すべての家族の父

エペソ3:14-17a

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3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 今、私たちが礼拝で学んでいるエペソ人への手紙は、とても特徴的な手紙で、様々な呼び名で呼ばれてきました。エペソ人への手紙の主題は「教会」ですので、この手紙は「教会の手紙」と呼ばれてきました。また、この手紙には、かつては隠されていた神の深いみこころがあらわされていますので、「奥義の手紙」とも呼ばれました。この手紙には天に昇られたキリストの姿が描かれていますので「昇天の手紙」と呼ばれ、霊的な世界、天上の世界のことに多く触れられていますので、「天上の手紙」とも呼ばれています。この手紙のどの章にも聖霊の働きが明確に教えられていますので、私はこれを「聖霊の手紙」と言ってよいと思っています。また、エペソ人への手紙には、パウロの祈りがいくつか含まれていますので、「祈りの手紙」と呼ぶこともできると思います。日常生活の具体的な歩みについてのどの教えも、神の永遠のご計画と結びついた形で語られています。そのどれもが天に直結しています。エペソ人への手紙は、私たちに神のみこころを知らせ、天の世界を見せてくれる手紙です。神のみこころは聖霊によって知ることができ、天の世界は祈りによって見ることができます。きょうは、パウロの祈りを学びますが、この祈りによって天上のものをかいま見たいと思います。

 一、父への祈り

 パウロの最初の祈りは1:15〜19にあり、二つめの祈りが3:14〜21です。この二つのの祈りを読んでみると、パウロが神の奥義を解き明かしながら、その解き明かしがいつしか祈りに変わっていき、ふたたび祈りから解き明かしへと進んでいるのが分かります。エペソ1:3〜14で、パウロは、三位一体の神が私たちの救いを計画し、実行し、そして、保証しておられることを書きました。パウロは神の救いの素晴らしさ、救い主である神の偉大さを思う時、この救いにあずかった者たちが、さらに深く神を知るように、救われた者に与えられている「栄光の富」の豊かさ、「神の力」の偉大さを知ることができるようにと、祈らざるを得ませんでした。それで「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」という、エペソ1:15-19の祈りが生まれたのです。

 3:14〜21にある二つ目の祈りは、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストを信じる信仰によってひとつの「家族」になるということを述べた後でささげられている祈りです。パウロ自身はユダヤ人でしたが、彼は異邦人の立場に立って、異邦人もまたユダヤ人と同じように「神の民」とされるということに、深く感動しました。そして、彼は、かつてはキリストに敵対し、教会を迫害していたのに、今は、キリストを宣べ伝え、教会を建て上げるつとめを任せられていることに感謝して、手紙を書き綴る手を休めて祈りに向ったのです。

 ここで、パウロは「私はひざをかがめて、…祈ります。」(14節)と言っています。当時、ユダヤの男性は、立って、手を天にあげて祈りました。「ひざをかがめて」祈るというのは、パウロが神によって示された真理の前に、いかに謙虚であったかを示しています。パウロは、神の真理が示された時、その真理の前にひざをかがめずにはおれませんでした。神がどんなにきよく偉大であるかを知る人、自分が神の愛も恵みも受けるのにまったくふさわしくない者であるのに、その愛と恵みを受け取ることをゆるされていることを知る者もまた、神の前にひざをかがめずにはおれなくなるのです。聖書の真理を知る時、私たちはその前にひざまずくようになるのですが、それと同時に、聖書の真理は、私たちがその前にひざまづくことなしには理解できないものです。よく言われることですが、"understand"(「理解する」)という言葉は、"under" と "stand" から成り立っています。私たちが真理の下に立つ時、はじめて、真理は私たちに語りかけるのです。聖書の真理を知りたいと思うなら、聖書をよく読み、よく学ぶことはもちろんですが、その前に「栄光の父よ。あなたとあなたのことばを知るため、知恵と啓示の御霊を与えてください。」と祈る必要があります。祈りなしに、神の真理を理解することはできません。そして、神の真理を知らされたなら、その前にひざをかがめて、祈りと礼拝をもって、その真理に応えるのです。それによって、私たちは真理を自分のものとすることができるようになります。祈りによって真理を知り、祈りによって真理を自分のものとするのです。

