神の子ども

エペソ1:1-6

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1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 先週、「神の家族」とは、神のことばを聞き、それを信じ、守り行なう人々の集まりであるということを学びました。私たちは、礼拝で、聖書を開き、開かれた聖書の箇所からのメッセージを聞いています。メッセージに聞き、それに応答する私たちの姿を見て、主イエスは、私たちに「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:34-35)と声をかけてくださることでしょう。私たちは、礼拝で、ともに神のことばを聞くことによって、神の家族のまじわりを確かめ合っています。

 ところで、主イエスが「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われた時、「兄弟、姉妹、母」という言葉は使いましたが、「父」という言葉は使いませんでしたね。なぜでしょうか。それは、「あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに会いに来ていますよ。」と人々が言ったことへの応答だったからでしょうが、そればかりでなく、主イエスは「父」という言葉を、神の家族の父である、父なる神のためにとっておかれたのだと、私は思っています。

 聖書は、神を「父」と呼んでいます。日本の社会では、「父」という言葉の重みがどんどん軽くなってきているようですが、アメリカではまだ「父」という言葉には重みがあります。ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソン、パトリック・ヘンリーなどは「建国の父」として今も尊敬されています。彼らは、新しく国家を生み出し、それを守り、導いたというので、「父」と呼ばれているのですが、神は、アメリカ一国だけでなく、全世界を導いておられるお方であり、そればかりでなく、この地球と大宇宙の創始者として、「父」と呼ばれるにふさわしいお方です。「父」という言葉には「権威ある者」という意味も込められています。人間に与えられた権力は、やがてしぼんでいきますが、神の権威は、時が経っても変わることはなく、弱まることはありません。神の権威は永遠の権威です。

 エペソ3:14-15に「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」とあります。神がすべてのものの本来の「父」であり、地上で「父」と呼ばれる人々は、神から「父」としての役割と権威を与えられ、神から「父」と呼ばれることを許された人々です。地上にはさまざまな家族があります。家庭があり、教会があり、国家があります。家庭に「父親」を与えたのは父なる神です。教会の指導者は長い間 "Father" と呼ばれ、今もそう呼ぶ教会が多くありますが、教会に「神父」を与えたのも父なる神です。国家も、大きな家族ということができますが、神は、国家にも「建国の父」を与えてくださいました。これらは、地上の「家族」ですが、家族は「天」にもあります。神は、無数の天使たちを従え、天の大軍勢を持っておられます。神は、それらの天使たちの主であり、天の軍勢の指揮官であるとともにその「父」です。また、天には、地上の信仰生活を終えて帰って行った人々のたましいがあります。教会は、地上だけにあるのでなく、天にもあるのです。神の家族は、天と地上の両方にまたがっていて、神はその父です。神は「父のようなお方」というだけでなく、天にも地にもご自分の家族を持っておられる、まことの「父」です。私たちが信じ、礼拝する神は、このような「父なる神」です。私たちは、まず神の子どもとなり、神の家族に加えられてこそ、はじめて、神を「父なる神」として礼拝することができるようになります。

 では、どうしたら、私たちは神の子どもとなることができるのでしょうか。神は、私たちが神の子どもとなるために、何をしてくださり、私たちは、そのために何ができるのでしょうか。私たちが神の子どもとなるために、神がしてくださったことは、エペソ1:5に要約されています。「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」ここには、神が私たちにしてくださったことが、三つ書かれています。第一に、神が私たちを愛してくださったということ、第二に、神はその愛のゆえに、イエス・キリストの救いを備えてくださったということ、そして、第三に、神は、私たちを神の子どもにしようと、私たちを選んでいてくださるということです。

 一、神の愛

 まず、第一に、父なる神の愛について、ご一緒に考えましょう。ヨハネの手紙第一3:1に「私たちが神の子どもと呼ばれるために、…御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」とあります。私たちが、神の子どもとして、父なる神に迎えられるのは、何よりも、神の大きな愛によってです。聖書は「この愛を深く思い見なさい。」と教えています。

