神の作品

エペソ2:8-10

オーディオファイルを再生できません
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 一、信仰といのち

 皆さんは、なぜ、信仰が必要だと思っていますか。また、教会は何のためにあるのでしょうか。信仰というものは、それによって生きがいや心の安らぎを見出すためだと思っている人が多くいますし、「子どもを教会に通わせておけば、道徳を身につけ、間違った方向にいかないだろう。」と考えて、そうしている親たちも多くいます。確かに、多くの人が信仰によって生きがいを見出し、心のやすらぎを体験しています。また、教会が子どもの教育のために果たしている役割はとても大きいものがあります。若者たちに精神的なバックボーンを与えていることは素晴らしいことです。教会は、社会からその役割を期待され、教会もそれにこたえるため、精神的なケアや社会的な活動を発展させてきました。そうしたことは大切で、しなければならないことなのですが、そのことに熱心になるあまり、教会にとって一番大切なこと、教会でなければできないことを忘れてしまってはならないと思います。教会にとって一番大切なこと、教会にしかできないこと、それは、キリストの救いを伝え、キリストを信じる信仰を養うことです。

 では、キリストの救いとは、キリストを信じる信仰とはどういうものなのでしょうか。それは、良い人間になるようにという道徳の教えでも、どうしたら人生に生きがいを見つけることができるかという人生訓でも、心の安らぎを得る方法を示す知恵でもありません。それなりの生きがいや心のやすらぎだけなら、教会でなくても、他のところで得られるかもしれませんし、信仰がなくても道徳的な人も多くいることでしょう。キリストの救いはそれ以上のもの、キリストのいのちを私たちに与えるものなのです。

 聖書は、キリストを信じる以前の私たちは霊的に死んでいたと教えています。死んでいる人に、生きがいを説いても、心のやすらぎを語っても、道徳を教えても意味がありませんね。死んだ人に、知識や財産や名誉を与えても何の役にも立ちません。もし、死んだ人が、何かを話すことができるとしたら、きっと、「そんなものは要らない。いのちが欲しい。」と言うでしょう。同じようように、霊的に死んだ人に必要なのは、霊的ないのちです。神から来る新しいいのちが必要なのです。聖書はそれを「永遠のいのち」と呼んでいます。エペソ2:1-7に教えられているとおり、神は、罪の中に死んでいた私たちを、キリストによって生かしてくださった、永遠のいのちを与えてくださったのです。生まれた時に私たちに与えられた肉体のいのちには限りがあります。肉体のいのちは減っていくいのちです。生まれた時は100パーセント満タンなのですが、70年、80年、90年と使っていくうちにだんだん無くなっていくのです。しかし、霊的ないのちは、減っていくのではなく、増えていき、永遠に続くいのちです。肉体のいのちが終わった後も、永遠のいのちのタンクをたましいに持っている人は、肉体のいのちのタンクが空っぽになっても慌てません。永遠のいのちのタンクに切り替えて、永遠の神の国に生きることができるからです。

 永遠のいのちを受けたばかりの時は、すぐには自分がキリストによって生かされている、永遠のいのちが与えられているということが良く理解できず、体験できないかもしれません。たとえ、それをまだ実感できなかったとしても、それは聖書が教えている素晴らしい事実です。この霊的ないのちを信仰によって養っていくと、それはやがて、私たちのうちに大きくなり、豊かになり、私たちのものの考え方を導き、人格をかたちづくり、生活の中で体験できるほどに成長していきます。

 主イエスは、私たちに、この永遠のいのちを与えるために、私たちのところに来てくださいました。主イエスは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)と言われました。あなたは、主イエスがくださる豊かないのちを体験しているでしょうか。主イエスは、続いて、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われました。主イエスは、私たちを永遠のいのちに生かすために、ご自分のいのちを捨てられたのです。主イエスが十字架で死なれたのは、ご自分のいのちで私たちを生かすためでした。主イエスは、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」と言われました。主イエスは、宗教上のトラブルや政治の駆け引きの犠牲となって死なれたのではありません。主イエスは、罪の中に死んでいる私たちを生かすため、ご自分から進んでそのいのちを投げ出してくださったのです。そればかりでなく、主イエスは、十字架の死から三日目に復活し、今も生きて、私たちにいのちを注ぎ続けてくださっています。主イエスが、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われたように、キリストの救いとは、キリストが私たちをそのいのちで生かしてくださることであり、キリストを信じる信仰とは、私たちを生かしてくださるキリストにつながっていることなのです。