 最近、私は、私の前に走っていた車のバンパー・スティッカーに "God listens to your knee-mail." と書いてあるのを見ました。"email" ではなく、"knee-mail" です。それは、神の前にひざをかがめ、へりくだって祈る祈りのことです。私たちは、みことばに向う前に、どれほど心から祈っているでしょうか。また、みことばを聞いた後、どれほど真実な祈りをもって応答しているでしょうか。古代の教会の指導者は「知ることは祈ることであり、祈ることは知ることである。」と言いました。神の前にひざをかがめる祈りによってますます神を知り、神を知れば知るほどいよいよ神の前にひざをかがめて祈る、祈りの人になりたく思います。

 二、父と家族

 次に、パウロが神を「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」(15節)と呼んでいることに目を留めましょう。この部分は日本語ではわかりにくいのですが、もとの言葉、ギリシャ語で読むとよく意味が通ります。ギリシャ語の「父」は「パテール」と言い、「家族」は「パトゥリア」と言います。「パトゥリア」(「家族」)という言葉は「パテール」(「父」)が語源となってできた言葉なのです。ギリシャ語を使う人々は、「父」から「家族」が生まれると考えましたが、それは、ヘブル語を使っていたユダヤの人々も同じでした。たとえば、聖書の系図では、「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、…」などとあるように、「家族」を生み出しているのは、「父」です。ですから「家族と呼ばれるものの名の元である父」というのは、聖書が書かれた時代の人々には、すんなりと受け入れることのできる表現でした。

 「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」とある中の「天上と地上」という言葉ですが、ここでいう「天上」というのは霊的なという意味で使われており、それは「神の家族」を指しています。パウロは、ユダヤ人も異邦人もひとつの「神の家族」とされたことを、エペソ人への手紙の2章と3章で説き明かしてきましたので、ここで、神を「神の家族」を生み出してくださった神を「父」としてあがめているのです。ユダヤ人も異邦人も「神の家族」がひとつ思いになって祈るべき祈りとして、この祈りをささげているのです。

 「地上で」という言葉は「人間の世界」でという意味で、「地上の家族」というのは、私たちが普通に「家族」と呼んでいる、血縁関係や法的関係による「家族」のことを指しています。「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」ということばは、どの家族であれ、それを生み出したのは、神であるということを教えています。神は神の家族だけの父ではありません。神を信じる家族であれ、神を信じない家族であれ、それを生み出してくださったのは、父なる神です。

 創世記には、神が、アダムとイヴ、ひとりの男性とひとりの女性との結婚によって家族を造ってくださったとあります。結婚や家族は、人間がその社会を保つために便宜上作り出したものではありません。しかも、それは、神の定めた制度です。家族は、国家や政府、企業ができる以前、この世界のいちばん始めに定められたものです。このことは、私たちが、家族を、なににもまさって大切なものとし、それを神の定めに従って守らなければならないことを意味しています。現代は家庭が崩壊している時代です。表面的には問題が無いように見えても、夫婦が互いに尊敬しあえない、親と子が信頼しあえない家庭が何と多いことでしょうか。そのような中で、クリスチャンの家庭が守られていることは幸いなことですが、クリスチャンの家庭なら、自動的にすべてがうまく行くという保証はどこにもありません。クリスチャンの家庭といえども、さまざまな困難にぶつかり、問題を抱え、痛みや苦しみを通らなければならないことがあるのです。しかし、そのような時に、私たちの慰めとなるのは、神が「すべての家族の父」であるということです。自分たちの家族を父なる神に委ね、父なる神の定めに従う時、どんなに壊れかかった家族であっても、それを立て直すことができ、どんな困難があっても、それを乗り越えることができるようになるのです。

 地上の家族にとって神が父であり、神を父としてあがめ、父なる神に信頼し、父のみこころに従うことがなによりも必要なことであるなら、「天上」の家族である教会にとって、神を父としてあがめ、父なる神に信頼し、父のみこころに従うことはもっと大切なことです。霊的な神の家族と、それに連なる一つ一つの家族を大切にすることは決して矛盾することではないはずです。「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」にいよいよ信頼し、従う私たちでありたく思います。

