聖書が分かる時

エペソ1:15-19

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1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、
1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 一、知識と知恵

 「聖書が分かる」とはどういうことでしょうか。どうしたら「聖書が分かる」ようになるのでしょうか。きょうは、聖書を手にする人なら誰もが知りたいと思うことについて話します。

 ものごとを知るというとき、二種類の知り方があります。聖アウグスティヌスはひとつを scientia と呼び、もうひとつを sapientia と呼びました。scientia という言葉から science(科学)という言葉が生まれたように、scientia は目に見える様々な現象についての情報を得ることを指します。「知識」と訳してよいでしょう。これに対して sapientia は「知恵」と訳すことができ、これは、目に見える様々な現象の背後にあるものについての洞察や理解を意味します。「知識」が客観的なものであるのに対して「知恵」はより主観的、体験的なものです。

 たとえば、「私はジョージ・ワシントンを知っている」と言う場合、私たちの場合は、アメリカの初代大統領で1ドル冊に肖像がある人という程度でしょう。「1732年2月22日にヴァージニア州ウェストモアランドで生まれ、1799年12月14日、67歳のとき、ヴァージニア州マウントバーノンで亡くなった。彼は独立戦争を戦って、アメリカの初代大統領となった。大統領を Mr. と呼ぶこと、任期を2期までとすることなどの慣例を残した」などといったことは歴史を学べば知ることができますが、それは客観的な知識にすぎません。しかし、ジョージ・ワシントンのもとで独立戦争を闘った兵士たちは、敗戦につぐ敗戦の中でも決してあきらめず、兵士たちを励まし、導いた偉大な指導者として、ワシントンを見ていました。彼の忍耐や勇気や決断を心に刻んだことでしょう。彼らはワシントン将軍についてのことがらを知っていたというよりは、ワシントン将軍、その人を知っていたのです。

 ジョージ・ワシントンは「祈りの人」として知られています。彼は独立戦争の間も毎日兵士たちを集めて祈りの時を持っていました。大統領を退職してからも、祈りの生活を守り続けました。夕食後、みんながどんなに楽しい団欒のときを過ごしていても、夜9時になると、彼は、かならずキャンドルを持って自分の書斎に引きこもりました。彼の甥が、好奇心から、叔父の部屋を覗いてみると、ワシントンは、椅子の前にひざまずいており、その椅子には聖書が開かれていました。かっきり10時まで、祈りが続いたそうです。ワシントンは20歳の時から、こうした祈りの生活に入ったことが、彼の書き遺した「祈りの日記」にしるされています。私たちはそうしたものを読んで、ジョージ・ワシントンを改めて尊敬します。その人が書いたものや、その人について書かれたものから、その人の人格に触れ、その生き方に共鳴できたなら、それもまた、その人自身を知ることになると思います。貧しい子ども時代を過ごしたリンカーンは聖書とワシントンの伝記の二冊の本しか持っていませんでしたが、聖書を読み神のみ心を知り、『ワシントン伝』を読んでワシントンの人格に触れたのでした。

 私たちも同じように聖書を読みたいと思います。「知識」によってだけではなく、「知恵」によって聖書を知りたいと思います。聖書が66巻あって、旧約と新約に分かれており、その主題はイエス・キリストであり、そのメッセージは神の愛であるということを知ったからといって、ほんとうに聖書が分かったことにはなりません。イエス・キリストが、この「私」のために十字架で死んでくださった。神はそれほどにこの「私」を愛してくださっている。そのことが分かって、神の愛を受け入れたとき、私たちは、はじめて、聖書が分かるようになるのです。聖書を誰か他の人のためのものとしてではなく「私」のために書かれたものとして読む。それが私たちに求められている聖書の読み方なのです。

 ですからテモテ第二3:15には「聖書はあなたに〝知識〟を与えて…」ではなく、「聖書はあなたに〝知恵〟を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」と書かれています。客観的な「知識」だけでは、キリストの救いを自分のものにすることはできません。私たちが聖書に向き合い、聖書が与える「知恵」を受けてこそイエス・キリストの救いを自分のものとすることができるのです。

 二、聖書の学び

 聖書が分かるのは、最終的には、聖書が与える「知恵」によるのですが、では、知識は必要ないのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。多くの場合、「知恵」は「知識」という土台の上に与えられます。知識を積み重ねれば、それが自動的に「知恵」となるわけではありませんが、「知識」から「知恵」に導かれることが多いのです。

 例をあげます。ルカ19:35に「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた」とあります。この人は、ふだんよりも大勢の人々が通っていくのを耳で聞き、何事が起こったのかと人々に尋ねました。「ナザレのイエスがお通りになるのだ」という答えが返ってきました。当時、人々は姓を持たず、名前しか持ちませんでしたから、イエスも「ヨセフの子イエス」とか「ナザレのイエス」とか呼ばれていました。ナザレの町があったガリラヤ地方は貧しく、文化的に遅れた地方でしたので、首都エルサレムいたユダヤの指導者たちは、「ナザレのイエス」という呼び名に軽蔑の意味を込めていました。

 この目の見えない人は、「ナザレのイエスがお通りになるのだ」と聞いてイエスを呼び求めたのですが、「ナザレのイエスよ」ではなく、「ダビデの子イエスよ」と叫んでいます。「ダビデの子」という呼び名には意味があります。神がダビデに約束された救い主を指します。この盲人は、イエスを救い主と信じ、イエスに救いを呼び求めたのです。イエスは彼の信仰をごらんになって、その目を開き、ご自分が救い主であることを示されました。とても感動的な出来事です。