 私は、心臓移植のためにアメリカにおいでになった方を、病院のスタッフの方といっしょに、何人か、お世話させていただいたことがあります。ある方は心臓移植の後、とても状態が悪く、人工心臓をつけたまま特別な部屋におよそ一ヶ月もいたことがあります。その人は、良くなってから「あなたはこの病院で、特別室にいた最長記録を打ち立てた人ですよ。」と冗談を言われたほどでした。特別な許可をもらってその部屋に入りましたが、体中チューブだらけの患者の姿はとても無惨なものでした。しかし、それにつながれている様々な装置が、彼を生かしており、それが一つでも外れるといのちが無くなってしまいます。それは彼が生きるためにはどうしても必要なものでした。私は、その時、信仰とは人工心臓につながっているチューブのようなものなのだと思いました。信仰を通して主イエスから霊的ないのちが注がれ、私たちは生きているのです。主イエスを信じる信仰は、あれば良いがなくてもなんとかやっていけるというものではありません。それは、アクセサリーのようなものではなく、それがなければ生きてはいけない、人工心臓につながったチューブのようなものです。キリストのいのちにつながること、それが信仰です。キリストを信じるみなさんは、信仰をそのようなものとして、確信しているでしょうか。信仰を求めている方々は、そのような信仰を求めておられるでしょうか。信仰とは、キリストのいのちに生かされることであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。おひとりびとりがこの信仰の確信をしっかりと持つことができるよう、こころから祈っています。

 二、信仰と行い

 さて、エペソ2:8-10では、「私たちは神の作品」と言われています。エペソ2:1-7では、キリストの救いが「死からの復活」として描かれていましたが、エペソ1:8-10では、キリストの救いが「神による再創造」として描かれています。神は、最初の人間を「神のかたち」にお造りになりました。神ご自身が、きよく、愛とあわれみに富み、正しく公平で、知恵と力を持っておられるように、人間も、きよさを求め、神と人とを愛し、、神からの知恵と力で、正義が尊ばれる社会を作っていくはずでした。しかし、人間は、罪によって「神のかたち」をそこなってしまい、神とは似ても似つかぬものになってしましました。人間がそこなった「神のかたち」は、すこし手を加えれば元通りになるといった程度のものではなく、根本的に造り変えられる必要がありました。それで、神は、キリストによって、信じる者を新しく造り変えてくださったのです。コリント第二5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。私たちは、キリストを信じた時、神によって新しく造りかえられたのです。それで、「私たちは神の作品」と言われるのです。

 「私たちは神の作品」―とても良い響きのことばですね。「私たちは神の作品」という時、そこにはどんなことが意味されているのでしょうか。数多くの意味があると思いますが、今朝は、このことばに込められた「神の主権」と、「神の愛」と、「神の目的」に目を留めたいと思います。

 第一に、「神の作品」ということばには「神の主権」が表わされています。「作品」ということばは、もとのことばで「ポイエーマ」と言います。ギリシャ語では、何であれ、誰かの働きの結果生み出されたものは「ポイエーマ」と呼ばれました。誰かが家を建てれば、その家は、それを建てた人の「ポイエーマ」です。家の中に備える家具も、それを作った人の「ポイエーマ」と呼ばれました。さまざまな道具も、「ポイエーマ」でした。「私たちは神の作品である」と言われる時、そこで強調されているのは、私たちが、他の誰の働きの結果でもない、神の働きの結果生み出されたものであるということです。神が人間をお造りになろうとした時、人間をどのように造ったら良いかを誰かが神に提案したでしょうか。神が人間を造られた時、誰かがそれに手を貸したでしょうか。聖書は、神がおひとりで、人間をデザインされ、人間を形作り、人間にいのちをお与えになったと教えています。神が「神のかたち」を損なってしまった人間を「再創造」された時も、神ご自身が救いの計画を立て、それを実行し、それを私たちに与えてくださっています。それはエペソ1章ですでに学んだとおりです。私たちは、自分を鍛錬して立派な人間になったから、私たちが良い行いをして神を喜ばせたから、救われたのではありません。エペソ2:8-9に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。」とある通りです。「私たちは神の作品」と言うとき、いちばん強調されなければならないのは、「神の」ということばです。クリスチャンとなって新しくなった自分、それは、決して自分が作り出したものではありません。罪の中にあった時の私は、自分の罪によって形作ってきた自分の作品かもしれませんが、キリストにある私は、神が恵みによって造ってくださった「神の作品」なのです。

