キリストの奥義

エペソ3:1-6

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3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
3:2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3:3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
3:5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

 文学に「ファンタジー」という分野があります。空想物語のことを指すのですが、サイエンス・フィクションが未来世界を舞台にしているのに対して、ファンタジーでは、たいてい、中世ヨーロッパが舞台になっていて、王様や王子、王女、騎士、魔法使いや妖精、ドラゴンなどが登場します。ファンタジーが今のように流行したのは、J・R・R・トールキンの『指輪物語』(1954年)からであると言われています。これは映画では「ロード・オブ・ザ・リング」としてヒットしましたね。C・S・ルイスの『ナルニア国ものがたり』シリーズ (1950年 - 1956年)はトールキンと同時代のもので、トールキンに影響を与えたと思われます。最近のものでは、J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズ (1997年 - ) もベストセラーになり、映画化されています。このハリー・ポッターは実際の魔法のことばを使っているということで、クリスチャンの間では問題になっています。それはともかくとして、こうした物語には、特別な力を持ったリングや秘密のことばがあって、それが、長い間封印されていた「奥義」を開くという設定があります。中国や日本にも、拳法や剣術の「奥義」や「秘伝」というものがあって、それは、師から選ばれた弟子へと伝えられていくもので、決して他の人には知らされることがありません。それで、私たちは聖書に「奥義」という言葉を見つける時、この言葉の中に何か古めかしいものを感じてしまい、聖書の「奥義」という言葉の意味を見失ってしまうことがあります。そうならないように、聖書の「奥義」という言葉が意味していることをしっかりと学んでおきましょう。

 一、明らかにされた奥義

 「奥義」と訳されているギリシャ語は「ムステリオン」と言い、ここから英語の "mystery" という言葉が生まれました。"mystery" というと多くの人は、それを「謎めいたもの」「不思議なこと」「不明なもの」という意味で受け取っていますが、聖書はそういう意味では使っていあません。今朝の箇所に「この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。」(3節)「私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。」(4節)とあり、エペソ1:8-9には、「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」と書かれていました。聖書の「奥義」とは、はっきりと示されたもの、それを知って、理解できるものであると言われています。New Living Translation では、今まで "mistry" と訳されていたところが、"secret plan" あるいは "secret God has reveled"(神が明らかにされた秘密)と訳されています。聖書が言うミステリー、「奥義」は決してミステリアスなものではないのです。

 新約聖書には「奥義」という言葉が27回使われていますが、そのどれもが、神の救いの計画を指しています。キリスト以前にも、神はさまざまな方法で、救いの計画を示してこられましたが、それが実現したのはキリストによってでした。キリストが人となってこの世に来られ、十字架の苦難を受け、復活し、信じる者に聖霊を与えてくださることによって、神の救いの計画、つまり「奥義」が私たちに知らされたのです。使徒パウロは、コリント第一15章で復活について論じていますが、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。」(コリント第一15:51)と言って、世の終わりの復活のこともまた、キリストの復活によってはじめて明確になった「奥義」であると言っています。コロサイ1:27では「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」と言っています。神の救いの計画の中心は、まさにキリストご自身ですから、「奥義はキリスト」と言われているのです。エペソ3:4に「キリストの奥義」とあるのは、この「奥義」がキリストによって明らかにされたということばかりでなく、キリストご自身が「奥義」そのものだという意味でもあるのです。

 エペソ3:5に「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」とあります。このことばに従って、「奥義」を定義すると、「かつては隠されていたが、今は明らかにされた、キリストによる救いの計画」と言うことができるでしょう。

 二、感謝すべき奥義

 世界の歴史は、B.C.(キリスト以前)と A.D.(主の年)とに大きく区分されていますが、私たちの救いについても、「キリスト以前」と「キリスト以後」では、大きな違いがあります。特に、キリスト以前には「異邦人」と呼ばれていた私たちはそうです。エペソ2章で学んだように、私たちは「罪の中に死んでいた者」(2:1)「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(2:3)「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たち」(2:12)でした。ところが、今は、「聖徒たちと同じ国民」「神の家族」(2:19)となりました。エペソ3:6は、このことを、「共同の相続者」「ともに一つのからだに連なる者」「ともに約束にあずかる者」という三つの言葉で再確認しています。

