着物を上手に重ね着したのです。後にキリスト教が日本に入ってきましたが、キリシタンは徳川時代に、徹底的な迫害によって根絶やしにされてしまいました。明治になり、禁教が解かれ多くのすぐれたクリスチャンが生まれました。大正時代にはクリスチャンの数も増えましたが、昭和になって日本が戦争に突入すると、クリスチャンは急速に少なくなってしまいました。戦後「キリスト教ブーム」が起こりましたが、それは長くは続かず、いまだに、日本のクリスチャンの数が増えないままです。なぜそうなのか、さまざまな原因が考えられますが、日本人が仏教を受け入れた時、それを神道という着物の上に重ねて着たように、キリスト教を受け入れた時も、神道という「下着」、仏教という「上着」を着たままで、その上にキリスト教という「オーバー・コート」を少し羽織っただけだったからであると指摘されています。この「重ね着」を「多重信仰」と言うのです。人々がキリスト教に求めるのは、たんなる心の慰めで、自分のこころが少し暖かくなれば、もう「オーバー・コート」は要らなくなり、簡単にそれを脱ぎ捨ててしまうのです。悔い改めを通らない「多重信仰」では、古い人を脱ぎ捨てることがありませんので、神が求める「新しい人」を着ているのでなく、キリスト教という「宗教」を着ているだけになります。外側の皮をむくと、あいかわらず、その人の中には、別の原理、原則がちゃんとあって、中身は何も変わっていないのです。

 生まれ変わりは「古い人を脱ぐこと」と「新しい人と着ること」、つまり、悔い改めと信仰によって起こります。古い人を脱ぐことなしに新しい人を着ることはできません。悔い改めなしには、ほんとうの信仰はありません。聖書は「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言い、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」と言っています(ローマ13:14)。「キリスト教」を着るのでなく、「キリスト」を着るのです。「キリスト教」は古い人を着たままでも、着ることはできますが、「キリスト」は古い人を捨てて、新しい人にならなければ、けっして着ることはできません。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る。そして、新しい人の上にキリストを着るのです。その時、新しい人は、罪や誘惑から守られ、いよいよ新しくされ、キリストに似たものに変えられていくのです。目的を目指す旅には、出発点と共に、旅支度が必要です。新しい人を着る、キリストご自身を着る、これが私たちの旅支度です。外側の形ではなく、たましいの内側が変えられ、キリストを人生の旅の導き手として、このお方に従っていく、そのような信仰によって目的への旅をはじめましょう。

 あなたは、正しいスタートラインに立っていますか。旅支度は大丈夫ですか。きよい神の前に罪を認め、それを悔い改めましたか。イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死んでくださったことを信じましたか。イエス・キリストは死者の中から復活し、今も生きておられることを確信していますか。このイエス・キリストを、あなたの救い主また主として受け入れ、そのことを人々の前で言い表し、バプテスマを受けましたか。まだ、イエス・キリストについてよくわからないという方がありましたら、ぜひ聖書の学び会に参加してください。洗礼を受けたい人は洗礼準備会をはじめましょう。教会のメンバーになってともに弟子訓練を受けたいという願いが起こされたなら、今から準備を始めましょう。すでに、信仰の旅を歩んでいる皆さんは、一年のはじめにもう一度ゴールを確認し、身支度を整えましょう。新年に私たちの決心を具体的なものとし、主にささげましょう。それこそが、神に喜ばれ、神をあがめるささげものです。

 (祈り)

 父なる神さま、目的を目指す旅の出発点とゴール、そして、そのための身支度について教えてくださいました。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る、それは人間の力でできることではありません。聖霊によってのみ可能なことです。聖霊が私たちのうちに働いてくださるため、たえず悔い改めと信仰をささげていく私たちとしてください。そして、キリストを着る恵みにあずからせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/7/2007