キリストにあって一つ

エペソ1:7-12

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1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
1:8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
1:11 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

 一、三位一体の神

 エペソ1:3-14は三つに区分することができます。最初は3-6節で、そこには、父なる神が私たちを救うためにしてくださったことが書かれています。次は、7-12節で、ここには主イエス・キリストが、私たちの救いのためにしてくださったことが書かれています。最後は、13-14節で、そこには、聖霊なる神が、私たちの救いのためにしてくださったことが書かれています。神は、唯一のお方ですが、同時に、父、御子、御霊の三位の神です。父も、御子も、御霊も、ともに等しい栄光を持っておられ、ともに神として礼拝されるお方です。

 エペソ1:3-14を三つに区分しましたが、この三つの区分の最後、6節、12節、14節のそれぞれが「神の栄光がほめたたえられるため」ということばで終わっています。ここは英語の聖書が "to the praise of His glory" と訳しているように、「神の栄光」というよりは、「彼の栄光」と言うほうが良いでしょう。ですから、6節の「彼」は父なる神、12節の「彼」は主イエス・キリスト、14節の「彼」は聖霊を指していると考えることができます。父なる神の栄光も、主イエスの栄光も、聖霊の栄光も、等しくほめたたえられるのです。父も、御子も、御霊も、私たちが礼拝をささげるべき神です。神はおひとりであり、同時に三位である、三位でありながら、同時におひとりであるということ、つまり、「三位一体の神」がここに教えられているのです。

 エペソ1:3-14は、日本語では、いくつかの文章に区切って訳されていますが、もとのギリシャ語では、二百以上の単語からなる、切れ目のない一つの長い文章になっています。使徒パウロは1:3で「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」と語り出しましたが、父なる神について思い、主イエス・キリストのお名前を口にした時、賛美と感謝とがパウロの心から次々と出てきて、こうした切れ目のない文章になったのだろうと思います。三位一体の神を教えているエペソ1:13-14が、一つの文章でありながら、その中にはっきりとした三つの区分があるということはなかなか興味深いことだと思いませんか。父、御子、御霊の神を描いている部分が切れ目のない一つの文章で書かれているというのは、偶然ではないと思います。神は、「三位一体」をこうした文章の形式を通しても、私たちに教えようとされたのではないかと思います。

 私が良く受ける質問のひとつは、「三位一体」についてです。「神がおひとりなのに三位であり、三位であるのにおひとりというのは、どうもよく分からない。」と、良く言われます。私はそのたびに、「分からないのが当たり前ですよ。神は、人間の知恵をはるかに超えたお方なのですから、私たちは、神の存在について知り尽くすことはできないのです。」と、お答えしています。もし、私たちが神を完全に理解し、定義し、分析することができるとしたら、その神は、ほんとうの神ではなく、人間が造り出した神、つまり、神話に登場する神々や哲学上の概念としての神などに過ぎません。三位一体の神は、決して哲学や論理でとらえることはできません。聖書は、三位一体の神を哲学や論理で示してはいません。三位一体の神は、いつでも、人間の救いとの関わりの中で示されています。エペソ1:3-14でも、論理として三位一体の神が描かれているのでなく、父なる神が救いを計画し、主イエス・キリストがそれを成就し、聖霊の神が私たちに救いをもたらしてくださったと書かれています。人間は、父なる神の愛のみこころに素直に従うほど、純粋ではありません。神の愛の呼びかけにさえ、顔を背け、耳をふさぐほど、ひねくれた存在です。人間は、罪深く、その罪から救われるためには、神の御子が人間となってこの地上に来られ、苦しみの果てに命を捨てなければなりませんでした。人間は、神に逆らう時には、頑固で強いのですが、神に従うことにおいては、軟弱で無力なのです。人は、キリストを信じ、神に従うことにおいては、聖霊の助け無しには何もできないのです。人間は、まことに救われがたい存在であって、父なる神と主イエス・キリスト、そして聖霊の神が、言うならば、総がかり、三人がかりで、救ってくださらなければならなかったのです。神が三位一体の神でなければ、私たちは救われなかったし、三位一体の神を信じることなしに、私たちは救われることはなかったのです。自分の罪深さを知り、真実に、神の救いを求める人は、かならず、父、御子、御霊の三位の神に出会います。父、御子、御霊の神の救いを受けた者は、神が三位一体であることを、哲学や論理ではなく、救いの体験の中で、矛盾なく心に受け入れることができるのです。

