キリストの身丈にまで

エペソ4:12-16

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4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

 一、キリストを目指す

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
ちまき喰べ喰べ 兄さんが
はかってくれた 背のたけ
昨日くらべりゃ 何のこと
やっと羽織の ひものたけ

 「せいくらべ」という日本の童謡にあるように、私も、五月のこどもの日に兄とせいくらべをしたのを覚えています。そのころは、三歳年上の私の兄には、背が届きませんでした。家の柱に残った兄の背丈を見ながら、はやく、そこに追いつきたいと思いました。私の目標は、兄の背丈でした。からだの身長は十八歳ぐらいでほぼ決まってしまうそうですが、霊的な身長は、四十歳になっても、八十歳になってもまだまだ伸びていきます。エペソ4:13に「ついに、私たちがみな、…完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあります。キリストの背たけが、私たちの霊的な成長のゴールです。しかし、「キリストの満ち満ちた身たけ」と言われても、それは、はるかかなたにあって、とても実行可能なものには思えません。「すこしは、ましな人間になれますように。」「すこしは成長できますように。」といった目標のほうが現実的な気がします。なのに、どうして聖書は、「キリストの満ち満ちた身たけ」などという高いゴールを私たちに示しているのでしょうか。

 それは、神が、私たちを、キリストの満ち満ちたもので満たそうと願っておられるからです。神は、愛に満ちあふれたお方で、神の子どもたちに、常に満ちあふれるほどのものを与えようとしておられるからです。聖書に、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:29)とあります。私たちは、キリストだけが神の御子であり、主であることを良く知っており、信じています。しかし、神は、私たちをも「神の子ども」としてくださることによって、私たちをキリストのいわば「弟」にし、キリストを私たちの「ビッグブラザー」にしてくださったのです。キリストは、私たちの主であると同時に、「せいくらべ」の歌のように、その背のたけを目標にすることができるほどの、身近なお方になってくださったのです。私たちの願いは「すこしは良いクリスチャンになれますように」ということで終わってしまうかも知れませんが、神は、そのようなことでは満足なさらず、私たちに、キリストの身たけにまで達するように望んでおられるのです。

 また、神は、「キリストの満ち満ちた身たけ」というゴールを私たちに示すことによって、私たちに信仰のチャレンジを与えておられます。私は、父親から「人に迷惑をかけない人間になれ。」と教えられました。そして、ある程度は、自分の努力で実行できたように思います。しかし、私は聖書を読んで、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(マタイ5:45)とのことばに触れた時、「私には到底、敵を愛し、迫害する者のために祈るなどということはできない。私は自分の力では神の子どもになることはできない。」ということが分かりました。それで、イエス・キリストを信じるなら罪が赦され、聖霊によって新しく生まれ変わって神の子にしていただけるという福音を信じ、受け入れたのです。

 私は、学生時代、自分の教会の牧師にあこがれを感じ、「あの先生のようになりたい。」と思っていました。神学校に入って、さまざまな先生がたから教えを受けてからは、知らず知らずのうちに尊敬する先生と同じ口調で説教したり、書く字まで似るというようなことがありました。人を真似る、人に習うことなら、自分の力でもできます。「クリスチャンらしくふるまう」ことなら、しばらく教会に来ていればできるようになりるでしょう。しかし、「キリストのようになる」ことは、謙遜と、悔い改めと、信仰と、聖霊の働きがなくてはできるものではありません。私が「あの人のようになりたい」と目指していたゴールは、神が示してくださったゴールではなかったのです。少しばかり道徳的になることなら、人間の努力でなんとかなります。しかし、たましいの深みから造り変えられるのはキリストの恵みによらなければできません。自分を改良することは人間の力で出来ても、改革することは神の力によらなければできないのです。夫婦が仲良くなる、親子がうまくいくというのも、工夫次第では実現できるかもしれません。しかし、まだ信仰を持っていない夫や妻がキリストを信じるようになる、こどもが救われるということは、神の力によってしかできません。神を信じるとは、自分の無力を認め、自分にはできないが、神にはできると信じて生きていくことです。人間の努力で出来る範囲のことで終始していたなら、信仰はいりません。「キリストの満ち満ちた身たけ」を目指すという信仰のチャレンジに答えていくとき、私たちは「キリストの満ち満ちた身たけ」に向かっていくことができ、私たちの生活がほんとうの意味で満たされたものになっていくのです。

