あなたは神のもの

エペソ1:13-14

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1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 英国のウェストミンスター・チャペルの牧師だったマーチン・ロイドジョーンズ師は、エペソ人への手紙全体を、全部で230回かけて説教しています。ほぼ5年もかけているわけです。エペソ1:1〜14の部分だけでも、12回に分けて説教しています。この箇所には、それだけ時間をかけても、とても解き明かせないほどの大切な真理が含まれているからです。私たちは、エペソ人への手紙を学びはじめて、まだ3回目ですが、今日で1:14までの部分を終わろうとしています。この大切な部分をたった3回で終わらせようとするのは、乱暴といえば乱暴なことですが、最初から、一字一句を詳しく学んでも、この箇所が全体として言おうとしていることを見逃してしまいます。「木を見て森を見ない。」ということになりかねませんので、今回は、かなり大づかみですが、大切なポイントを、まずしっかりと学んでおき、別の機会に詳しく学ぶことにしたいと思っています。

 さて、エペソ1:3-14は、原文では切れ目のない長い一文章になっていますが、ここは、はっきりと三つの部分にわけることができます。1:3-6は父なる神について、1:7-12は御子イエス・キリストについて、そして1:13-14が聖霊なる神について書かれています。三位一体の神が、私たちの救いのために何をしてくださったかが書かれているわけです。ここに書かれていることをまとめるなら、父なる神が救いを計画し、主イエス・キリストがそれを成就し、聖霊がそれを私たちのうちに実現してくださったと言うことができるでしょう。

 聖霊が、私たちのうちに救いを実現してくださったことを、エペソ1:12は「あなたがたも、…聖霊をもって証印を押されました。」と言っています。この「聖霊の証印」にはどのような意味があるのでしょうか。このことについて、三つのことを学んでおきましょう。

 一、契約の証印

 第一に「聖霊の証印」という言葉には、父なる神が計画し、御子が成し遂げた救いを保証するという意味があります。私たちが誰かと重要な約束をかわす時、それを間違いないものにするため書類を作ります。契約書ですね。実は、聖書は、「旧約」、「新約」と呼ばれるように、神が私たちのために作ってくださった契約の書物なのです。

 契約には三種類あります。一つは、上下関係の契約で、上の立場にある者が、下の立場にある者に一方的に契約を与えるものです。古代の契約は、ほとんどが、上下関係の契約でした。ある国の王が他の国を征服すると、制服した国に法律を定め、おふれを出し、その国の国民にそれに従うように命じます。国民は、それがひどい法律であっても、それを守るしか他に選択の余地はないのですが、それを守れば、王の保護を受けることができました。現代でも「雇用契約」は、上下関係の契約ですね。幾分かは交渉の余地がありますが、雇われる側は雇い主に対してあまり注文をつけることはできません。かつてのようにシリコンバレーが人手不足だった時とは違って、今は仕事を探している人が大勢いますから、「嫌ならいいですよ。他の人を雇いますから。」と言われてしまうことでしょう。

 上下関係の契約の他に対等の契約もあります。契約を結んだ両者が、対等に責任を負い合い、一方が契約を破ったなら、もう一方がそれに対して償いを要求することができるというものです。売買契約や結婚の契約などがそれに当たるかと思います。

 しかし、上下関係の契約や平等の契約とは違う、もう一種類の特別な契約がありますね。それは、恵みの契約です。これは、神がキリストによって私たちと結んでくださった契約です。神は、あらゆる者の主権者ですから、神との契約は、上下関係の契約、一方的な契約であって良いはずです。いや、そうあるべきなのかもしれません。ところが、神の契約を聖書の中に見ていくと、まるで私たちが神と対等であるかのようにして、契約を結んでくださっていることが分かります。とりわけ、イエス・キリストによって立てられた救いの契約はそうです。救いの契約では、対等どころか、神が一方的に譲歩しておられます。私たちが神に対してしなければならない罪の償いを、神は私たちに要求せず、ご自分の側でそれを支払われました。神は、私たちが救われるために、私たちに何一つ求めず、ただ、神の救いを契約を聞き、信じること、つまり、それを受け入れるだけで私たちを救ってくださるのです。エペソ1:12に「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」とある通りです。

 このキリストの救いを伝える「福音」こそが、神の契約です。神は「わたしは、福音を聞いて、キリストを信じる者を救い、わたしの民とし、祝福する。もし、そうしなかったら、わたしがあなたに与えた福音、あなたと結んだ契約にもとづいてわたしを訴えるように。」と言っておられるかのようです。神が、キリストによって私たちと結んでくださった契約は、対等の契約以上のもの、まさに、恵みの契約です。キリストを信じた皆さんは、今、この恵みの契約の中にあることをどれだけ意識してきたでしょうか。神の契約のことばをしっかりと学び、神との恵みの契約を日々、確認しているでしょうか。来週の礼拝では聖餐を守りますが、聖餐はこの恵みの契約を確認し、感謝するためのものです。この一週間、神の恵みの契約を思い巡らしながら聖餐に備えたいと思います。

