キリストの身丈

エペソ4:14-16

オーディオファイルを再生できません
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

 今年、私たちは「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(コリント第一12:27)を標語に掲げ、教会とは何かということを改めて問い直してきました。今年の標語は、教会はキリストのからだであると教えていますが、教会がキリストのからだであるなら、キリストは教会のかしらです。では、からだである教会と、かしらであるキリストとは、どのような関係にあるのでしょうか。キリストがかしらであるということは何を教えているのでしょうか。それは、まず、キリストが教会の上に権威を持っておられ、教会はキリストに服従するものであるということを教えています。人間のからだで、かしら、つまり頭が、からだの中で一番高いところにあるように、キリストは教会の上におられるお方、教会の主であり、教会はキリストに仕えるしもべです。キリストがかしらであるということは、次に、教会がキリストによって生かされているということを教えています。頭脳から神経がからだ全体に張り巡らされて、からだの各部分が、頭脳からの指示によって動くように、教会も、キリストの命令によって働くのです。頭脳からの神経が切れてしまったら、身体が動かなくなるどころか、死んでしまうように、教会は、キリストと命のつながりを持っていて、かしらであるキリストから離れては存在できないのです。教会はキリストのいのちで生かされ、導かれ、謙虚にキリストの権威に従うものであるということを教えています。キリストの教会につながっている私たちは、キリストのいのちによって生かされるということを、概念だけのものにしないで、実際の教会生活の中で体験したい、キリストの権威に従うということを、言葉だけのものにしないで、教会が直面するさまざまな場面で実践していきたいと願っています。教会について聖書から学ぶことを頭だけの理解で終わらせず、ハートで受けとめ、私たちの両手、両足で実行していきましょう。

 一、キリストの身丈

 さて、今朝の箇所では、キリストが教会のかしらであるのは、キリストが教会の成長の目標であるからだと言われています。頭、かしらは、からだの中で一番高い部分で、その人の身丈を表わすのです。「身丈」というより、「背丈」あるいは「身長」と言ったほうが分かりやすいかもしれませんが、新改訳聖書では「身たけ」とありますので、この言葉を使うことにします。いのちのあるものはすべて成長するように、キリストのいのちによって生かされている教会も成長します。そして教会が成長して到達すべきところが、キリストの身丈だというのです。

 「せいくらべ」という日本の童謡にあるように、私も、五月のこどもの日に兄とせいくらべをしたのを覚えています。そのころは、三歳年上の私の兄には、背が届きませんでした。家の柱に残った兄の背丈を見ながら、はやく、そこに追いつきたいと思いました。私の目標は、兄の背丈でした。背丈を計る時は、背筋を伸ばして、顎を引いて、頭のてっぺんで計ります。こどものころ、私はそれがよく出来なくて、学校での身体検査のたびに先生に叱られたことがあります。みなさんは、どんな思い出があるでしょうか。背が低いことがコンプレックスになったり、逆に背が高すぎで、嫌だったりといったことがあったでようか。十八歳ぐらいでほぼ身長は決まってしまいます。身長は、神が決めてくださったものですから、それを受け入れ、感謝するのですが、霊的な身長は、四十歳になっても、八十歳になってもまだまだ伸びていくのです。私たちは、キリストの身丈をめざして成長していくのです。

 私は、小学生の時は、そんなに背が高いほうではありませんでしたが、中学生になると、急に背が伸びて、そのうち兄を追い越してしまいました。しかし、教会が成長して、キリストの身丈に到達するという場合、キリストの身丈は、簡単に追い越せるものではありません。けれども、キリストの身丈は、はるかかなたにあって、どんなにしても、到達できないものかというと、そうではありません。エペソ4:13に「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあり、15節に「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とあります。すべてのものの上に、高くおられるキリストは、同時に、私たちのために、低くなって人となってくださったお方です。キリストが人となって、この地上を歩まれたのは、私たちに人間として到達することのできる具体的な基準を示すためでした。私たちは、人としてのキリストの姿の中に、私たちの目指すべきゴールを見ることができます。もちろん、そのゴールには人間の力で届くことはできませんが、キリストは、神として、私たちに、天からの力を与えてくださり、私たちを引き上げてくださるのです。キリストが人となってくださったから、私たちもキリストの身丈に近づくことが出来、キリストが神であられるので、私たちを助けてキリストの身丈に近づけてくださるのです。こんなに素晴らしい救い主が、私たちに与えられていることを、心から感謝しましょう。

