クリスチャンの過去と現在

エペソ2:1-7

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2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、—あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。—
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

 「使用前」と「使用後」という写真が二つ並んでいる広告が良くあります。たいていはダイエット食品や、美容用の薬品の宣伝なのですが、「これを飲んだら、こんなにスタイルが良くなりました。」「これつけたら、こんなに肌がつややかになりました。」「これを使ったら、こんなに髪の毛がふさふさしてきました。」などというのです。そうした食品や薬品の宣伝には、それを使って効果があった人の Testimony とともに「使用前」と「使用後」という写真が載っています。文字で読むよりも写真で見るほうが分かりやすく、「なるほど」と思ってしまいます。

 これは、伝道にとっても同じことです。牧師や伝道者がキリストが救い主であることを宣べ伝えるのですが、それと共にキリストを救い主と信じた者たちが、その救いの素晴らしさをあかしする時、人々は救い主キリストをさらに身近に感じるのです。リック・ウォレン先生は、「サドルバック教会では、特別な伝道集会よりも、ふだんの礼拝で語られる Testimony が人々の心に届き、救われる人が起こされている。」と言っています。彼は"Purpose Driven Life" で Testimony を「ライフ・ストーリ」と呼び、すべてのクリスチャンがそれを書くように教えていましたね。救い主はおひとり、救いもひとつです。しかし、救いに至る体験は、ひとりびとり違います。ある人のストーリはとてもドラマチィックかもしれませんが、ほかの人のストーリはとてもシンプルなものかもしれません。違っていていいのです。それぞれに違うからこそ、人々は自分の体験と似たストーリを聞き、それに共鳴するのです。昨年の「目的の四十日」の間、「ライフ・ストーリ」を書くことになっていましたが、みなさんは、もうそのことをしましたか。もし、まだでしたら、3月1日からはじまるレントの四十日の期間にあなたの「ライフ・ストーリ」、つまり、救いのあかしを用意してください。機会のあるごとに、礼拝で救いのあかしが語られたら、それが、どんなにか神を賛美することになり、また、人々への伝道に役立つことでしょうか。2009年、あと3年で、サンタクララ教会は合併後40周年を迎えます。その時、メンバーの救いのあかしを出版したいと思っています。記念文集として戸棚にしまっておくようなものではなく、実際の伝道に用いられるものを作りたいと願っています。全員のあかしが載るように、準備をお願いいたします。

 救いのあかしや、救いのあかしを語るクリスチャンそのものが、キリストによって変えられた人生を人々に見せるのです。それは、食品や薬品の「使用前」「使用後」の写真よりも、説得力があります。なぜなら、クリスチャンの過去と現在では、比べものにならないほどの大きな変化があるからです。たとえ、表面的な変化はなくても、その人の内面や価値観、人生観、生きる姿勢は根本的に変わっているのです。神を信じて生きることと、神を知らないで生きることは大きく違うのです。今朝の聖書には、クリスチャンの過去と現在の大きな変化が、見事に、くっきりと描かれています。

 一、クリスチャンの過去

 エペソ2:1-3には、クリスチャンの過去について、こう書かれています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」キリストを信じるまで、私たちは四つのものに縛られていたとあります。「罪」と、「この世」と、「サタン」、そして、「肉の欲」です。これをひとことで言えば、キリストを信じるまでは、私たちは霊的に「死んでいた」のです。死んだ人にいくら話しかけても返事をしてくれませんし、どんなに体をゆすってみても反応してくれません。そのように霊的に死んだ人、神に対して死んでいる人は、たとえ目の前で神のみわざが行われてもそれを見ることができず、神のことばが耳元で語られても、それを聞くことができないのです。主イエスの時代の、律法学者やパリサイ人と言われる人たちがそうでした。彼らはじかに主イエスの教えを聞いたのに、それを聞き入れず、主イエスに「しるしを見せろ。そうしたら信じてやろう。」と奇蹟を要求しました。主イエスが奇蹟を行うと、「彼は悪霊の力によって悪霊を追い出しているのだ。」と非難しました。主イエスに逆らった律法学者、パリサイ人はまさに霊的に死んだ人々を代表するものでした。

