すべての名の上に

エペソ1:20-23

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1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 今年、私たちは「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(コリント人への手紙第一12:27)とのみことばを教会標語にかかげて進んできました。私たちは、こうして教会に来て礼拝をささげ、聖書を学び、さまざまな活動をしているのですが、「教会とは何か」ということを、あらためて問うことはあまりなかったように思います。ある人にとっては、教会は何よりも神とのまじわりの場でしょうが、別の人にとっては、週に一度、親しい人と日本語でおしゃべりするところかもしれません。ある人にとっては、静かに祈る場でしょうが、別の人にとっては、忙しく働く場所かもしれません。教会にはさまざまな面があって、「教会とは何か」ということについて、共通の答えがなくてもいいのではないかという考え方もあるでしょう。しかし、教会がキリストのからだであるなら、それは、ひとつでなければなりません。そして教会がひとつであるなら、教会についてのひとつの理解が必要なのです。

 あれもこれも同時にしたい時、昔の人は「心は二つ、身は一つ」と言いました。今なら「からだがふたつ欲しぐらいだ。」と言うのでしょうが、実際、からだがふたつあったら、とんでもないことになってしまうでしょうね。頭が二つで目が四つ、手足が八本もあるとなると、スパイダーマンに出てくる怪物のようになってしまいます。やはり、ひとりの人にひとつのからだというのが一番美しいようです。ひとりがひとつのからだしか持たないように、キリストも、ひとつのからだ、ひとつの教会しか持っておられません。世界中にさまざまな教会があったとしても、キリストのからだである教会はひとつです。エペソ4:4に「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」とあるとおりです。ですから、私たちは「教会とは何か」ということについて、聖書から共通の理解を確認しながら、ここ、サンタクララバレーにキリストのからだである教会を建てあげていきたいと思います。

 教会がキリストのからだであるなら、キリストは教会のかしらです。からだである教会は、かしらであるキリストとどのような関係を持っているのでしょうか。今朝の箇所から、キリストがどのようなお方であるのか、そしてそのことが教会にとってどんなことを意味しているのかを学びましょう。

 一、キリストは主

 20-21節は、「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」と言っています。これは、言い換えれば、「キリストは主である」ということです。ピリピ2:9-11で「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」と言われているのと、同じですね。キリストは、どんな支配、権威、権力、主権にも屈服されないお方、それらすべてのものの上におられるお方、「主」と呼ばれるお方です。イエス・キリストの名はどんな名の上にもある、最も権威ある名なのです。アメリカでは、それぞれの行政機関が独立してはいますが、それでも、市や町の上には、郡の機関があり、郡の上には、州政府があり、州政府の上には連邦政府があります。連邦政府の中でも、内閣が最高の権限を持っています。内閣には副大統領のディック・チェイニー、国務長官のコリン・パウエル、国防長官のドナルド・ラムズフェルドなどがいて、大きな力を持っていますが、その誰よりも権力があるのが、大統領のジョージ・ブッシュです。アメリカでどんな名前よりも高い名前は「大統領」です。この前の共和党大会にカリフォルニア州知事が大統領選挙の応援にかけつけましたが、知事の方が人気があったとしても、大統領の名は、知事の名の上にあるのです。しかし、イエスが持っておられる「主」という名は、アメリカの大統領をはじめ、どこの国の首相や王にもまさる名です。イエス・キリストは、すべての権力者に勝るお方、王の王、主の主なのです。