 二、キリストを知る

 では、キリストの身丈に近づくとは、具体的にはどういうことでしょうか。14節に「私たちがもはや、子どもではなくて、…」とあります。いつまでも子どものままではなく、霊的におとなになりなさいと、言われています。おとなとこどもの違いは、さまざまありますが、そのひとつは、おとなには知識があり、ものごとを正しく判断できるが、子どもは知識が乏しく、ものごとを正しく判断できないで、だまされやすいということがあるでしょう。14節には続いて「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」とあります。成長していないクリスチャンは、神のことばよりも人の声に、キリストの教えよりもこの世の基準でものごとを見て、サタンの誘惑に乗ってしまいます。「人の悪巧み」と言われていますから、悪巧みを働くのは人間かもしれませんが、その背後にあるのは、神に敵対するサタンなのです。私たちは、サタンの策略を見抜き、私たちを神から引きはなそうとする間違った教えの風や波に踊らされることがないように、目を開いていなければなりません。そのために、まず、聖書が何を教えているのかをしっかりと学び、何が真理であるかを見極めていなければなりません。コリント第一14:20には「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」と勧められています。クリスチャンは、幼子のような素直な心を持つとともに、本物と偽者、真理とそうでないものをきちんと識別できる知識や霊的な力を持っているようにと教えられています。霊的な識別力を持つことによって、私たちはおとなのクリスチャンになることができ、教会はキリストの身丈にむかって成長していくのです。

 イエスご自身が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)言われたように、イエス・キリストご自身が真理なのですから、真理に堅く立つために、イエス・キリストを正しく知ることからスタートしましょう。たとえ、聖書やキリスト教についてどんなに多くのこと知っていたとしても、キリストご自身を、神の御子として知っていなければ、決して、真理を知り、そこに堅く立つことはできないのです。13節に「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とありますが、ここで「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致」とあるところは、「信仰、つまり、神の御子を知る知識の一致」と訳すこともできるかと思います。その場合、「信仰」とは「神の御子を知る知識」であるというわけですが、それは、イエスが「永遠のいのちとは、…唯一のまことの神であるなたたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われたことと通じています。ここで「知る」というのは、もちろん、表面の知識のことではなく、キリストを人格的に知る、自分の心と魂で知るという意味です。そのようにキリストを知るところに、信仰があり、救いがあり、永遠のいのちがあるのです。

 イエス・キリストを正しく知るということについて、使徒パウロはコリント第二5:16で「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」と言っています。「人間的な標準で人を知る」というのは、人を神にあって見るのでなく、人間の価値観で人を判断するということでしょう。世の中では、容姿や財産、学歴、出身地、家柄など、表面的なもので人を尊んだり、卑しめたりすることが、よくあるのですが、神を知る者は、そのように人を見ることはありません。ひとりびとりを神に造られた尊い人格として扱います。そして、教会では、互いが兄弟姉妹として受け入れ合っています。ローマ14:15に「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」とあります。キリストの十字架が、自分の罪のためであったということを知っている人は、兄弟姉妹を、「あの人は好き。この人は嫌い。あの人は役に立つが、この人はいらない。」などと、見ることはありません。他の人を「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」として尊ぶのです。「人間的な標準で人を知ろうとはしません。」と言うのはこのように、人を信仰的な面から、霊的な面から見るということです。

 そのように、人をその本質で見ることのできる人は、キリストをもその本質で知ることができます。いや、キリストをその本質でとらえている人が、他の人をもその本質で見ることができるのだと思います。パウロは、言っています。「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」イエスの郷里の人々は、イエスを人間的な標準でしか知りませんでした。彼らは、イエスについて、「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。」(マタイ13:55-56)と言って、イエスにつまづきました。現代の都会では、隣の人がどんな人で、何をしているかすら知らないほど、人間関係が薄くなっていますが、この時代には、同じ町の人であれば、その人のすることなすことがすべて町中に知れわたりました。ですから郷里の人たちは、イエスを「よく知っている」と思っていました。それで、イエスが目覚しい奇蹟を行ない、権威をもって神のことばを教え始めた時、「彼はこの町で育った、私たちの仲間のひとりではないか。なぜ、彼にこんなことができるのか、こんな教えを語ることができるのか。」と言って、イエスにつまづいたのです。人々は、イエスを自分の尺度で量り、見えるところだけで判断し、イエスの本当の姿を見ようとも、知ろうともしなかったのです。パリサイ人と呼ばれる宗派の人たちも、イエスを、自分たちの学問や、規則からだけ判断し、イエスが行なった奇蹟を、「あれは悪霊の力でやっているのだ。」と言って、聖霊の働きを冒涜していました。使徒パウロも、もとはパリサイ人のひとりでした。イエスが神であることを決して認めず、イエスを主と告白するクリスチャンを迫害していたのです。しかし、パウロは、復活されたキリストに出会い、ほんとうの意味でキリストを知りました。パウロは、キリストに出会った後、しばらく目が見えなくなりましたが、それは、あの博学なパウロであっても、キリストに出会うまでは、キリストについては、ほんとうには何も見えていなかった、何も知ってはいなかったということを示すものでした。自分の理解で、自分の判断でキリストをとらえよう、知ろうとしても、ほんとうの意味でキリストを知ることはできません。聖書のことばによってご自分を表わしておられる、そのままのキリストの姿に出会い、キリストの前にひれふして、はじめて、キリストを知ることができるのです。週ごとの礼拝で、日ごとの祈りの中で、キリストに出会い、キリストをさらに深く知っていく、そのような体験を積み重ね、キリストの身丈へと成長していこうではありませんか。

