教会を通して

エペソ3:10-13

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3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
3:13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。

 エペソ人への手紙は、牢獄で書かれました。使徒パウロは、キリストを宣べ伝えたため、信仰に反対する人たちによってローマの地方総督に訴えられました。使徒パウロはその裁判でローマ皇帝に上訴したため、ローマに囚人として送られ、そこで牢獄につながれました。その牢獄の中で、パウロは、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙を書きました。この三つの手紙は牢獄から書いた手紙なので、「獄中書簡」と呼ばれています。しかし、これらの手紙は、囚人が獄中から書いたものとは思えないほど、力に満ち、賛美に満ち、感謝に満ちています。「キリストのゆえに投獄されている」(ピリピ1:13)「この奥義のために、私は牢にいれられています。」(コロサイ4:3)などといったことばがなければ,

とても「獄中書簡」とは分からないほどです。獄中にいたパウロは、他の人から慰めを受ける立場にあったのに、エペソ3:13では「私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようにお願いします。」と、逆に他の人たちを励ましています。なぜ、パウロはそんなふうに言うことができたのでしょうか。それは、パウロが教会に与えられている「目的」と「権威」と「特権」とを知っていたからです。今朝は、使徒パウロが、ここで示している教会の「目的」と、「権威」と「特権」について、ご一緒に考えてみましょう。

 一、教会の目的

 パウロは、10節の「教会を通して、神の豊かな知恵が示されるため」ということばで、教会の目的を教えています。「神の豊かな知恵」というのは、次の11節では「私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画」ということばで置き換えられています。「永遠の計画」とは、神が人類とその世界の救いのために立ててくださったご計画のことです。「永遠の計画」と言われているのは、神の救いの計画が、罪を犯した人間をとりあえずなんとかしなければと、あわてて立てた粗末な計画ではないからです。神は、永遠の昔から、人間の救いを計画しておられ、それは決して変わらない確かなものです。また、神の計画は、私たちに永遠にいたる救いを与えるものなので、「永遠の計画」と呼ばれています。

 この「神の永遠の計画」は、「キリスト・イエスにおいて実現」しました。キリストは人となって地上に来られました。私たちの罪を背負って十字架で死なれました。三日目に復活し、それから四十日後に天にのぼり、父なる神の右の座に着かれました。今も、キリストはそこにおられます。キリストは、このことによって、救いを成就してくださいました。人類は、何千年という長い間、自分たちの救いを探し求めてきました。さまざまな思想が生まれ、宗教が出来ました。しかし、イエス・キリストはその探求の旅にピリオドを打たれたのです。宗教や思想の始祖たちは、「そこに道がある。そこを歩みなさい。そこに真理がある。それを手に入れなさい。そこにいのちがある。そこへ行きなさい。」と教えました。しかし、彼らは道を指し示すことはできても、私たちをその道に歩ませることはできませんでした。真理を指し示すことはできても、真理そのものを与えることはできませんでした。いのちを指し示すことはできても、いのちを与えることはできませんでした。しかし、キリストは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)キリストご自身が、道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものなのです。すべての道はキリストに到達することによって目的を達成し、すべての真理はキリストによって意味あるものとなり、すべてのものはキリストによって生かされてこそ、いのちを持つのです。本気で生きる道を探し求めた人たちは、キリストが道であり、真理であり、いのちであることを知りました。キリストのうちに、生きる目的を、生きる意味を、そして生きる力を見いだしたのです。生きてはいても少しもいのちの脈動を感じ取ることのできなかった人々が、キリストによって生かされ、満たされ、人生を力強く生きてきました。世界の何十億という人たちが、キリストに最終的な答えを見いだしています。

 教会の役割は、このキリストの救いを人々に示すことにあります。エペソ3:10に「教会を通して、神の豊かな知恵が示されるため」(エペソ3:10)とあります。どのようにして、それを示すのでしょうか。まず第一に、私たちの「礼拝」によってです。人々は、私たちがこころから神を礼拝する姿を見て、そこに神がおられることを知るでしょう。第二に、私たちが、神の家族としての「まじわり」を保ち、互いに愛し合うことによってです。それによって人々はキリストが私たちひとりびとりを愛していてくださっていることを知るでしょう。第三は私たちが、キリストの「弟子」として成長していくことによってです。私たちには、言葉や活動によってだけでなくみずからの人格によってキリストを表わしていくという使命が与えられています。第四にしもべとなってする「奉仕」によって、キリストが主であることを示します。そして、第五に、こうした土台の上に「伝道」する時、教会は人々にキリストの救いを示すことができるのです。クリスチャンであれば、誰しもキリストの救いを受けています。しかし、神は、救いを受けた者たちに、同時に、この救いを人々に示していく使命もお与えになったのです。あなたは、あなたの人生が、キリストの救いの中に表された神の豊かな知恵を示すためにあるのだといういうことを知っているでしょうか。それを知っている人は、どんな苦しみの中でも、落胆せずに、パウロのように前に向って進むことができるのです。そして、そのような「人生の目的」に生きる人たちが集まる教会は、神から与えられた本来の目的を達成する教会となることができるのです。