 「律法学者」と言えば、聖書を書き写したり、それを研究したりする人々のことです。彼らは毎日聖書を読んでいるのに、神のおこころが分からないとは、どういうことなのでしょうか。霊的に死んでいたからです。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、「聖書は私たちが神を見ることが出来るようにと、神が与えてくださった眼鏡である。しかし、悲しいことに、人間は盲目であるので、いくら眼鏡を与えられても、それによって神を知ることができないでいる。」と言っています。霊的に死んでいる人には、宗教の「神」は分かっても、生きておられる神を知ることがないのです。

 神が分からなければ、人生の意味も、目的もわかりません。クリスチャンになる前、自分は何をしていいのか分からない、何のために生きるのか分からないで、何をする気力もなく、無駄に日々を過ごしていたという人も多いのではないでしょうか。ある二十代の青年は「神を信じなかった時、私の心には快活さなど全くなく、まるで老人のようでした。」と言っていましたが、たとえ五体満足でも、まるで「生ける屍」のようになっている人、霊的に死んでいる人がなんと多いことでしょうか。

 では、体力も、気力も、能力もあって、休む間もなく活動している人は、霊的に死んでいないのでしょうか。決してそうではありません。さきほど、主イエスの時代の律法学者、パリサイ人は霊的に死んだ人々のサンプルだと言いましたが、主イエスの時代の律法学者、パリサイ人は、実に、積極的で、行動的でした。エッセネ派は荒野で隠遁生活をし、サドカイ派はエルサレムの神殿を守るのが精一杯でしたが、パリサイ派は、民衆を教え、もめ事を解決し、律法にかなった食事の指導までしていました。ユダヤの国だけでなく、アジアに、アフリカに、エジプトに、そしてヨーロッパにまでも出かけて行って、ユダヤ教への改宗者を得ていたのです。彼らはあらゆることにおいて活発で精力的でした。しかし、そのしていることは「的はずれ」であり、神のみこころから逸脱した「行き過ぎたもの」だったのです。

 1節に「罪過と罪との中に死んでいた」と、罪を表わすことばが二つ使われています。「罪」(ハマルティア)というのが「的はずれ」を意味し、「罪過」(パラプトーマ)というのが「行き過ぎ」を意味します。「的外れの罪」(ハマルティア)は、交通規則も何も無視して道路を逆に走ったり、横断したりする車のようなものです。その結果、必ず他の車とぶつかってしまいます。また、「行き過ぎの罪」(パラプトーマ)はむちゃくちゃなスピードでぶっ飛ばし、ブレーキが効かなくなっている車のようなものです。こういう車もまた、道路から飛び出してとんでもない事故を引き起こしてしまいます。霊的に死んだ人は、一所懸命であっても間違ったことをしていることに気がつかないのです。人のためにやっているのだと信じてはいても、それが自己中心になっていることが分からないのです。

 私たちは「自分の罪に死んで」いただけでなく、「この世の流れ」に流されていました。自分では自由にふるまっているとは思っていても、自分の判断、決断、選択によってではなく、まわりに流され、ふりまわされていたのです。私は、「この世の流れに従い」ということばを読むたびに、羽鳥 明先生が話したことを思い出します。「山から木を切り出すと、それを川に流します。切り倒された丸太は、あっちゴロン、こっちにゴロンと川の流れに流されていくだけです。けれども、川に住む魚は、流れにさからってスイ、スイと泳いでいきます。ここに命のあるものと、命のないものとの対比が見られます。」というお話でした。「丸太はゴロン、ゴロン。魚はスイ、スイ。」ということばが印象的で、今でも覚えています。霊的に死んだ人は、その時代のものの考え方や流行にだだ流され、踊らされているだけなのです。

