公同の教会

エペソ3:14-19

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3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 一、全地の教会

 教会には四つの特質があります。「ひとつ」であること、「聖なるもの」であること、「公同のもの」であること、「使徒的」であることです。きょうは「公同の教会」ということをご一緒に考えましょう。

 使徒信条の英語の訳では「公同の教会」は "catholic church" となっています。ここで "catholic" というのは、「ローマ・カトリック教会」のことではありません。「カトリック」という言葉は、ギリシャ語では「カソリコス」(καθολικος)と言います。聖書には、この言葉は出てきませんが、それを表す言葉は使徒9:31にあります。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」とあって、「全地にわたり」というのはギリシャ語で「カソレース」(καθ ολης)で、発音も意味も「カソリコス」(καθολικος)と似ています。

 教会は、エルサレムで始まりました。最初のメンバーはユダヤの人たちでした。しかし、教会は一地域だけのもの、一民族だけのものではありませんでした。主イエスが「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)と、言われたように、エルサレムで始まった教会は、聖霊の力によって「地の果て」まで広がっていきました。ルカの書いた「使徒の働き」は、「エルサレム」、「ユダヤとサマリア」、そして「地の果て」という三つの言葉で区分することができます。1章から7章までは、「エルサレム篇」です。教会がエルサレムで始まったことが書かれています。8章からは「ユダヤ・サマリア篇」です。使徒8:1に「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた」とあって、12章まで、教会がユダヤとサマリアの各地に広がっていったことが書かれています。そして、13章からが、「地の果て篇」となります。パウロの宣教旅行のことが書かれ、「地の果て」までも教会が広がっていったことが書かれています。

 主は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と弟子たちに命じ、弟子たちはそれを実行しました。「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた」(マルコ16:20)とある通りです。教会を「公同の教会」とすることによって、私たちは、全地に広がって行くという、私たちの使命を思い返すのです。

 もし、初代教会が、「この町に、自分たちの教会が出来たから、それを守っていればよいのだ」と考えたとしたら、福音は、極東の日本にまで届かなかったでしょう。初代教会では、大きな町に教会が出来たら、そこからさらに小さな町や村へと人々が出かけていって伝道し、教会が建てられていきました。蔓(つる)や蔦(つた)が地面を這いながら、地表を埋めていくようにして、教会は全地に広がっていったのです。

 私がクリスチャンになったばかりのころ、私の母教会では「農村伝道」と言って、礼拝後、まわりの小さな町や村に行って伝道しました。その中から伝道所が生まれ、それが教会となっていきました。また、私の神学校の先輩が牧師をしていた教会では、町の東西南北に四つの家庭集会があって、それがそれぞれ教会となっていきました。私は牧師になってからその先輩の牧師を訪ね、とても刺激を受けました。それで、私が日本で働いていたとき、教会の人数が増えたとき、20名ほどが別れて、新しく伝道所を開くことにしました。

 その時、伝道所に行く人たちと別れなければならないのは、とてもつらいことでした。誰もが、ひとつのところで、みんなで仲良く教会生活をしていたかったでしょう。しかし、より、多くの人に福音を伝えるとために、伝道所を開設するという結論に導かれました。そのとき、私たちは、教会は全地に広がっていくべき「公同の教会」であることを互いに確認しあうことができました。

 二、普遍の教会

 「公同の教会」は英語では "catholic church" と訳されるばかりでなく、"universal church"(普遍の教会)とも訳されます。聖書では「教会」という言葉はふたとおりに使われます。ひとつは、各地にある個々の教会、ローカル・チャーチ(地域教会)です。もうひとつは、ローカル・チャーチがすべて含まれているユニバーサル・チャーチ(普遍の教会)です。英語では "church" あるいは "churches" という言葉が106の節で使われていますが、そのうち72は単数の "church" で、34が複数の "churches" です。"Churches" は「諸教会」などと訳され、ローカル・チャーチを指します。単数の場合は、ひとつのキリストのからだである教会、ユニバーサル・チャーチ(普遍の教会)を指しています。

 使徒パウロは、「ローマの教会」、「コリントの教会」、「ガラテヤの教会」、「エペソの教会」、「ピリピの教会」、「コロサイの教会」、「テサロニケの教会」に手紙を書きましたが、正確に言えば、それは、「ローマにある教会」、「コリントにある教会」、「ガラテヤにある教会」、「エペソにある教会」、「ピリピにある教会」、「コロサイにある教会」、「テサロニケにある教会」です。別々の教会が各地にあるのではなく、ひとつの普遍の教会が各地域に地域教会という姿で現われているのです。使徒たちはそう教え、信仰者たちは、普遍の教会、つまり、公同の教会を信じていました。

 聖書はこのユニバーサル・チャーチを、「神の家族」と呼んでいます。ひとりの父なる神のもとに結びあわされた大家族です。エペソ2:19に「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」とある通りです。ここで言う「神の家族」は、個々の教会のメンバーが家族のように親しくすることを言っているのではありません。それは、公同の教会に属する個々の教会と教会との一致やまじわりのことを言っています。どの教会も自分たちだけで成り立っていると考えるべきではありません。互いに「キリストのからだ」として仕え合う、「神の家族」として支え合う、また、「聖霊の宮」として共に建てあげられ、神の栄光を表す、公同の教会の一部であることを意識していたいと思います。