 最初の言葉、「共同の相続者」というのは、神がアブラハムに与えると約束された祝福を、アブラハムの子孫でない私たちが、それにあずかることができるという意味です。イエス・キリストを信じる者は、アブラハムと同じ信仰を持ち、その信仰によってアブラハムの子孫となることができるのです。もう、十年も前のことですが、聖地旅行に参加し、イスラエルに到着した時、ガイドの方から「おかえりなさい。」と言われました。初めてのイスラエル訪問でしたが "Welcome Back!" と言われたのです。なぜかと言えば、イスラエルは、ユダヤの人たちばかりでなく、私たちクリスチャンにとっても約束の土地であり、私たちのふるさとであるからなのです。神は、ご自分の民に、天にあるエルサレム、天のふるさとを用意してくださっており、私たちも神の家族の一員として、聖徒たちとともに天のエルサレムの「共同の相続者」となるのです。

 「共同の相続者」と訳されている言葉には、「スン」という接頭辞がついています。これは、第二の「一つのからだ」という言葉にも、第三の「ともにあずかる」という言葉にも使われています。第二の言葉、「一つのからだ」は「スンソーマ」というギリシャ語で、文字どおりは「同じからだ」ということです。「スン」というのは、英語では "synchronize" という言葉で使われている "syn" に相当します。"synchronize" というのは「同時に作用する」「いっしょに動く」という意味です。オリンピックの種目にもなっている Synchronizedd Swimming には二人でするデュエットと、八人でするチーム競技がありますが、これは、二人または八人が同時に同じ動作をしますね。特にチーム競技で、てんでバラバラの動作をしたのでは美しくもなんともありません。八人の選手が「一体」となるところに、その見事さがあるのです。「一つのからだ」という言葉は、神が、ユダヤ人も異邦人もともにキリストのからだの一員としてくださり、一体となった教会を建て上げてくださることを表しています。

 第三の言葉、「ともに約束にあずかる」というのは、神がイスラエルに与えてくださった約束が、イエス・キリストによって私たちのものとなっているということを教えています。イエス・キリストによって旧約の約束が成就したのです。

 私たちは、科学技術の発達した時代に生きており、その恩恵を受けています。かつては、アメリカから日本に行くのに、何日も船に乗らなくてはならなかったのですが、今は、わずか半日、12時間で行くことができます。かつては日本からの手紙が届くのに何日もかかったものですが、今は、Eメールで、ほとんど同時に手紙のやりとりをすることができます。数十年前までは不治の病であったものが、医学の発達によって、完全に直るようになりました。重い病気をした人たちから、「昔だったら、私は死んでいたところだ。医学の発達した現代に生まれていて良かった。」と聞かされたことが何度もあります。このような目に見える恩恵は誰でも気付くのですが、キリストによって与えれるたましいの救いという霊的な恵みに気付き、それを深く理解し、感謝する人は少ないようです。医学は肉体のいのちを延ばしてくれるかもしれませんが、永遠のいのちを与えてはくれません。科学は今の生活に便利さを与えてくれますが、永遠の祝福を約束してはくれません。永遠のいのちと、永遠の祝福はイエス・キリストによってもうすでに明らかにされています。「キリストの奥義」は、今は、「キリストの福音」として伝えられています。あなたはもう、福音を信じ、この「奥義」を受け取っているでしょうか。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)とあるように、この「奥義」は頭脳だけで理解するものではなく、イエス・キリストへの信仰によって受け取るものです。そして、キリストを信じることは、決して難しいことではありません。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)とあるように、「主イエスよ。私を救ってください。」と、主を呼び求めることなのです。「キリストの奥義」が明らかに示されている今の時代を感謝し、キリストの福音を信じ、「キリストの奥義」を受け取ろうではありませんか。

 三、伝えるべき奥義

 「キリストの奥義」を受けた私たちは、次には、それをさらに深く理解できるように求めなくてはなりません。コロサイ2:2に「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」ということばがあります。これは、パウロのミニストリーのゴールを言い表したものですが、「神の奥義」であるキリストをさらに深く知ることは、すべてのクリスチャンのゴールでもなければなりません。テモテ第一3:9に「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人」とあります。これは執事のことを指していますが、すべてのクリスチャンが「信仰の奥義」を保っていなければならないのであって、執事はなおのことだというのです。あなたは、「神の奥義」「信仰の奥義」を、さらに知りたいと願っていますか。日本にいる私の友人は、私が長くアメリカにいますので、さぞかし英語が上達しただろうと誤解しているのですが、実はそうではありません。ある程度英語がわかって不便がなくなると、それ以上英語を勉強しようとしていないことに、このごろ気がついて、反省しています。みなさんはいかがですか。聖書を学ぶ場合も、ある程度の知識が蓄えられてしまうと、聖書が分かったつもりになってしまい、さらに深く学ぼうとする努力を怠ってしまうことがありませんか。そうにならないよう、もっと神のことばを愛し、さらに「奥義」を尋ね求める心を持ちましょう。「キリストの奥義」は信じる者には誰にでもはっきりと理解できるものですが、だからといって薄っぺらいもの、底の浅いものではありません。それは求めれば求めるほど、さらに豊かなものになっていく奥深いものなのです。