 二、キリストを知る

 では、キリストの身たけに近づくために、具体的にどうすれば良いのでしょうか。14節に「私たちがもはや、子どもではなくて、…」とありますが、いつまでも子どものままではなく、霊的におとなになるにはどうすれば良いのでしょうか。おとなとこどもの違いは、いろいろありますが、そのひとつは、おとなには知識があり、ものごとを正しく判断できるが、子どもは知識が乏しく、ものごとを正しく判断できないで、だまされやすいということがあるでしょう。14節には「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」とあります。私たちは、とんでもない間違った教えに引っ張られていくことはないかもしれませんが、いつも目を開いて注意していないと、神のことばよりも人の声に耳を傾け、キリストの教えよりもこの世の基準でものごとを見てしまい、正しい信仰から知らず知らずのうちにずれていくことがあります。コリント第一14:20に「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」と教えられています。成長するクリスチャンには、幼子のような素直な心を持つとともに、本物と偽者、真理とそうでないものをきちんと識別できる知識や霊的な洞察力が求められています。「キリストの満ち満ちた身たけ」に達するため、私たちは、聖書の真理を身につけ必要があります。

 13節に「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあります。「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致」という部分は、「信仰、つまり、神の御子を知る知識の一致」と訳すことができます。「信仰」とはキリストを「神の御子」として知り、信じることです。エペソ人への手紙では、一章からこの箇所まで、キリストは、「主」と呼ばれ、教会の「かしら」と呼ばれ、私たちの「平和」と呼ばれ、教会の「土台」と呼ばれてきましたが、ここではじめて「御子」と呼ばれています。「主」、「かしら」、「平和」、「土台」という呼び名は、私たちにとってキリストがどのようなお方であるかを表わしていますが、「御子」というのは、父なる神にとってキリストがどのようなお方であるかを表わしています。「イエス」や「キリスト」という呼び名は、キリストの役割を示す言葉ですが、「御子」という言葉は、キリストの本質を示す言葉です。私たちはキリストを「御子」と呼ぶことによって、キリストが神であり、父のただおひとりの御子であり、父と御子とがひとつであるという、信仰の奥義を告白するのです。信仰とは、キリストを、神の御子として知ることです。あなたは、キリストを神の御子として知り、告白しているでしょうか。

 「キリストを知る」この知識は、決して独りよがりのものであってはなりません。「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致」ということばが示すように、私たちの信仰は、教会の信仰と一つでなければなりません。そのためには、礼拝で語られるみことばが重んじられなければなりません。礼拝で他の兄弟姉妹とともにひとつのみことばを聞き、それを理解し、それに応答していくのです。よく、「説教は、聞く人によって受け止め方が違っていいのだ。礼拝では、それぞれ、自分に語られる神のことばを受け取って帰ればよいのだ。」と言われますが、それは、説教の聞きかたとしては正しくないと思います。個人の礼拝では、ある程度正しいかもしれませんが、公の礼拝では違います。私たちが礼拝に集まるのは、たんに一個人として神のことばを聞くためではなく、神の民の一員として神のことばを聞くためだからです。旧約時代、神の民は「主の軍勢」と呼ばれました。兵士たちが、指揮官の命令を、それぞれ自分勝手に解釈し、行動したら、どうなるでしょうか。戦力が発揮できず、たちまちに敵にやられてしまうばかりか、同士討ちさえ起こりかねません。語られたみことばについてみんなが同じ理解を持ち、それに導かれていく必要があります。礼拝で語られるみことばは、一回一回が完結している場合もありますが、たいていの場合は、前回語られたみことばと関連しています。ですから、いろんな事情で礼拝に出席できなかった時は、テープやインターネットで礼拝メッセージを聞いたり、読んだりしていただきたいのです。他の教会で礼拝を守った時でも、自分の教会の礼拝メッセージを大切にしてください。他の兄弟姉妹に与えられたのと同じ神のことばに結ばれてこそ、私たちは信仰を成長させることができるからです。

 礼拝とともに聖書の学びもなくてならないものです。多くの人はバプテスマ(洗礼)を受けるまでは、クラスに出席して聖書を学びますが、バプテスマを受けた後、年月がたてばたつほど聖書の学びから遠ざかっていくと言われています。聖書を学ぶよりも、行事や活動に時間を使うようになり、聖書の基本的な教えをしっかり身につけないまま年月を過ごしてしまうことが多いのです。それでいて、長年教会にいるから、何でも分かっているつもりになっているということが良くあります。宗教改革の時代、マルチン・ルターは、そのようなことを嘆いて、「十戒と使徒信条、主の祈りを学んでいない人は聖餐にあずかってはいけない。」と言いました。それでルターは、そうしたことを教えるために教理問答を書き、クラスを作りました。私は、教会員のだれもが聖書の基本的な教えをしっかり身につけて欲しいと願っています。それがあってこそ、私たちの生活に導きが与えられ、奉仕に力が与えられ、こどもたちや他の人々を正しく導くことができるようになります。聖書の学びが「キリストの満ち満ちた身たけ」に近づく基盤を作るのです。みなさんに、初心に返って、聖書の真理をしっかり学びたいという願いがおこされることを期待しています。