 福音は「真理のことば」です。神は、ご自分のことばを違えることは決してありません。福音という契約書だけでも十分なのですが、神は、この契約をさらに確かなものにするために、この契約書に、キリストが十字架で流してくださった血によって「署名」をしてくださいました。そればかりではありません。神は、その上に聖霊による「証印」を押してくださったのです。この証印は、日本では印章ですが、アメリカでは、たいていは円形のシールです。卒業証書や証明書などについているのをご覧になったことと思います。このシールが書類に刻まれる時、その書類は二重、三重の意味で確かなもの、正真正銘のものであることが証明されるのです。神は、福音という契約書に、キリストの十字架の血判を押し、さらに、聖霊のシールを貼って、誰も、この契約を破ることはできないと宣言しておられるのです。「聖霊の証印」は、キリストの救いが信じる者のうちに成就していることを、確かに保証するものなのです。このような保証を与えられているというのは、なんと心強いことでしょうか。

 二、神の所有印

 「聖霊の証印」という言葉は、第二に、聖霊が、私たちを神のものにしてくださるということを表しています。今では、家畜を管理するのに、耳に札をつけたり、マイクロチップを使ったりしますが、昔は、家畜の皮膚に焼きごてでしるしをつけました。そのしるしによって、誰の牧場の牛や馬であるかを区別しました。同じように、聖霊は、私たちが神の子とされ、神の民とされたことのしるしとなっていてくださるのです。

 使徒パウロは「私はキリストの焼き印を身に帯びている。」(ガラテヤ6:17)と言いました。パウロは、様々な迫害に会い、しばしばむち打たれることがありました。パウロはコリント第二11:24-25で「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度…ある。」と言っています。パウロの体のあちらこちらは、傷だらけ、あざだらけだったことでしょう。パウロが「キリストの焼き印」と言ったのは、キリストのために迫害を受けた、そのような傷跡を指してのことでした。パウロは「このからだの傷が、私がキリストの使徒であることの証拠だ。これこそ、私がキリストのものであることのしるしとして私に押された、キリストの焼き印だ。」と言っているのです。

 以前、中国の伝道者から話を聞いたことがあります。パパ・クワングとママ・クワング夫妻でした。毛沢東の文化大革命の嵐が吹き荒れた時、中国では多くの牧師、伝道者が捕まえられ、辺境の地に追いやられ、過酷な条件の中で強制労働に駆り立てられました。食べるものがなく、革のベルトを小さく切り刻んで食べたと話してくれました。毛沢東が死んで、牧師、伝道者たちが教会に帰ってきましたが、どの牧師も、どの伝道者も、強制労働のために手や足、腰を痛めていて、満足なからだの人は誰もいなかったということでした。その当時の中国の牧師、伝道者たちも、パウロのようにその肉体に「キリストの焼き印」を持っていたのです。

 現代のアメリカでは、パウロの時代や、かつての中国であったような迫害はありませんから、私たちの多くは、パウロのように目に見える「キリストの焼き印」は持っていないでしょう。しかし、私たちには、目に見えないしるしを与えられています。それは、神が信じる者の心に住まわせてくださった聖霊です。聖霊を受けている私たちは、それによって、自分が神のものとされたということを確信することができるのです。

 「証印を押す」という言葉は、巻物に封印をする時にも使います。ヨハネの黙示録に、七つの封印を施された巻物のことが書かれています。巻物に封印を施すということは、そこに書かれている内容が、簡単に人の目に触れ、書き換えられないよう、それを保護するためです。そのように、神も、聖霊の証印を押された者たちを、守り通してくださいます。ヨハネの黙示録に、「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。」(黙示録7:3)という天使のことばがありますが、聖霊の証印を押された私たちは、私たちを神から引き離そうとするあらゆるものから守られるのです。私たちは、自分に刻まれた神の印、聖霊の証印を忘れずに、自分が神のものとされていて、神の守りの中にあることを確信して歩むことができるのです。

 三、御国の保証

 「聖霊の証印」という言葉は、第三に聖霊が、私たちが御国を受け継ぐことの保証となってくださったということを表しています。エペソ1:14に「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」とありますが、この「保証」というのは、「手付け金」、「ダウンペイメント」という意味です。車や家など、値段の高いものを買う時、一度に現金で払うことのできる人は多くありません。たとえ貯金があったとしても、それは緊急時のたくわえとしてとっておかなければなりませんので、ふつうは、代金の何分の一かをダウンペイメントとして払い、残りはローンを組んで少しづつ支払っていきます。ダウンペイメントさえ払えば、車でも家でも自分のものになります。車なら、全部を払いきらないでも、デーラから乗って帰ることが出来、家なら、引っ越しをしてそこで生活を始めることができるのです。