 そして、「この世の流れ」を操作しているのが「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれているサタンなのです。サタンは「神の敵」という意味で、悪魔とも呼ばれ、「この世の神」として、この世の思想、文化、社会に影響を与え、それを神から引き離そうとしているのです。多くの人は「悪」(Evil)は認めますが「悪魔」(Devil)は認めようとしませんが、実は、人々に「悪魔なんていないのだ。」と思わせることが悪魔の策略のひとつなのです。サタンは現代人に、いっさいの霊的なものを否定させ、神への信仰をも否定させようとしているのです。「神に頼るとか神に従うなどというのは、前近代的なものの考え方で、成熟した社会では、人間は自分の知恵と知識、能力と努力でものごとを達成していくのだ。それこそが人間の自由と独立なのだ。」という考えをこの時代にうえつけ、人々を神から引き離そうとしているのです。人は神から独立して自由になるのではありません。サタンの奴隷になるだけです。サタンは言葉巧みに、私たちを誘いますが、それは、私たちに自由を与えるためではなく、私たちを奴隷にするためなのです。

 キリストを信じる以前、私たちは、罪の中に死に、この世の流れに流され、サタンの奴隷でした。さらに、3節にあるように、「肉の欲」に動かされていました。聖書が言う「肉」とは、人間の罪深い性質のことです。ガラテヤ5:19-21に「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」と書かれています。神の国、天国には罪がありません。ですから、罪の性質が神の国、天国を相続することはありえないのです。私たちには、神を愛し、神を喜び、神に従うことのできる新しい性質が必要なのであって、古い性質にどんなに磨きをかけても、それで救われるのではないのです。私たちの罪の性質、「肉」は霊的な祝福を受け継ぐことができないばかりか、その上に神の怒りがくだるのです。3節の最後に、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とありますが、これが、まさに、私たちの過去の姿でした。

 二、クリスチャンの現在

 1-3節は、私たちの過去の姿を描いていましたが、4節からはクリスチャンの現在の姿が描かれています。私たちは、かつては罪の中に死んでいた者であったのに、今は永遠のいのちに生かされています。かつてはこの世の流れに流されていた者であったのに、今は、神のことばによって導かれています。かつては、サタンの虜になっていた者なのに、今は神の子どもとされています。かつては肉の欲の中に生きていた者であったのに、今は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ2:21-22)という御霊の実を結ぶものとされています。

 どうにしてこのような変化が起こったのでしょうか。答えは、「キリストにあって」(In Christ)です。キリストは十字架で死なれました。私たちの罪をその身に背負い、私たちが受けなければならない罪の刑罰を引き受けてくださるためでした。「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(3節)であった私たちにかわって、キリストがその刑罰を引き受けてくださったのです。キリストは十字架の上で私たちの罪のための償いの一切を成し遂げて息を引き取られましたが、それから三日して、死を打ち破り、復活してくださいました。復活の後、40日の間、キリストはご自分の生きておられることを弟子たちに示し、それから天にのぼり、父なる神の右の座に着かれました。このキリストの復活と昇天も、私たちのためのものだったのです。聖書は「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:5-6)と教えています。かつては罪の中に死んでいた者が、今は、キリストとともに復活しているのです。かつては、この世とその時代に流されていた者が、今はそこから引き上げられ、キリストとともに天の座に着いているのです。かつてはサタンが私たちを支配してたとしても、今は、どんなものにも支配されることも、脅かされることもない天に私たちの命と、立場と、身分と、特権とを、キリストにあって、持っているのです。「キリストの十字架が私の罪のためだった。キリストは私を救うために復活された。」ということは、クリスチャンなら誰もが認め、信じ、感謝していることです。しかし、「私はキリストとともに復活し、天に帰り、天の座に着いている。」ということを理解しているクリスチャンは多くはないと思います。復活し、天に昇り、父なる神の右の座におられる栄光のイエス・キリストを礼拝している私たちは、この主イエスを信仰によって仰ぎ見るたびに、このイエス・キリストによって、今持っている命、立場、身分、特権を確信し、それを感謝していこうではありませんか。