 三、キリストを愛する

 キリストの身たけに近づく第二のステップは、愛に生きることです。聖書の教えをたんに頭脳で「知る」だけでは不十分です。愛によって真理を握りしめ、自分のものにしなければなりません。また、他の人に真理を伝える時も、ただ上手に話すことができるだけでは十分ではありません。15節に「愛をもって真理を語り」とある通り、真理は愛をもって語られなければなりません。この場合の「愛」は、自分が話している相手に対する愛も、もちろん意味されているでしょうが、まずは、真理に対する愛を意味しています。人は、誰でも自分の興味のあること、好きなことを話したがります。野球の好きな人は、どのチームのどの選手が強いかなどといったことをことこまかに知っていて、機会があったら、そのことを話したくてうずうずしているでしょう。料理の得意な人は、どんな材料で、どんなふうにして作るか、話し出したら止まらないかもしれません。同じように私たちに「真理」であるキリストへの愛があるなら、私たちは、キリストのことを語りたくて、語りたくてしょうがなくなるでしょう。そして、そのような愛をもって語られたことばが人の心を打つのです。

 私は、説教学の教授から、説教には「ロゴスとエソスとパソスが必要である。」と習いました。「ロゴス」というのは「論理」のことです。論理の通らない話では人に理解してもらえません。「エソス」というのは「倫理」のことです。語る人物が正しい生活をしていなければ説得力はありませんし、語っていることに反する生活をしていれば、語れば語るほど、逆効果になります。「パソス」とは「情熱」のことです。どんなに正しいことでも、そこに真理に対する愛がなれば、人の心に入っていかないのです。セールスパーソンが自分の商品に対する愛がなく、「気に入らなかったら、他の商品を買ってくださってもいいですよ。」という態度なら、ひとつも商品を売ることができないでしょう。

 「愛をもって真理を語る」というのは、もちろん、耳障りの良いことだけを話すということではありませんね。みなさんも、夫婦で、親子で、ものごとをとことん話し合うということがあるでしょう。互いに愛していればこそ、耳に痛い言葉でも、ものごとの解決を求めて話さなければならないこともあります。真理と愛は矛盾しません。真理から愛が生まれ、愛が真理をはぐくみます。「愛の章」と呼ばれるコリント人への手紙第一13章には「愛は…不正を喜ばすに真理を喜びます。」(コリント第一13:6)とあります。「愛」も、「真理」も女性名詞ですから、愛と真理は、まるで仲の良い姉妹のように、いつもいっしょにあって、いっしょに働くのです。真理に生きる者は愛に生き、愛に生きる者は、真理を求め、それを守るのです。

 このように、愛と真理のうちに成長していく姿が、エペソ4:16では「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」と描かれています。個人の成長があって、はじめて教会が成長します。また、個人も、自分ひとりの成長だけを求めるのでなく、互いの成長を求め、他の人々とともに成長していくことを求める時、もっとも良く成長することができるのです。エペソ4:16にある「備えられた結び目」とは、「真理」と「愛」そのものかもしれませんが、同時に、教会を愛し、喜んで、神と人との結び目に、また、人と人との結び目になろうとして働いているクリスチャンのことでもあると思います。私たちの教会でも、執事をはじめとして、教会のスモールグループのリーダや奉仕の責任者は、キリストのからだの「結び目」「関節」「ジョイント」として働いてくれています。具体的な活動や奉仕にかかわっていなくても、多くの人が、その祈りによって、信仰によって、愛によって、なによりも「キリストの満ち満ちた身たけ」を目指して生きるその姿勢によって、教会の「ジョイント」となってくれています。私は、そのようにして、教会を愛し、他の人たちの成長を願う人たちが、教会で最も良く成長してきたのを見てきました。教会はもっと多くの結び目を必要としています。神と人の仲立ちとなって祈る人、人と人との結び目となって働く人たちがもっとおこされるように、そして、私たちが、そのような人となることによって、「キリストの満ち満ちた身たけ」に達することができるようにと心から願っています。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが私たちに与えてくださる賜物は、あふれるばかりに豊かなものです。あなたは、私たちを、少しばかり良い人間にするというのでなく、私たちをあなたの子どもにし、キリストに似たものとし、「キリストの満ち満ちた身たけ」にまで近づけようとしておられます。どうぞ、私たちが、信仰によってこれを自分自身のの目標とすることができますように。そのために、あなたの真理に養われ、愛によってあなたの教会に仕えるものとしてください。愛する主イエスのお名前で祈ります。

11/19/2006