 同じように、聖霊は、私たちが天のマンションを手に入れることができるようにと、神が私たちに支払ってくださったダウンペイメントなのです。聖霊によって天国が私たちのものとなるのです。私たちは、キリストを信じた時に、神の子どもとされ、天に国籍を持つ者となりました。しかし、私たちはまだ、この地上で生活しています。私たちはすでに神の子どもとされてはいますが、まだ生まれたばかりの赤ちゃんのように弱く、神の子どもとしての性質をまだ十分に発揮できないでいます。堅く信仰に立ちたいと願っていながら、さまざまな誘惑や疑いに翻弄されます。困難や苦しみがやってきて、くじけたり、嘆いたりします。そんな時、本当に自分は神の子どもなんだろうか、天国を約束されているのだろうかと、神の約束を疑ってしまうことさえあります。しかし、私たちは、聖霊をいただいていることによって、この聖霊によって、天国の平安や喜びを、前もって自分のものとすることができるのです。地上での信仰の戦いの中にあっても、私たちがやがて天で持つことになる神の子どもとしての力やいのちを前もって受けることができるのです。聖霊を持つ者は天国を持つのです。

 また、信仰の戦いがあまりにも厳しく、地上で戦いの成果が見られない場合もありますが、そのような時でも、私たちのうちにいてくださる聖霊が、天国での勝利を、報いを見せてくださるのです。聖霊は、どんな苦しみの中でさえ私たちを慰め、励ましてくださり、その慰めや励ましは、地上にあってさえ素晴らしいものですが、天では、その何倍、何百倍、何万倍もの慰めと祝福を受けることができるのです。地上で聖霊という保証金をいただいている私たちは、残りのすべてを天で受けることができるのです。聖霊は、実に、「私たちが御国を受け継ぐことの保証」です。

 しかし、天国が素晴らしいのは、そこに真珠の門や黄金の道、水晶の川、いのちの木があるからだけではありません。そこに神がおられる、しかも、神が私たちとともにいてくださるからです。私たちが天国で相続するものの中で最高のものは、実は、神ご自身なのです。聖霊は、その証印によって、私たちを神のものにしてくださいますが、それと同時に、聖霊は、神を私たちのものとしてくださるのです。これは、なんと驚くべきことでしょうか。申命記32:9に「主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。」とあります。神は、神の民を、あたかもご自分の相続財産のように大切に保ってくださるという意味です。ところが同じ申命記18:2には「主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。」とあります。神は、私たちを神のものとしてくださるだけでなく、ご自分を私たちのものとしてくださるのです。神は、奴隷を自分の所有物にするような仕方で、私たちを神のものにするのではありません。私たちを、神の子どもとして、愛の対象として、神のものにしてくださるのです。しかも、神もまた、ご自身を私たちのものとしてくだるのです。雅歌に「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」(雅歌2:16)とあります。これは直接的には、男女の愛を歌ったものですが、間接的には、神と、神の民との愛の関係を指しています。本当の愛の関係は常に、相手を自分のものにするだけなく、自分を相手のものにするということがありますが、神も私たちに対してそうしてくださり、それを聖霊によって確かなものにしてくださったのです。

 「罪咎を赦され」という賛美は、多くの人に親しまれていますが、その英語の歌詞はこうです。"Blessed assurance, Jesus is mine! O what a foretaste of glory divine! Heir of salvation, purchase of God, Born of His Spirit, washed in His blood." これを意味をこめて訳してみますと、「私は確信します。私はイエスのものであり、イエスは私のものです。やがて受ける栄光を、私たちは聖霊によってあらかじめ味わっています。私は救いの相続者、キリストに贖われた者です。聖霊によって新しく生まれ変わり、キリストの血によってきよめられています。」となるかと思います。この賛美のように、聖霊によって与えられ、保証された「主は私のもの、私は主のもの。」という関係を、喜び歌いながら歩んでいこうではありませんか。

 (祈り)

 「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。…わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。」(コリント第二6:16-18)と約束してくださった父なる神さま。あなたは、その約束を、イエス・キリストによって果たしてくださり、聖霊によって私たちのものとしてくださいました。私たちは聖霊によって神の子どもとして生まれ、聖霊によって、あなたを「父よ。」と呼ぶことができます。そればかりでなく、あなたは、聖霊によって、私たちをあなたのものとし、あなたを私たちのものとしてくださいました。あなたに愛され、あなたを愛する愛の関係をより深く理解し、体験し、そこにとどまることができるよう導いてください。私たちのうちに聖霊を遣わしてくださった主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/22/2006