 神の父としての愛を思い見るのに、一番ふさわしいのは、おそらく「放蕩息子」の物語だろうと思います。「放蕩」というのは、ずいぶん古い言葉で、今ではほとんど使わなくなりましたが、「放蕩」の「蕩」という漢字の中に「湯」という文字が入っているように、これは「財産を湯水のように使う」ことを意味しています。ルカ15章に書かれている、イエスのたとえ話に資産家の次男坊が登場しますが、彼は、親からもらった財産を湯水のように使い果たしたので、「放蕩息子」と呼ばれるようになりました。当時のユダヤでは、親の財産を継ぐ時、長男は、他の兄弟の二倍の財産を受け継ぎました。それで弟息子は、「ここでどんなに一所懸命働いたって、どうせ、俺のもらう財産は、兄貴の半分にしかならない。こんなところで、窮屈な思いをしているよりは、今のうちに親の財産をもらって、それを元手に、商売をして一儲けしてやろう。」と思ったのかもしれません。彼は、現代の言葉で「生前分与」と言うのですが、父親が生きているうちに財産を分けてもらい、遠い国へ旅立って行きました。苦労しないで得た財産は身には着かないと言われますが、この息子は、それを遊興のために使い果たしてしまいました。文無しになったわけです。そのうち、その国に飢饉がやってきて、彼は食べるのにも困り果て、ブタの餌でさえ食べたいと思うようになってしまいました。彼は、どん底に落ち込んだ時、ここでのたれ死にをするくらいなら、父親のところに帰ろうと決心するのです。しかし、父親に財産の生前分与を迫り、逃げるようにして遠い国に旅立ち、財産を使い果たし、父親の顔に泥を塗るようなことをしてしまった彼には、息子と呼ばれる資格はもうありません。彼も、そのことを十分知っていました。それで彼は、父親に会ったら、土下座をして「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」(ルカ15:18-19)と言うつもりでいました。彼は、空腹のために何度も倒れ、倒れては起きあがり、父の家を目指したことでしょう。そして、父の家に向かう間、彼は何度も、何度も「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」ということばを心の中で繰り返したことでしょう。

 彼は、着物はボロボロ、髪の毛は伸び放題、とても、あの息子だとは見えない姿になり果てていましたが、父親は、遠くから自分のところに近づいて来る息子を見つけ、走り寄って彼を抱きかかえました。息子が「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言い、続いて「雇い人のひとりにしてください。」と言おうとしたのですが、父親はそのことばを遮って、「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」と、しもべに命じました。「着物」や「くつ」、「指輪」は、彼の息子としての身分、立場、権利を表わすものでした。当時、しもべたちは、丈の短い着物を着て、はだしで仕事をしていました。父親は、彼に丈の長い着物を着せ、履き物を履かせることによって、「おまえを、しもべになどするものか。」と言おうしたのです。そればかりではなく、彼に指輪をはめさせました。指輪には、その家の紋章が刻まれており、それが印鑑の役割をしました。おそらく、父親は自分の指から指輪を抜いて、彼に与えたのでしょうが、この指輪は、帰ってきた放蕩息子が、完全に、息子としての権利を回復したことを示しています。「着物」と「くつ」、そして「指輪」によって、父親は「おまえは、私の息子なのだ。」ということを宣言したのです。

 このたとえ話の放蕩息子は、私たちのことで、父親は、私たちの父なる神のことです。私たちは、神のもとから遠く離れ、神から与えられた人生を無駄に過ごし、神の栄光を汚してきました。エペソ2:3には、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。「人はみな神の子」と言う教えもありますが、聖書は、私たちは「神の子」どころか、「怒りの子」、「神の敵」であったと教えています。神は、もはや神の子どもではなくなってしまっている者たちをあわれんで、ご自分の子ども、神の子どもとして受け入れてくださるのです。神は、その愛によって、私たちを神の子どもとしてくださるのです。

 二、神の救い

 エペソ1:5は、第二に、「神は、…私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」されたと教えています。「イエス・キリストによって」、あるいは「キリストにあって」という言葉は聖書の中に、何度も何度も繰り返されています。英語では "In Christ" という短い言葉ですが、とても大切な言葉です。神の愛は「イエス・キリストにあって」はじめて、私たちのものとなるからです。

 私たちは、神の愛により、イエス・キリストの救いによって「神の子ども」と呼ばれるようになりますが、だからと言って、私たちが神と等しくなるというのではありません。私たちは、どこまで行っても人間であり、被造物であり、神になり、創造者になることはありません。新約聖書のギリシャ語でも、イエス・キリストには「フィオス」(息子)という言葉が使われていますが、人間に対しては「テクナ」(子ども)という言葉が使われ、イエス・キリストが神の御子であることと、私たちが神の子どもとされることとは厳密に区別されています。イエス・キリストは本来の神の子ですが、私たちは、イエス・キリストによって神の子の身分、立場、特権を与えられて、神の子どもとされるのです。