 しかも、イエス・キリストが主であるというのは、政治的なものに対してばかりでなく、目に見えない、あらゆる霊的な力に対するものでもあるのです。エペソ2:2に「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。」とあるように、私たちはイエス・キリストを信じるまでは、目に見えないさまざまな力に束縛されていたのです。イエスが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ8:36 新共同訳)と言われたように、自分でも気付かないうちに、罪や悪習慣に縛られ、消極的な考えに捕らえられ、まわりの人々やその意見に引っ張られていたのです。サタンや悪霊については、私たちの理解を超えたものがありますが、聖書は、私たちも、そうした人間の力を超えたものに束縛されていたと教えています。政治的な束縛は人間の外面にしかおよびませんが、霊的な束縛は私たちの内面に及ぶわけで、もっと深刻です。私たちは自由な国に住みその恩恵を受けていますが、たましいの自由を持ってはいませんでした。劣等感、怒り、苦い思い、さまざまな欲望、罪責感、冷たい心、またサタンの力から解放されていなかったのです。しかし、イエス・キリストが、私たちを、罪とそのさばきから解放してくださいました。イエス・キリストは今、私たちのうちに働いて、私たちを罪の性質からきよめてくださり、そして、最後には罪の存在そのものからも解放してくださるのです。イエス・キリストは、目に見える権力だけでなく、目に見えない力に対しても、勝利され、究極の権威を持っておられるお方、「いっさいのものの上に立つかしら」なのです。エペソ1:20に「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ…」とあり、キリストの復活のことが書かれていますが、これは、キリストが私たちの最後の敵である死にさえも打ち勝った、勝利の主であるということを教えています。

 私たちのサンデースクールの部屋には "Jesus is our friend." というバーナーがはってあります。イエスが私たちの友であるというのは、慰めに満ちたステートメントです。「いつくしみ深き友なるイエスは」とか「世には良き友も数あれど」といった聖歌が歌っているように、確かにイエスは、私たちを慰め、励ましてくださる友です。しかし、イエスが私たちの友となって私たちを慰め、励ますことができるのは、イエスがすべてのものの上におられる主であるからです。イエスがすべてのものの上に立っておられる主であることをまず、知り、信じましょう。イエスを単なる慰め、励ましとするだけでは、自分の力の及ばない困難がやってきた時、それを乗り越えることはできません。イエスを主として信じる者は、自分の力の及ばないような困難に直面した時も、勝利の主イエスからの力によってそれに打ち勝つことができるのです。ローマ8:37-39にこうあります。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」イエス・キリストは「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物」に対しても主であるお方です。この確信が、あなたのものになるよう、心から祈ります。

 二、キリストは教会のかしら

 さて、イエス・キリストが、このように、あらゆるものの主であり、いっさいのもののかしらであるなら、教会はこのお方に対してどのような関係を持っているのでしょうか。エペソ2:22は「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」と言っていますが、この言葉は何を意味しているでしょうか。

 それは、第一に、教会がイエス・キリストは主であると告白するところであるということです。教会は「イエス・キリストは主である」と告白する人々の群れです。弟子のペテロがイエスに対して「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16 口語訳)と告白した時、イエスは、「わたしはおまえの上に教会を建てよう。」と言われました。これは、教会が、ペテロと同じように、イエス・キリストを神として、主として信じ、それを言い表わす人々によって建てあげられていくという意味です。

 初代教会は、最初はユダヤの宗教指導者から、後にはローマの権力からの迫害を受けました。当時ローマ皇帝はみずからを神と名乗り、人々に「主」と呼ばせました。そのような中で「イエスは主である。」と告白することはたやすいことではありませんでした。しかし、教会は、イエスを主と告白してバプテスマ(洗礼)を受けた人々によって、建てあげられてきたのです。現代のアメリカでは、初代教会が直面したような迫害はありません。アメリカでは、クリスチャンであることを恥じる必要もありません。しかし、本当にイエス・キリストを自分の人生の主として生きようとすると、何らかの抵抗を感じるようになるでしょう。神のことばよりも、この時代の物の考え方に影響された人々から、「イエスは、われわれの偉大な教師ではあるが、神であり、主であるとは思わない。」と言われたり、「聖書を真面目に信じているなんて時代遅れだ。」などいう暗黙の非難を受けたりするかもしれません。しかし、キリストの教会とそのメンバーは、いつでも、どんな場合でも、イエスこそ主であると告白するのです。イエスが主であるという事実は、時代や状況によって変わるものではないからです。教会は、イエスが主であることを、ことばによって、また行いによって、示し続けていくのです。