 二、教会の権威

 第二に、教会の権威について考えてみましょう。10節に「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」とありますが、この中の「天にある支配と権威」ということばの中に、キリストが教会に与えてくださった権威が表わされています。「天にある支配と権威」と言うと、神が、見えるものも、見えないものも、すべてを支配しておられること、あるいは天の軍勢である天使たちが神のみこころにしたがって整然と行動している様子を思いうかべますが、この文脈で使われている「天にある支配と権威」というのは、神にさからう勢力を指しています。エペソ2:2に「空中の権威を持つ支配者」ということばが使われ、エペソ6:12に「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と書かれているように、エペソ人への手紙では「支配」や「権威」という言葉は、サタンとその勢力を表しています。10節の「天にある支配と権威」というのも、同じものを表しています。神にさからい、人々をキリストの救いから遠ざけ、真実な教会を攻撃してくる見えない霊的な力について、聖書はいたるところで触れています。

 サタンと悪霊にキリストの救いが示されるというのは、キリストの勝利を示すためです。キリストによって救いは成就した。キリストを信じる者は、サタンの支配から解放されて、神に属するものとなったということを宣言するためなのです。一般のビジネスの世界では、一方が得をして他方が損をするのでなく、両方が互いに利益を得る Win-Win の取引を心がけます。しかし、Win-Win Situation は一般の世界には通用しても、霊的な世界では通用しません。神はサタンと取り引きするのではなく、サタンを滅ぼして、私たちを救ってくださるのです。私たちの敵が滅びることなしには、私たちの救いはないからです。現代は光と闇、真理と偽り、救いと滅びとなどの区別があいまいになっていますので、聖書の教えが正しく理解されていないことがあります。教会は、好むと好まざるとに関わらず、救いと滅びの両方を、示す存在であるのです。コリント第二2:15-16に「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。」とあります。大変厳粛なことばですが、それが霊的な世界の現実なのです。

 教会はサタンに対して、悪霊たちに対して、またこの世の力に対して、すでに勝利し、これからも勝利していきます。主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)教会には、キリストの、こ権威が与えられているのです。それは、「ハデスの門もそれに打ち勝てません。」(マタイ16:18)と主が言われた、陰府にも死にも打ち勝つ大きな権威です。私たちは、悪が栄えるのを見て心を煩わせたり、意気消沈したりしやすいのですが、教会に与えらているキリストの力を信じ、霊的な戦いに勝利していこうではありませんか。

 三、教会の特権

 第三は、教会に与えられた「特権」についてですが、教会に与られた特権とは何でしょうか。それは12節の「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」ということばに見ることができます。聖なる神と罪ある人間。そこには、人間の努力によっては越えることのできない大きな隔てがあり、深い淵がありました。しかし、キリストは、十字架の上で、私たちの罪をすべて引き受け、その血潮で私たちの罪を赦し、私たちを罪からきよめてくださったのです。キリストがきよい神と罪ある人間との橋渡しをしてくださったのです。キリストの十字架が、神と私たちとの間にかけられた橋でした。そして、復活して父なる神の右の座に着いておられるキリストは、神に近づこうとする者のためにとりなしをしてくださっています。ヘブル4:16に「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とあるように、私たちには、キリストによって神に近づくことができる特権が与えられているのです。

 神は、キリストによってすでに私たちに近づいておられます。今度は、私たちが神に近づく番です。イザヤ59:1は、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。」と言い、ヤコブ4:8は、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」と言っています。エペソ3:12で「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」とあるように、キリストを信じる信仰によって神に近づきましょう。

 聖書は、私たちに、まず、ひとりびとりが、神に近づくように教えています。主イエスがしばしば寂しいところで、ひとりになって父なる神に祈られたように、私たちも、人から離れ、ひとりになって神に近づく必要があります。しかし、それと同時に、聖書は、教会がひとつになって、ともに神に近づくべきことも教えています。信仰によって神に近づこうと努力している者たちが礼拝に集まる時、神に近づこうとする思いと思いとが共鳴して、「ともに」神に近づく喜びがあたえられるのです。さまざまな問題にふりまわされて落胆している時も、神に近づこうと集まった信仰者たちに励まされて、神に近づくことができるようになる、そんな経験を皆さんも持っていると思います。釘が磁石にくっつくと、その釘もまた磁力を帯びて、他の釘をくっつけていきます。そのように、私たちが神に近づくことによって、ここに来る人たちもまた、神のもとへと吸い寄せられていくような教会であるようにと願っています。

 パウロが、福音のゆえに投獄され、苦しみにあったように、教会もまた、純粋な福音を守り、それを宣べ伝えていこうとする時、さまざまなことがらに悩まされるでしょう。しかし、教会には、救いを求め、助けを求めて、神に近づくことができる特権が与えられています。神が教会に与えておられる「目的」を、その「権威」を、そして、その「特権」を思う時、私たちは、失望や落胆から救われ、「大胆に確信をもって」神に近づくことができ、神が喜んでくださる教会となることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、教会に与えられている「目的」と、「権威」、そして「特権」とを再確認することができ、ありがとうございました。これらのことを、たんなる知識としてでなく、教会の中で実現することができるよう、私たちを助けてください。教会があなたのみことばの基準にそって成長していくように、教会を愛し、そのために心を砕く私たちとしてください。教会のかしら、イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/28/2006