 あなたは、神を、どのようなお方として、知り、信じていますか。私たちの限られた知恵、知識で、自分の理論だけで神を知ろう、神を理解しようとしてはいませんか。無意識かもしれませんが、私たちの側で、神とはこういうお方だ、こういうお方であるべきだと、神を自分で作った枠の中にはめ込んでいないでしょうか。もし、そうなら、ほんとうの意味で神を知ることはできないでしょう。神の前に謙虚になって、「私も救われなければならない。」と認める人に、また、素直な心で「私も救われたい。」と願う者に、神はご自分を示してくださるのです。おひとりびとりが、神の救いを受け入れ、「私の父」、「私の救い主」、また、「私の助け主」として、父、御子、御霊の神を知ることができるよう、心から祈っています。

 二、御子の働き

 さて、先週は、最初は3-6節から、父なる神が、私たちの救いのためにしてくださったことを学びました。その部分の鍵の言葉は、"Adoption"(子とすること)でした。神からさまよい出、もはや神の子どもではなくなっていた者たちを、神はご自分の養子、養女としてアダプトしてくださったのです。3節に「イエス・キリストの父なる神」とあるように、イエス・キリストだけがほんとうの神の御子であり、神は、本来は「イエス・キリストの父なる神」であって、私たちは、「イエス・キリストの父なる神」とは、縁もゆかりも無い者たちだったのに、神は、そんな私たちを神の子どもとしてくださいました。「イエス・キリストの父」であるお方が「私たちの父」ともなってくださったのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか。それを説明しているのが、7-12節です。3-6節は "Adaption" が中心のテーマでしたが、ここは、"Redemption"(あがない)が主題になっています。

 「贖い」という言葉は、今では教会でしか使われない言葉で、他に何か良い言葉がないだろうかと考えてみるのですが、なかなか見つけることができません。「贖い」という言葉には、豊かな意味があって、他の言葉に置き換えてしまうと、その豊かな意味が消えてしまうのです。どの分野でも、その分野の言葉があります。医学には医学の用語があり、コンピュータにはコンピュータの用語があります。私は、ドクターに会うたびに新しい医学用語を習い、コンピュータを使うたびに新しい用語を覚えていきます。そのように、聖書を学ぶ人は、いくつかの聖書に独特な言葉は、ぜひとも習い覚えていただきたいと思っています。今日は、「贖い」という言葉が意味している豊かな内容のすべてをお話しすることはできませんが、そのいくつかを学んでおきましょう。

 「贖い」は第一に、「罪の赦し」をもたらすものです。7節に「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」とある通りです。罪ある人間は、そのままでは、聖い神に近づくことはできません。罪がどこかで解決されていなければなりません。しかし、人間が自分の力で自分の罪を帳消しにすることができるでしょうか。決してできません。だからこそ、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、そこで血を流してくださったのです。罪の赦し、罪からのきよめは、7節に「御子の血による贖い」と言われているように、イエス・キリストが十字架の上で血潮を流されたことによってのみ勝ち取られるものです。もし、私たちがすこしばかりの断食、ささげもの、善行によって罪の赦しを得ようとするなら、それこそが、神を悲しませることになるでしょう。聖書は「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるあんら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:7-9)と、キリストの血が私たちをきよめると教えています。「御子の血による贖い」が罪の赦しをもたらすのです。

 「贖い」という言葉には、第二に、「解放」という意味があります。古代の世界には奴隷があって、彼らは主人の所有物と見なされました。しかし、奴隷も「贖い金」を払えば、奴隷の束縛から解放されました。初代教会では、奴隷を持っている主人には奴隷を解放するように指導していましたし、クリスチャンになった奴隷を解放するための「贖い金」を、教会で積み立てていたという記録も残っています。聖書は「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」と教えていますが、イエス・キリストは、ご自分の命を、いわば「贖い金」として、差し出すことによって、私たちを罪の奴隷から解放してくださったのです。C.S.ルイスの『ナルニア国物語―ライオンと魔女』は、皆さんが本で読んだり、映画でご覧になったと思いますが、魔女の捕虜となった少年エドモントのために、ナルニアの王アスランが身代わりとなって命をささげる場面がありましたね。この物語では、エドモントが罪を犯した人間を、アスランがイエス・キリストを表わしています。キリストは、ご自分の命をささげて、罪の奴隷であった私たちを、その束縛から解放してくださったのです。イエス・キリストによって、私たちはほんとうの自由を得ることができるのです。