 しかし、キリストはどのようにして、私たちを神の子どもとしてくださるのでしょうか。放蕩息子のように、罪を犯し、神から遠く離れ、神に敵対し、神の怒りを受ける他ない私たちの罪と、罪の結果のすべてをご自分の身に引き受けてくださることによってです。イエス・キリストは、あの十字架の上で、罪人である私たちの身代わりになり、私たちが受けなければならない罪の結果のすべてを引き受けてくださいました。そして、私たちに、ご自分が持っておられた神の子としての身分、立場、特権のすべてを与えてくださったのです。キリストは、私たちのために天の王座を捨て、私たちがかかるはずだった十字架にかかられました。そのことによって、滅びに落ちるしかなかった私たちにを天の王座に着くものとしてくださいました。イエス・キリストは、あの十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか。」と悲痛な叫び声を上げられましたが、そのことによって、私たちが、「アバ、父よ。」と、親しく神に呼びかけることができるようにしてくださったのです。キリストは、ご自分の命をお捨てになることによって、私たちに神の国を受け継ぐことができるようにしてくださったのです。神の御子であるキリストが私たちと、その身分、立場を入れ替わってくださったことにより、私たちは、救われ、神の子どもとされるのです。

 私たちに神の子どもの身分、立場、特権を与えることができるのは、神の御子であるイエス・キリストの他ありません。ですから、ヨハネ1:12に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあるように、私たちは、キリストを信じることによって、神の子どもとされるのです。あなたは、あなたの救いが「イエス・キリストにある」ことを信じ、イエス・キリストを心に迎え入れているでしょうか。

 三、神の選び

 第三に、エペソ1:5は、神の選びを教えています。「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」とあります。神の選びというは、主権者である神のおこころの中に深く隠されたことであって、人間の限られた知恵で、神の選びを分析することはできません。しかし、だからと言って、神の選びを全く理解できないというわけではありません。

 神の選びは、私たちが自分の罪深さ、無力さを知る時、最もよく理解することができます。もし、私たちが自分の力や努力で神の子どもとなることができるのなら、神の選びはいらないでしょう。けれども、自分の力や努力で神の子どもになることができる人は誰もいません。自分の力で神の子どもにとなろうとするなら、その人は、神の御子イエス・キリストとそっくりそのまま同じように生きる必要があります。イエスが生きられたように、何の罪もなく生き、イエスがなさったように自分の命さえも神と人のためにささげることができなくてはなりません。しかし、いったい罪ある人間にそのようなことができるでしょうか。誰一人できはしません。だからこそ、私たちには、神の一方的な愛、つまり選びの愛が必要なのです。ヨハネ1:13に「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」とあります。自分の罪深さと無力さを、謙虚に認める人は、神の選びが分かるのです。

 エペソ1:5に「神は私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」とあります。神が「選んだ」「定めた」という言葉は、私たちを神の養子、養女にするための「選び」をさしています。日本では、養子は実子と比べて何かと差別されますので、養子であることを隠そうとしますが、アメリカでは、養子は「選ばれた子」として、大切にされます。多くの場合、アダプトされた子どもたは、自分を選んでアダプトしてくれた両親に感謝し、自分を「選ばれた子」として誇りに感じると聞きました。イエス・キリストを信じる者は、本来は神の子どもではなかったのに、イエス・キリストによって、神の子どもとしてアダプトされた者たちです。キリストを信じて神の子とされた者たちは、神の愛の選びを覚えて、神に感謝をささげることができます。神が、私を選んでくださった、私を神の子どもとして選んでくださったということを知る人は、その人もまた、イエス・キリストを自らの主と選び取り、人生のあらゆる場面で、父なる神の愛のみこころを選びとって生きて行くのです。

 神は、この選びの愛であなたを愛し、イエス・キリストによって、あなたの父なる神となってくださいます。あなたもイエス・キリストを信じて、神の子どもとなり、神の家族に属し、父なる神をほめたたえる生涯に入られるよう、心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神さま、イエス・キリストを信じる者を神の子どもとしてくださる、あなたの大きな愛、救いの愛、選びの愛を、こころから感謝いたします。私たちは、神の子どもとなることなしに、あなたを、心をこめて「父よ」と呼ぶことはできませんし、あなたを父とする神の家族のまじわりに、ほんとうの意味で加わることもできません。神の子どもとしていただくことが、神の家族のまじわりの出発点です。どうぞ、ここに集う人々が、ひとり残らず、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもとなることができますように、また、神の子どもとしての確信のうちに、父なるあなたとの深い交わりの中へと導かれていきますよう、心から願います。そのようにして、神の家族を増やし、また神の家族まじわりを深めてください。御子キリストのお名前で祈ります。

1/8/2006