 さて、次にマルコ10:48を見ましょう。「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた」とあります。ルカもマルコも同じ人のことを書いています。ルカでは名前が記されていませんでしたが、マルコでは「バルテマイ」という名であったことが分かります。ここで、マルコ10:48とルカ19:35を比べると、明らかな矛盾があります。マルコは、バルテマイの目が開かれたのは、イエスが「エリコを出られる」時だと言っているのに、ルカは、イエスが「エリコに近づかれたころ」と言っているのです。イエスがバルテマイの目を開いてくださったのは、イエスがエリコの町に入るときだったのか、それとも出ていくときだったのか。マルコとルカのどちらが正しいのでしょうか。

 じつは「どちらも正しい」のです。実は、エリコの町には旧市街と新市街がありました。エリコはエルサレムに巡礼に上る人たちが必ず通るところで、いわば神殿の「門前町」として栄え、町は大きくなり、新市街が出来上がっていたのです。イエスは旧市街から新市街へと歩んでゆかれ、バルテマイは旧市街と新市街の境目にいたのです。マルコは旧市街を「エリコ」と呼び、「イエスが…エリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた」と書きました。ルカのほうは、新市街を「エリコ」と呼んで、「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた」と書いたのです。

 聖書を読んでいくと、このように一見矛盾と思える箇所に出会います。そのような時は、丹念に聖書を調べ、その時代のことや、文化、習慣、地理などを学んでみると解決が与えられることが多いのです。聖書を繰り返し読み、分からないところがあったら、そのままにしておかないで、そのつど牧師に尋ねたりして解決していく、そんな日常の努力を積み重ねることによっても「聖書が分かる」ようになります。

 三、聖霊の照明

 しかし、聖書に語られている神のみこころが分かるようになるためには、学びだけでは足りません。私たちの内に神のみこころを知りたいという願い、それを知ったなら実行するという決意が必要です。そのためには、祈りながら聖書を読む「黙想」という作業が必要です。知識を得ようとして聖書を読むのでなく、聖書から神の語りかけを聞くために聖書に向かうのです。自分が主体で、聖書は研究の対象というのでなく、聖書が主体で、自分をその下に置くのです。「聖書を読む」というよりは「聖書に聞く」のです。聖書と対話をすると言ってもよいでしょう。そのためには、その日に読んだ箇所の中心的な部分を何度も唱え、暗記して、それを思い巡らすのが良いと思います。「暗誦聖句」はサンデースクールで子どもたちが毎週することですが、それは大人にも必要なことです。「暗誦聖句」は「黙想」への第一歩となるからです。

 聖書は聖霊によって私たちに与えられた神のことばです。聖霊は聖書を書いた人、それを編集した人、それが文字として文書として残される過程に働いてくださり、私たちがこんにち手にしている聖書を与えてくださいました。この聖霊の働きを「霊感」と言います。ですから、聖書には、モーセやイザヤ、マタイやパウロなど、多くの著者がいても、その人々の背後におられる真の著者は聖霊であると言うことができます。そして、聖書の著者に働いてくださった聖霊は、聖書の読者にも働いてくださるのです。聖書は聖霊によって与えられました。ですから、聖書が分かるのも、聖霊によるのです。私たちが聖書から受ける「知恵」、また聖書を理解する「知恵」は聖霊から来るのです。エペソ1:17に「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」とある通りです。聖霊は「知恵と啓示の御霊」です。続いて「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(18-19節)と言われているように、聖霊は聖書を読む人の心を照らし、心の目を開いてくださいます。この聖霊の働きは illumination(日本語で「照明」)と呼ばれています。同じ、おひとりの聖霊が「啓示の御霊」となって、inspiration(霊感)によって私たちに聖書を与えてくださり、また「知恵の御霊」となって、illumination(照明)によって、私たちに聖書を分からせてくださるのです。

 キャンベル・モルガンという説教者は、自分の机の向こう側に、いつも椅子を一つ置いて、説教や著作の準備をしました。聖書で分からないところがあると、彼はペンを置いて、しばらくの間、自分の前にある椅子に目を向け、あたかもそこにイエスがおられるかのようにして、その箇所にあるみ心を教えてくださいと祈って、原稿を整えました。キャンベル・モルガンを多くの説教者は「知恵と啓示の御霊」の働きを、常に祈り求めて、聖書に取り組んでいるのです。

 同じように、私たちも聖霊の照明を祈り求めて、聖書に向かいましょう。聖書を読む前に、また、その途中で、そして聖書を読み終えてからも、聖霊の働きを祈り求めましょう。「私の心の目を開いてください」、「私に知恵を与えてください」、「あなたのみ心を教えてください」など短く祈るだけでよいのです。そうした祈りの心で聖書を読むなら、ただ義務的に聖書を読んでいる時の何倍も聖書が分かるようになります。

 そのような祈りは、それぞれが自分の言葉で祈ればよいのですが、古くから伝わる祈りがいくつかありますので、そうしたものを祈るのも良いでしょう。きょうは、その中の一つを皆さんと一緒に祈って、メッセージを閉じたいと思います。

 (祈り)

 主なる神よ。真理を求めている私に、その道をお示しください。心のきよさと、平和とを求めている私に、それを得る方法をお教えください。私は、今、自分の弱さを認め、謙遜にあなたを仰いでいます。私が、この短い一生を良く過ごし、その目的を達し、家族、友人、社会に対する自分の義務をよく果たすことができるために、光と助けとをお与えください。聖霊により主イエスを通して祈ります。

9/12/2021