 「神の作品」ということばには、第二に、「神の愛」が表わされています。「ポイエーマ」(作品)というのは、どんなものでも、誰かが作ったものを呼ぶことばですが、それはやがて、芸術作品をさすのに使われるようになりました。画家が描いた絵は「ポイエーマ」、彫刻家が刻んだ彫刻も「ポイエーマ」です。文学作品も「ポイエーマ」と呼ばれました。英語の「ポエム」は、ギリシャ語の「ポイエーマ」から出たことばです。家でも、家具でも、そこには、それを作った人の愛情が込められていますが、芸術作品の場合はもっと、作者の愛が込められています。家や家具、また道具は、それを売ったり、使ったりするために作られますが、芸術作品は、本来は、売るためでも、生活を便利にするためにでもなく、それを自分の傍において楽しんだり、誰か他の人に楽しんでもらうために作られます。芸術作品には作者のいつくしみの気持ちが注がれます。私たちが「神の作品」であるというのは、神が私たちを神の愛の対象として、喜び、いつくしんでくださるものとして作られたという意味があります。私の愛用している New Living Translation では「神の作品」というところを "God's masterpiece" と訳しています。私たちはたんなる "product"(製品)ではなく、神が愛をもって、心を込めて造ってくださった "masterpiece"(芸術作品)なのです。

 第三に、「神の作品」ということばには「神の目的」が示されています。神が何かをなさる時に、目的なしになさることはありません。神は、目的をもって人間をお造り、人間に生きる目的をお与えになりました。神が、私たちを再創造された時も、目的をもってそうされ、「神の作品」として造られた私たちに、人生の目的をお与えになりました。エペソ2:10に「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあるとおりです。ここには、神が備えられた良い行いに歩むことが、私たちの目的であると言われています。私たちは「行い」によって救われたのではありません。どんな行いも私たちを救うことはできません。しかし、救われた者は「良い行い」に歩みます。行いからは「救い」は出てきませんが、「救い」からは「良い行い」が生まれてくるのです。

 では、「良い行い」とは何でしょうか。聖書はわざわざ「良い」という言葉をつけて、「行い」と「良い行い」とを区別しています。聖書で「行い」という場合、それは「律法の行い」を意味します。ユダヤの人々は、聖書からさまざまな宗教や道徳の規定を作りだし、それを寸分違わず守れば、救われると信じました。人々は、年に三度のお祭に参加し、安息日に礼拝をし、一週に二度断食し、十分の一を捧げ、食べてよいものとよくないものを厳密に区別する生活を守ってきました。その努力は、素晴らしいものでしたが、やがて人々は、自分の努力によって自分を救おうとし、神に頼ることを忘れてしまったのです。私たち異邦人は「律法」を知りませんでしたが、そのかわりに、それぞれの文化、伝統、慣習、道徳を守ろうとしてきました。しかし、その動機は、ユダヤの人々と同じように、自分の行いによって自分を救おうとするものでした。慣習を守っていれば、自分が非難されることはありませんし、人に親切にすれば、自分も報われる時があるだろうというのがその動機でした。結局のところは、自分のための行いに励んでいたのです。しかし、救われた者から出てくる「良い行い」は、自分のためにするものではなく、神のためにするものです。救われるために行なうものでなく、救われた感謝として行なうものです。もしかしたら、それは、救われる前にしていたのと同じことかもしれません。しかし、していることが全く同じだったとしても、救われた者は、それを全く新しい動機で行なうのです。

 エペソ4章以降を読みますと、神が私たちに備えてくださった「良い行い」の数々が具体的に教えられています。そこはやがて学ぶことにしますが、エペソ4:1には、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」とあります。エペソ2:10に「良い行いに歩む」というのと、同じ言葉が使われています。「歩む」という言葉は、聖書では「日常の生活をする」という意味で使われています。神が私たちのために備えておられる「良い行い」というのは、何か特別な「善行」のことではなく、神に信頼し、神を愛し、神のためにする日々の生活のことなのです。私たちは、かつては、この世の流れて従って流される生活をしていました。私たちはそこから、神が、この道を歩むようにと備えてくださった道に、信仰によって歩むようになったのです。

 神は、目的をもって私たちを造り、「神の作品」としてくださいました。私たちは、神が私たちを新しく造ってくださったその目的をもっと深く知り、キリストのいのちによって、その目的に生きていく者となれるよう、なおも、祈り求めていこうではありませんか。

 (祈り)

 すべてのものをみこころのままに創造された父なる神さま、あなたは、私たちをも、キリストのいのちによって生かし、私たちをあなたの作品として新しく造り出してくださいました。あなたに造られたものとして、あなたの目的にかなった生活を送ることができますように、そして、そのことによってあなたの栄光を、あなたの愛を表わすことができるように導いてください。自分の力では、決してあなたのために生きることはできません。あなたが与えてくださったキリストのいのちによって生きるものとしてください。私たちが自ら行なう「行い」は、あなたに喜んでいただけるものではありません。あなたたが備えてくださっている「良い行い」を信仰によって見出すことができるよう、助けてください。私たちのいのちの主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/12/2006