 贖いという言葉には、第三に、「一つにする」という意味があります。神が、この世界を造られた時、神は、ご自分の造られたものを見て「よし」とされました。創世記には、「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。」(創世記1:3-4)とあり、それに続いて、陸と海を造られた時も、植物を造られた時も、また、天体を造られた時も、さまざまな動物を造られた時も、それぞれ「神は見て、それをよしとされた。」と書かれています。神は最後に人間を造り、この世界の全てが完成しました。聖書は、神の創造のわざを、「そのようにして神はお造りなったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)ということばで結んでいます。このように、神が造られた最初の世界には、すべてのものに一致と調和がありました。神と人とはひとつでした。神は人に語りかけ、人も神と語り合いました。アダムとエバは身も心もひとつでした。自然は人に優しく、人も自然に優しくありました。人と人はひとつ、自然と人もひとつでした。ところが、人が神に背き、神から離れた時、アダムとエバは互いに相手を非難し、自分の罪を他のせいにしました。アダムとエバの子、カインは兄弟をねたみ、そのねたみのために兄弟を殺してしまいました。人は自然を痛めつけ、自然もまた人間に牙をむくようになりました。こうした神と人との分離、人と人との分裂、自然と人との不調和をいやし、もう一度もとに戻すのが、キリストの「贖い」です。私たちは、キリストによって神に帰ることができ、キリストによって一つになる、つまりもとの調和にもどることができるのです。ローマ8:21-23に「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。…私たち自身も、…私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」と書かれています。キリストはやがて、造られたものすべてに、回復を与えてくださいます。エペソ1:10に「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる」とあるのは、このことを指しています。これが「贖い」です。「贖い」を表わす英語には "Redemption" のほかに "Atonement" という言葉もあります。これは、"At-one-ment" とある通り、キリストにあって、すべてのものが、いやされ、回復し、調和と平和を得ることを表わしています。私たちは、罪のために、自分を傷つけ、人を傷つけ、そして、なによりも、神の栄光を傷つけてきました。罪が赦され、罪から解放されるだけでなく、罪の傷からのいやしと回復とが私たちには必要です。そしてそれを与えるのが「御子の血による贖い」です。神は、イエス・キリストによって私たちに必要なすべてを備えてくださいました。イエス・キリストの救い以上の救いが、この世にあるでしょうか。この救いを受け入れ、救いの喜びの中にしっかりととどまっていようではありませんか。

 サンロレンゾ教会のクラーク桂子さんのことは、皆さんもよくご存知ですね。彼女は、戦後すぐ、日本でアメリカ兵と日本人女性の間に生まれましたが、両親から捨てられ、大変つらい青春時代を過ごしました。そんな中で俳優の森繁久弥さんと出会い、また、アメリカから宣教師としてして来日していたクラーク青年と出会いました。クラークさんと結婚してアメリカに行こうとした時、彼女に戸籍がなく、出国が許されませんでした。森繁さんは、彼女のために役所と掛け合ったのですが、埒があきませんでした。それで、森繁さんは、彼女を自分の養女にし、その戸籍を役所に提出したのです。森繁さんは「桂子はわしの娘だ。どうだ。これで文句があるか。」と役人に言ってやったと、ある雑誌に書いてありました。私たちの父なる神は、イエス・キリストによる完全な救いを備え、その救いによって、私たちを、神の子どもとしてくださいました。神は、私たちに「あなたはわたしの息子、娘だ。」と語りかけてくださるだけでなく、天に向かっても、地に向かっても、全世界、全被造物にたいして、「これは、わたしの子だ。」と宣言してくださるのです。あなたも、キリストの救いを受け、神の子とさせていただきましょう。私たちが「イエス・キリストは主です。」と言い表わす時、神もまた、私たちを「神の子ども」であると宣言してくださるのです。

 すでに、神の子どもとされた者たちは、私たちの新しい身分、新しい立場、新しい性質を、聖書のみことばによって確認しましょう。そして、私たちの救いを備えてくださった父、御子、御霊の神に心からの賛美をささげましょう。私たちは、礼拝の最後に、「頌栄」と呼ばれる短い賛美を歌っています。今日も、これから、「父、御子、みたまの、おおみかみに、ときわにたえせず、みさかえあれ」と歌いますが、この頌栄は、エペソ1:3-14に基づいているのです。父なる神、主イエス・キリスト、そして聖霊がしてくださったこの偉大な救いをさらに深く理解し、感謝し、父、御子、御霊の神への信仰を言い表わし、神をまごころから賛美しようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝も、私たちを子どもとして迎えてくださる、あなたの愛を知らせてくださりありがとうございました。あなたは、その大きな愛によって、主イエス・キリストの贖いを備えてくださいました。このことを知って、私たちの心はどんなに賛美と感謝で満ちているでしょうか。私たちは、あなたの計り知れない愛と、キリストの贖いの素晴らしさを知り始めたにすぎません。どうぞ、あなたのみことばにより、あなたの御霊により、さらにあなたの愛を深く知ることができますよう、お助けください。キリストの贖いにより、私たちの心の中にある分裂した思いが一つとなり、あなたと一つとなり、互いが一つとなることができるまでに導いてください。贖い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

1/15/2006