 そして、この奥義を人々に伝えることができるよう祈りましょう。使徒パウロはコロサイのクリスチャンに「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」(コロサイ4:3-4)とお願いしています。コロサイ人への手紙で、パウロは「この奥義のために、私は牢に入れられています。」と言っていますが、エペソ人への手紙でも、「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった」と言っています。パウロは、なぜ牢につながれたのでしょうか。それは、「キリストの奥義」を宣べ伝えたからです。「異邦人のために…囚人となった」というのは、パウロが異邦人伝道で成果をあげたことから、それを好まないユダヤ人の陰謀によってローマ総督に引き渡されたからです。「キリストの奥義」を知らされたパウロは、たとえ、そこに反対があっても、迫害や投獄が待っていても、ひるまず、それを宣べ伝えました。「キリストの奥義」によって「ユダヤ人も異邦人もキリストにあって一つである。」と知らされた時、パウロはユダヤ人の反発を恐れずにそれを宣べ伝えました。そのために獄につながれても、なお「私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。…私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」と言っているのです。私たちはどうでしょうか。「キリストの奥義」を知らされた私たちは、それを受け入れ、それに感謝するだけで終わらず、この「奥義」を、「奥義」であるキリストを伝えるために祈り、励んでいるでしょうか。

 ジャン・カルヴァンは、パリで古典文学の研究者としてデビューしましたが、宗教改革に触れ、プロテスタントの信仰を持つようになりました。パリ大学総長のために福音的な講演の原稿を書いたというので、パリから追われ、スイスのバーゼルに行きました。カルヴァンはバーゼルで『キリスト教綱要』を書きましたが、それが出版されないうちにバーゼルを去ってフランスに戻り、もういちどバーゼルに行こうとしたのですが、この旅行の途中、その地域で戦争があって、回り道をすることになり、行く予定のなかったジュネーブの町で一夜を過ごすことになりました。その時、ジュネーブの町に、カルヴァンを『キリスト教綱要』の著者と知る人がいて、その人はジュネーブの教会を指導していたファレルにそのことを知らせました。ファレルは、カルヴァンをその宿に訪ね、この町にとどまってくれるよう頼みました。繊細で年若いカルヴァンは改革者になるつもりなど毛頭もなく、自分はこれから古典文学の研究を続けていきたいと断ります。それでもファレルはカルヴァンに懇願し、カルヴァンは、自分にかまわないでくれと哀願します。そのようなことが何度も繰り返された後でファレルは全身を打ち震わせながら、雷の鳴りとどろくような声でカルヴァンに向かって言いました。「全能の神のみ名によって、おまえに宣告する。もしおまえがわれらと共にこの地にいて、この聖なる神のみわざに専念するのを拒むようならば、神がおまえをのろうだろう。おまえはキリストより自分を大切にしているからだ。」カルヴァンはこのファレルの「脅迫」のようなことばによって、ジュネーブの改革者としての道を歩みはじめました。カルヴァンは「キリストの奥義」を知り、深く理解した人でしたが、それだけで終わらず、使徒パウロに劣らないほどの苦難を耐え忍び、「キリストの奥義」を宣べ伝える人となったのです。

 私たちはどうでしょうか。アメリカで福音を伝えることはそんなに困難なことではありません。しかし、それぞれの家庭や職場の状況によっては、キリストを伝えることを躊躇してしまうことがあるかもしれません。福音が躓きになるからといって福音以外のものを代用品として与えてしまうことがあるかもしれません。そうした誘惑に陥ることなく、「キリストの奥義」をしっかりと理解し、「キリストの奥義」に生かされ、「キリストの奥義」のために生きた多くの人々を模範とし、「キリストの奥義」を、大胆に語ることのできる私たちでありたいと心から願います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが知らせてくださった「キリストの奥義」を知り、信じ、理解し、それによって生き、そのために生きる私たちとしてください。「奥義」であるキリストのお名前で祈ります。

4/23/2006