 使徒パウロは、1-2節では「あなたがたは…」と言いましたが、3節では「私たちもみな…」と言い替えています。パウロはここで、「じつは、私も、罪の中に死んでいた者、この世の流れに流され、サタンの奴隷で、罪深い性質によって動かされていたのです。」と告白しているのです。パウロの経歴を知る人は、ここに彼自身のあかしがあることにすぐ気がつくことでしょう。パウロは「パリサイ人」のひとりでした。彼は、キリストを信じる者たちを撲滅することが神に喜ばれることであると信じ、クリスチャン迫害の先頭に立って働いていました。その時のパウロは、サタンに捕われ、クリスチャンに対する「敵意、争い、そねみ、憤り」という罪深い性質によって行動していたのです。パウロは、ユダヤにいるクリスチャンを捕まえては鞭打ち、牢に閉じ込めていましたが、それだけでは物足りず、遠くダマスコにまで行って、そこのクリスチャンを迫害しようとしました。

 そのようなパウロに、キリストが現われてくださったのです。パウロは栄光のキリストを見た時、目が見えなくなってしまいました。パウロは、当時のユダヤ教の最高の教師ガマリエルの門下生で、その中でも博学で有名でしたが、彼は、この時、今までの自分が霊的には盲目であった、自分の宗教には熱心であったが、神とキリストのことを何も知ってはいなかったということに気づかされたのです。目が開いている時は何も見えていなかった彼が、目が見えなくなってはじめて自分の姿を、そして、生きておられる神と主イエス・キリストを見ることができるようになったというのは、なんとも皮肉なことですが、私たちも、「自分は見えている。」という時には自分の姿が分からず、「自分は知っている。」と言う時には、真理を理解していませんでしたね。私たちは、パウロのように、栄光の主イエス・キリストのもとにひれ伏し、そこからこのお方を仰ぐ時、はじめて、真理を知り、キリストにある自分を知ることができるのです。

 パウロは「私たちも…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」と言っていますが、パウロほど、自分の罪を深く自覚していた人はいませんでした。パウロはテモテへの手紙の中で「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。…私は…罪人のかしらです。」(テモテ第一1:13-15)と言っています。それだけに、彼は、自分に与えられた神のあわれみ、愛、恵み、慈愛を良く知っていました。それで、パウロはエペソ2:4で「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」と言って、神のあわれみ、愛に感謝しています。2:7では「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」と言って、神の恵みの富について触れています。神の恵みの富は、「すぐれて豊かなもの」です。ここで使われている「豊かなもの」という言葉は、1:7で「豊かな恵み」、1:18で「栄光に富んだもの」、3:8で「測りがたい富」、3:16で「栄光の豊かさ」と訳されているのと同じ言葉です。神が持っておられる富は、すこしばかり豊かである、ある程度大きいという、人間の尺度で測ることができるような中途半端なものではありません。それは無限のもの、無尽蔵なものです。神の無限の愛、恵み、あわれみが、罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かし、私たちに大きな変化をもたらしたのです。私たちも、パウロがしたように、自分の過去と、現在とを比べる時、この神の大きな愛、恵み、あわれみによって救われ、変えられていることを思い、神をほめたたえ、神の救いをあかししていく者でありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、聖書の中に、あなたから離れ、罪の中にあった過去の私たちの姿と、今、キリストにある私たちの姿とを示してくださいました。それによって、私たちを、キリストによって与えられている、あなたとの新しい関係に生きるようにと招いてくださっています。その招きにこたえ、あなたの恵みとあわれみの豊かな富をほめたたえる私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/26/2006