 第二に、これは、教会はキリスト以外にかしらを持たないということを意味します。すべての権威、権力にまさるお方が私たちのかしらであるなら、他にどんなかしらが必要でしょうか。教会のかしらは、牧師でも、理事でも、執事でも、また有力な信徒でもありません。牧師、理事、執事たちには、確かに権威や権限が与えられており、リーダーシップが求められます。しかし、彼らもまた主に仕えるしもべたちであり、そのリーダシップは、しもべのリーダシップでなければなりません。ヨハネの手紙第三に「私は教会に対してすこしばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが私たちの言うことを聞き入れません。それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。」(ヨハネ第三9-10)とありますが、昔も今も、かしらになりたい人、また誰か人間をかしらにしないと気が済まない人たちがいるのですね。その人の霊的な資質を問わないで、外面的なものだけで、教会の長老に任命したり、権力ある人を名誉会員にしたりする教会もありますが、教会はこの世の力を借りなければならないほど弱くて小さな存在なのでしょうか。教会のかしらであるキリストは、そんなに無力なのでしょうか。いいえ、聖書は「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」と言っています。

 「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」というのは、どういうことでしょうか。それは、まず神の創造に表われています。創世記によると、神が世界を造られた時、最初に「光とやみ」を、次に「空と海」を、そして「陸地」を造られました。それから神は、「光とやみ」に対して太陽、月、星などを置き、「空と海」に対して鳥と魚を生みだし、「陸地」にはあらゆる動物を住ませ、最後に人間を造られました。これは、神が時間と空間を造り、そこに秩序を与え、また、この地球を命あるもので満たしてくださったことを表わしています。神の創造の素晴らしさは、調べれば調べるほど見事なもので、多くの科学者たちは、世界が神の知恵で満ちていることを見出してきました。私たちの見ているこの世界は、じつに、神が「いっさいのものをいっさいのものによって満たされた」結果です。聖書は「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」(詩篇104:24)と言っています。

 この世界を命で満たしてくださった神は、私たちの人生をも命で満たしてくださいました。キリストを信じるまでは、決して味わうことのなかった、神への感謝、生かされていることの喜び、生きていく力、人を愛する思いを、神は私たちに満たしてくださったのです。私たちが、このような喜びと力で満たされているためには、神との関係を正しく保っている必要があります。エレミヤ23:24に「主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。」とあります。神との関わりを持たないでいられる人は誰もありません。ひとりびとりが、神の前に出て、神をその人生に迎え入れ、神が私たちのうちに満ちていただくことを願い求めなければならないのです。

 教会は「いっさいのものをいっさいのものによって満たすお方」、主イエス・キリストが「満ちておられるところ」です。キリストを主とし、かしらとする教会は、キリストのいのちに満ちています。キリストのいのちがかろうじてそこにあるというのでなく、満ち満ちているのです。それは満ち満ちているのですから、特定の人だけではなく、すべてのクリスチャンがそれを体験することができ、神を求めて教会に足を運ぶ誰もがそれを認めることができます。時として教会は、この事実を忘れがちです。それを忘れて、あたかも、キリストの臨在がないかのように、その力がないかのようにふるまってしまうのです。20世紀はじめの英国の説教者マーチン・ロイドジョーンズは、この箇所の説教で、「教会がキリストをかしらとしていただいているのに、それを忘れて、『私たちの筋肉は萎えている。』とあなたは言うが、私は『それを鍛えよ。』と言いたい。」と語っています。教会は、無力ではありません。あらゆるものの勝利者であるお方が、そのかしらなのです。それを認め、信じ、このかしらであるお方にしっかりと結びつくとき、私たちはいっさいのものをいっさいのものによって満たす方によって満たされるという体験をするのです。弱さを感じる時、あきらめたくなる時、行き詰まりを覚える時、その感情に自分を任せず、信仰を働かせて、私たちのかしら、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストが、私たちに与えられていることを覚えましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、あらゆるものの上におられる主イエス・キリストを、この世のどんな団体にも与えず、教会にかしらとして与えてくださいました。私たちがキリストのからだであることを覚える時、常に、キリストが、私たちの力あるかしらであることを思い起こさせてください。そして、主を告白し、主に頼り、主に満たされていくことができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/12/2004