 三、父からの力

 この「父」にパウロは、「力」と「愛」を祈り求めています。「愛」については、次週学ぶことにして、今日は、「力」について学ぶことにしましょう。

 パウロが父なる神と「力」とを結びつけているのは、良く分かりますね。みなさんは、こどものころお父さんに肩ぐるまをしてもらったりして父親の力強さを体験していることと思います。力が無くて飲み物の瓶の蓋をあけることができないとき、お父さんのところに持っていくと、それが簡単に開いてしまうのをみて、「お父さんはすごいな。」と思ったことがあったでしょう。私の父はからだが不自由でしたから、体力的な意味では、父親の強さを感じることはできませんでしたが、父は才能の豊かな人で、何をしても上手にできる人でした。父は、私にとってやはり「強い」存在でした。こどもは父親に「力」を期待し、父親もこどもを鍛えて強くしようとします。それは、霊の父である神と、神のこどもたちにとっても同じです。神のこどもたちは、父なる神からの力を必要とし、父なる神はそれを与えようとしておられます。私たちは、父なる神に、神の子として、力を求めるのです。

 16節と17節が力を求める祈りです。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」この祈りを心から祈るために、三つのことを覚えておくとよいと思います。

 第一に、神は私たちの「内なる人」を強めてくださるということです。「内なる人」とは何でしょうか。それは、イエス・キリストを信じて新しくされた性質のことです。父なる神は、私たちの古い性質を強めはしません。神のこどもに与えた新しい性質を強めてくださるのです。神は、私たちのからだをも強めることのできるお方ですが、たとい、外側のからだが弱ることがあっても、私たちの内面にある霊的な部分を強めてくださいます。コリント第二4:16に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあるとおりです。クリスチャンは神に祈る時、この世のもの、外側のものだけを求めるようなことはありませんが、時として、健康や財産など目に見えるものに気をとられて、神によってしか強めていただくことのできない、私たちの内面のことを祈り求める熱心さを欠いてしまうことがあります。「内なる人を強めてください。」との祈りを忘れることなく、日々ささげていきましょう。

 第二に、神の力は「信仰」によって与えられるということを覚えましょう。神の力は神とは別にどこかにあって、運がよければそれに巡りあうことができるとか、何かの魔法によってそれを自分のものにできるというものではありません。神の力は、神に属しています。私たちが神の力を得るのに、必要なことは、私たちが神を信頼し、また神に信頼される関係を持つこと、つまり「信仰」を持つことなのです。神の力はバッテリーのような独立したエネルギー源として、私たちに与えられているのではありません。電気器具がコンセントにつながり、たえず電気の供給を受けて動くように、私たちも「信仰」によって神につながることによってはじめて神の力を受けるのです。

 第三に、神は、私たちのうちに住んでくださることによって、私たちに力を与えてくださいます。先ほど、神と神の力は切り離せないと言いました。神の力とは、神ご自身です。神の力を持つことは、神を持つことです。神の家族であるわたしたちのうちに神をお迎えすることです。神をお迎えするといっても、ゲストとしてほんのしばらくいてもらうというのではありません。神を私たちの父として迎えるのです。神が私たちとともにいてくださるようにとの願い、求めは、ここでは「キリストが、…心のうちに住んでいてくださいますように。」という祈りによって表されています。神はキリストによって、キリストは聖霊によって私たちのうちに住んでくださいます。それでパウロは「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」と、キリストの「内住」を祈り求めているのです。あなたは、この祈りのように、神の臨在を求めているでしょうか。キリストの内住を願っているでしょうか。聖霊が、私たちの内なる人をアット・ホームな場所と感じてくださっているでしょうか。私たちは、「キリストが私のうちに住んでいてくださる。」という信仰と体験を通して、父なる神の力を受けとっているでしょうか。

 今日は「父の日」。お父さんたちにとって、奥さんから、こどもたちから感謝され、気分良く過ごすことができる日かもしれませんが、同時に、神の前に出る時、家族の「父」として立てられていることの責任の重さを感じる日でもあることでしょう。私がこどものころ、父親は何でも出来て、力のある人のように思いました。今、その時の父親の年齢をはるかに超えていますのに、私は、人間としても、父親としても、弱さや足らなさを感じています。私の父も、その時はそうだったのだろうかと想像しています。人の目には大丈夫そうに見え、自分でも「大丈夫ですよ。」と儀礼的に人に話していても、大丈夫でないことも多くあります。しかし、幸いなことは、そんな時も、父なる神に、祈り、この父からこどもとしての力を得ることができることです。今朝、聖書のおことばの「あなたがた」とあるところを「私たち」と読み替えて祈り、このメッセージを閉じたいと思います。ご一緒に、声を合わせてお祈りしましょう。

 (祈り)

 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父よ。あなたの栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、私たちの内なる人を強くしてください。そうしてキリストが、私たちの信仰によって、私たちの心のうちに住んでいてくださいますように。

6/18/2006