 三、愛に生きる

 キリストの身丈に近づく第二のステップは、愛に生きることです。真理を知る、真理を語るだけでは十分ではありません。真理は愛をもって語られなければなりません。15節に「むしろ、愛をもって真理を語り」とある通りです。何かを語ろうとする時には、次の三つのことを考えなさいと、ある人が教えました。第一に、「それは本当か。」ということです。本当でないこと、自分でもよく確かめていないことは話すべきではありません。第二は、「それは必要か。」ということです。本当のことであっても、言わなくて良いことはたくさんあります。第三は、「それは親切か。」ということです。聞く人の立場に立って語るのでなければ、決してことばは通じません。「愛をもって真理を語る」というのは、もちろん、耳障りの良いことだけを話すということではありませんね。みなさんも、夫婦で、親子で、ものごとをとことん話し合うということがあるでしょう。互いに愛していればこそ、耳に痛い言葉でも、ものごとの解決を求めて話さなければならないこともあります。真理と愛は矛盾しません。真理から愛が生まれ、愛から真理が生まれます。「愛の章」と呼ばれるコリント人への手紙第一13章には「愛は…不正を喜ばすに真理を喜びます。」(コリント第一13:6)とあります。愛も、真理も女性名詞ですから、愛と真理は、まるで仲の良い姉妹のように、いつもいっしょに働くのです。真理に生きる者は愛に生き、愛に生きる者は、真実を求め、それを守るのです。

 このように、愛と真理のうちに成長していく教会の姿は、エペソ4:16で「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」と描かれています。ここでは、教会の一つ一つの部分が成長するだけでなく、それぞれが組み合わされ、結び合わされなければ、決して、キリストのからだとして成長しないと、教えられています。頭だけが大きくなっても、手だけが大きくなっても、足だけが大きくなっても、それは本当の成長ではありません。「一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により」とありますが、からだの各部分にはそれぞれに役割りがあり、また限度があって、各部分がそれを守っているので、からだ全体が健康を保つことができるのです。血管が弱いのに、心臓だけが頑張ったら、たちまち血管が破裂してしまいます。肝臓も、腎臓も、その力をフルに発揮したら、とんでもないことになってしまいます。また、骨や筋肉が成長したとしても、それが関節や靭帯によって結び合わされていなければ、それはバラバラのままで、腕を動かしたり、足を動かしたりできなくなります。病院に行くと、人体の構造図や、骨格の模型などがありますが、エペソ4:16は、まるでそのような図や模型を示しているような文章です。この箇所は、人間のからだも、キリストのからだも、同じ、生きたものであって、そこに調和が必要だと教えているのです。私たちにとって「備えられた結び目」とは何でしょうか。それは、「愛」そのものであり、また、その愛を実践する教会のメンバーひとりびとりだと思います。教会を愛してくださったキリストの愛、その愛に答える私たちのキリストへの愛が結び目となります。キリストを愛する者は、キリストの教会を愛します。キリストの教会を愛する人は、教会が、教会の唯一のかしらであるキリストがあがめられるところであるように、人間の醜い自己中心やわがままがきよめられるようにと、祈り求めます。私たちは、そのように祈り求めてきましたが、さらに心を合わせて、教会がかしらであるキリストを目指して成長することを祈り求めていきましょう。そのような祈りが、キリストのそれぞれの器管である私たちを結びつけます。そのように祈り、労苦してくださる方々によって、教会は調和を保ち、健全なものとなり、成長していきます。愛の結び目を大切にしましょう。お互いが、すすんで、キリストのからだの結び目となることができるよう、励んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちが、キリストの身丈に近づくことができるために、もっと深くキリストを知ることができるように、真理をわきまえることができるように、助けてください。教会は、真理によってのみ生かされます。真理以外のものは決して私たちにいのちを与えません。むしろ、教会からいのちと愛を奪い取ってしまいます。真理を愛をもって理解し、語り、実践する私たちとしてください。私たちは、キリストの教会に対する愛がどんなに深く、大きいかをもっともっと知る必要があります。キリストの愛をこころから知って、その愛に生きる私たちとしてください。私たちを、キリストのからだの結び目として用いてください。そして、教会が、きよい愛のうちに建てられ、キリストの身丈に近づくことができますように。私たちのかしらであるキリストのお名前で祈ります。

9/19/2004