あなたの若い日に

伝道者の書11:8-12:14

11:8 人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。
11:9 若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。
11:10 だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。
12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。
12:2 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。
12:3 その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。
12:4 通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。
12:5 彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。
12:6 こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。
12:7 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。
12:8 空の空。伝道者は言う。すべては空。
12:9 伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探求し、多くの箴言をまとめた。
12:10 伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。
12:11 知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。
12:12 わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。
12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
12:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

 敬老の日、おめでとうございます。私たちの教会では、私たちの先輩のクリスチャン、またご高齢の方々に敬意をあらわし、神の祝福を祈る、敬老礼拝を、毎年10月の第三の日曜日に持っています。今年も、皆さんが、お元気で、こうしてご一緒に礼拝を守れることを本当に感謝しています。

 新聞の川柳の欄に「この年齢(とし)になったの生まれてはじめてよ」という一句がありました。確かに、どなたも、誕生日がやってきて、ある年齢になるのは、いつでも「生まれてはじめて」のことです。六十台から七十台、七十台から八十代と、年齢を重ねていくだけでなく、その年齢、その年代でなければ味わえないもの、見出せないもの、何か新しいものがきっとあるはずです。どの年齢になっても、生まれてはじめて迎える自分の年齢にチャレンジしていきたいものです。そこで私も一句。「どの年齢(とし)もチャレンジに満ち新しく」

 一、老いの姿

 とは言え、肉体は年齢とともに衰えていきますので、からだをいたわることも忘れてはなりません。英語のジョークにこんなのがあります。

 "I am now seeing five gentlemen every day. As soon as I wake up, WILL Power helps me get out of bed. Then I go see JOHN. Soon CHARLIE Horse comes along, and when he is here, takes a lot of attention. When he leaves, ARTHUR Ritis shows up and stays the rest of the day. He doesn't like to stay in one place very long, so he takes me from joint to joint. After such a busy day, I'm rally glad to go to bed with BEN Gay. What a life!"

 日本人にはちょっと説明が必要でしょう。年をとってからは、誰も毎日五人の紳士たちに出会うというのです。最初は Will Power (意志の力)さんで、年をとると「よっこらしょ」と気合を入れて起きなければいけませんから。次は John で、これはトイレットという意味です。トイレが近くなって困ります。それからやってくるのが Charlie Horse さん、つまり、肩や背中の痛みです。そして Arthur Ritis (神経痛)さんは一日中、あちらこちらと動きまわってくれます。そして夜寝るときは Ben Gay (サロンパス)といっしょというわけです。ほんとうに "What a life!" と言いたくなりますね。

 実は聖書にもこれと似たものがあります。それが、今朝の聖書、伝道者の書12:1-7です。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。」ここには、人間の体が年とともに衰えていくようすが描かれています。

 「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう」というのは年をとって体の自由が利かなくなり、心がふさいでしまう状態をさしています。毎日、毎日曇り空、雨空が続くと、誰も憂鬱になってしまいます。「家を守る者は震え」というのは、手足のことです。体は足から衰えると言いますが、手足に力がなくなってしまう状態をさしています。「力のある男たちは身をかがめ」というのは、背骨が曲がって、体が前かがみになってしまうことです。「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」というのは歯のことです。年をとると、歯が一本抜け、二本抜け、やがて食べ物を噛み砕くことができなくなり、やわらかいものだけを食べるようになるので、歯の仕事がなくなるというのです。「窓からながめている女の目は暗くなる」というのは、すぐわかりますね。これは目のことです。目の水晶体が曇って、ものがかすんで見えなくなるというのです。「通りのとびらは閉ざされ」というのは、便通が悪くなること、「臼をひく音も低くなり」は、食欲が衰えて、胃が食べ物をこなすことも少なくなることをさしています。「人は鳥の声に起き上がり」というのは、老人性不眠症で、年をとると朝早く目がさめるようになることを言っています。「歌を歌う娘たちはみなうなだれる」というのは、耳が良く聞こえなくなることを言います。年をとりますと、小さい声が聞こえなくなるばかりでなく、聞こえる周波数の幅がずいぶんせまくなるのです。ですから、男の人の声は聞きにくいが女の人の声なら聞こえる、あるいは、男の人の声は聞こえるが、女の人の声は聞こえないということになり、歌を歌う娘たちは歌っても聞いてもらえず、うなだれるのです。「高い所を恐れ、道でおびえる」というのは老人性不安症をさします。「アーモンドの花は咲き」というのは白髪になることを意味します。アーモンドの花は冬、白い花を咲かせることからこういう比喩が生まれたのでしょう。「いなごはのろのろ歩き」というのは精力の衰えを表わします。「ふうちょうぼく」は、アビヨナという植物で、食欲増進に役立つと言われています。「花を開く」と訳されていることばは「はじける」とか「破れる」という意味があって、「無駄になる」「役立たない」ということを表わしているようです。特効薬も役に立たないというのです。

 なんだかわびしい限りですが、聖書には「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(コリント第二、4:16)という言葉もあって、キリストを信じる者たちは、神からいただいた新しい命をによって内側はいつも新しくされていくとありますから、感謝ですね。

 二、死の姿

 伝道者の書は、人が年を老いて、体が衰えていく様子を比喩で描きましたが、それだけでなく、人生の最後に死が訪れるというところまで、描き続けます。五節後半から見てみましょう。五節の後半は比喩から現実のことばに変わっています。「だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る」とあるのは、人々が嘆きながら、亡くなった人を葬るため、墓場に向かっていく様子を描いています。ここが比喩で描かれていないのは、死がどの人にも避けることのできない現実であることを、はっきりと示すためです。