 しかし、いきなり、「公同の教会を意識する」と言われても、すぐにできるものではないと思います。"Think globally, act locally." と言われるように、個々の教会が、属している教団、教派、連盟、連合などのまじわりを大切にすることから始めるとよいと思います。教団、教派、また、教会のグループは、公同の教会のひとつの姿です。いきなり「全世界のすべての教会」と言われても、具体的ではありませんので、まず、ルーツを同じくする教会、ビジョンを共有する教会のまじわりを深めることによって、教会が大きな「神の家族」であることを意識していきたいと思います。

 10月第一日曜日は「世界聖餐主日」として多くの教会で守られています。これは、もとは米国長老教会が、海外の同じ教派の教会とのまじわりを意識するために始めたものですが、やがて、すべての教派にひろがりました。こうした日を守ることによって公同の教会を意識することができます。教派が違っても、同じ地域にある教会が共に集まり、協力して伝道したり、地域の必要に奉仕していくことは、人々に、キリストの教会がひとつであることを証しする良い機会になり、それぞれの教会も、メンバーも大きな祝福を受けるに違いありません。

 三、公けの教会

 聖書では、信仰者同士が「兄弟たち」と呼ばれ、「信仰の家族」(ガラテヤ6:10)という言葉もあります。同じ信仰に立つ者の、キリストにあるまじわりが「家族」という言葉で描かれているのですが、だからといって、教会が「家族的」なもの、一般の家庭の延長のようなものとは言っていません。聖書は、教会を「公け」のものとして描いています。

 ご承知の通り、「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言いますが、この言葉は、ギリシャ都市国家の議会を表す言葉でした。議会が招集されると、選ばれた人々が議場に集まり、討論を交わしたあと、法律を採決し、それによって都市国家が統治されていきました。都市国家の「エクレシア」が公けのものであるように、神の国の「エクレシア」、教会もまた公けのものです。そこでは、王であるキリストの教えと聖霊の導きにしたがって、祈り深くものごとが決められ、決められたことは忠実に実行されなければなりません。ひとりやふたりの個人的な好みが幅をきかすようなことがあってはならないのです。そのために、教会に規則や組織が作られ、秩序の中でものごとがなされていくことが大切なのです。

 誰もが、家族的で温かい教会を好みます。しかし、「家族的」ということによって、甘えやわがままが助長されたり、人間的な親密さが、他の人々を遠ざけるようになってしまったなら、それはもはや「公同の教会」ではなくなります。

 私が学生時代通っていた教会は、日曜日ごとに夕礼拝があったので、昼食はみんなで、夕食は牧師家族と一緒に食べていました。同年代の人が多くいて、そのころの日本では珍しく、お互いにファーストネームで呼び合っていました。「家族的」な仲の良い教会でした。けれども、新しい人が来ても、仲間同士でしゃべっていて、その人に声をかけることがおろそかになっていました。それは徐々に改善されていきましたが、その時、私は、教会には、どんなに親しいまじわりがあったとしても、そこが公けのものであることを忘れてはいけないことを教えられました。

 その後、私は別の教会に行くことになりましたが、そこは、日曜日になると、たった二間しかない牧師家庭の住居の畳の上にカーペットを敷き、そこに折りたたみの椅子をならべて礼拝するという、「家の教会」でした。けれども牧師先生は、「教会が小さいからといって手を抜くようなことをしてはいけない、教会が大きくなってもちゃんとやっていけるように、規則にしたがって長老や執事を立てなければならない」と、メンバーを教え、導いてこられました。やがて、人数も増え、独立教会として成長していきました。私は、このことから、教会のあるべき姿について、とりわけ、教会を公けのものとして保つために必要なことをいくつも学ぶことができました。

 誰しも、自分がそこにいて心地よい教会を求めます。しかし、そうしたことだけを求めていると、その人も、その教会も決して成長することができません。みんなで低い方向に流れるか、それぞれが自分のやりたいことを主張して、本来あるべき主にあるまじわりが損なわれます。そうしたことが昂じると、ヨハネ第三1:9 に書かれているように、ディオテレペスが教会で「かしら」になりたがったようなことが起こり、教会からほんとうの「かしら」であるキリストを追い出してしまうようなことが起こるのです。教会が、キリスト教的な人間集団、ある特定の人々だけが集まる、セクト的、カルト的なものになってしまいかねません。

 エペソ3:17-19にこうあります。「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」教会はそこでキリストの愛を体験し、その愛を人々に証しする場です。そして、キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」は「すべての聖徒たちとともに」とあるように、「公同の教会」の中でこそ、それを知ることができ、人々に知らせることができるのです。教会を「公同の教会」として保っていかなければ、私たちはキリストの愛を証しするという使命を果たすことができなくなるのです。そのことを忘れず、自分が教会の一部であり、自分たちの教会が「公同の教会」の一部であることを覚えて、教会生活に励みたいと思います。

 (祈り)

 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたは、イエス・キリストを信じて救われた者たちを養い育て、この世に、福音を告げ知らせ、キリストを証しするために、教会を建ててくださいました。教会が、その務めを果たし、その使命を全うすることができるため、私たちが「公同の教会」の一員であることを、堅く自覚させてください。教会のかしら、イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/2/2019