 六節ではふたたび比喩に戻ります。「こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる」というのはどれも死を表わします。泉や井戸の水は命を表わしています。銀のひもに金の器をつけて水を汲もうとしても、銀のひもが切れたら命の水を汲むことができず、金の器が壊れたならその水を保っていることはできません。泉があっても水がめが壊れてしまったら、井戸があってもその滑車が壊れてしまったら、同じように、水を汲み上げることはできません。そのように、私たちは、いつか肉体の命を失ってしまうのです。これは、あまり考えたくないことですが、しかし、確かな現実です。

 七節の「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」というのは「死」とは何かを教えています。死とは「体とたましいとが分離すること」と定義することができるでしょう。死によって私たちの何もかもがなくなってしまうのではなく、たましいは残るのです。私たちのからだは、もともと土のちりから作られました。ですから、やがて土のちりに帰ります。しかし、私たちのたましいは神のもとに返ります。だから、私たちは、死を真剣に考えなければならないのです。もし、死によって私たちの存在がすべて終わってしまうなら、考えようによっては死ぬことはあまり恐いことではありません。死が私たちの存在の終わりなら、私たちが存在している時は死は存在しておらず、死がやってくる時には私たちは存在していないのですから。しかし、事実は違います。私たちは死に直面し、それを体験し、そして死後、神の前に出なければならないのです。だから、私たちは死を恐いと思うのです。

 三、人生の姿

 伝道者の書が、このように老年や死を克明に描いてきたのは、なぜでしょうか。それは、老年になった者たちばかりでなく、若い者にも、すべての人に、人生を真剣に考えさせるためです。詩篇に「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10-12)とあります。「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」というのは、人生の残りの日々に限りがあり、やがて、神の前に立たなければならないということを覚えていられますように」との祈りなのです。ガンジーは「明日死ぬかのように生きよ」と言い、日本には「一日一生」(今日一日が一生涯であるかのように生きる)という言葉もあります。私たちは、自分の人生をそのように真剣に考えているでしょうか。

 伝道者の書は、人生の意味を探求し続けた人が書いたものです。「伝道者」と呼ばれる人は、今で言えば、哲学者のような人ですが、知恵、知識、富、快楽、名誉、などありとあらゆるものを追求し、人生のあらゆる事柄を考え抜いてきました。そして、彼が到達した結論が11章8節からの言葉です。「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」伝道者は、若い人は若い人らしく、大いに人生にチャレンジし、それを楽しめと言っています。確かに、神は、私たちにそれを楽しむようにとそれぞれの人生をお与えくださいました。しかし、若いうちに蒔いたものは、老年になって刈り取らなければならないことを知っていなければなりません。若い時をどう生きたかは、その後、中年になり老年になった時の人生を大きく左右します。若い時ばかりでなく、どの年代でも、人は自分の蒔いたものを刈りとらなければなりません。老年になって蒔いたものも、それはやがて永遠で刈りとることになります。この地上で蒔いたものは、神の前に出る時、刈り取らなければなりません。だから、伝道者は「若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」との警告を与えているのです。

 そして伝道者が、私たちに教える最善の道は、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」です。どのぐらい、若い時にでしょうか。若ければ若いほど、早ければ早いほど良いのです。それだけ残りの生涯が豊かになるからです。年配になってから信仰を持った多くの人が「どうしてもっと早く神を信じなかったのだろう」と悔やんでいます。しかし、どんなに高齢になっても遅すぎることはありません。今日は75歳以上の方々の長い人生を共に祝う礼拝ですが、神が皆さんを80歳、90歳まで生かしていてくださったのは、神を信じ、神に従い、神に仕える機会をそんなにも長く与えられてきたということで、神の特別な愛が注がれているゆえと思います。どうぞ、この特別な機会を逃さず、長い年月の間注がれてきた神の恵みをむだにすることの無いよう、神を信じ、キリストに従っていただきたく思います。

 「創造者を覚える」というのは、私を造り、私を生かし、私を救い、私を支えてくださっている神を信じて生活するということです。信仰を持つのは、地上の生涯を終えてからでは遅いのです。その時になってから「神さま、あなたを信じますから、私の罪をゆるしてください」と言っても、その時には神に出会うわけですから、神を信じるも信じないもないのです。神を直接見ることは出来ない今だからこそ、神を信じるか信じないかが問われ、信仰が価値あるものとなるのです。今、この地上で、神を信じる信仰を神は喜んでくださり、その信仰があるなら、私たちは、神に会う時を平安をもって迎えることができるのです。地上で蒔かれる信仰の種はどんなに小さいものであっても、それはかならず永遠にいたる豊かな実を結びます。「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。」今日の、この時が、私たちの創造者を信じる日、キリストに従う時であるよう、心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神さま、今年もこのように敬老礼拝を守ることができ、ありがとうございました。伝道者の書が言うように、もし、あなたへの信仰がなければ、若さもむなしく、また人生もむなしいものです。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、イエス・キリストによって豊かな人生を送ることができます。今朝の礼拝に集う、若いものも、老いたものも、ともに、キリストにある豊かな人生にあずからせてください。救い主キリストの名によって祈ります。

10/21/2001