主を忘れないために

申命記6:4-12

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6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。
6:10 あなたの神、主は、あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かって、あなたに与えると誓われた地に、あなたをはいらせられる時、あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、
6:11 あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。
6:12 その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。

 日本には「忘年会」という習慣があります。酒を飲んで、大騒ぎして一年の恨み、つらみを発散するのです。しかし、わたしたちの人生には、忘年会などのイベントでは忘れることができない辛いこと、悲しいことが多くあります。忘れようと努力しても忘れられず、何年もそれをひきずってしまうようなこともあるでしょう。そんなとき、わたしたちの心をいやすのは、「忘れる」ことではなく、主を「覚える」ことです。詩篇103:2に「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(新改訳)とあるように、聖書はわたしたちに「忘れること」ではなく、「覚えること」を命じています。

 一、主を覚えるための努力

 今朝の箇所にも、「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め」(6節)、「エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない」(12節)とあって、「覚える」ことが命じられています。この箇所は申命記6:4の最初のふたつのヘブライ語から、「シェマー・イスラエール」と呼ばれています。ユダヤの教育では、子どもに最初に覚えさせるのがこの箇所です。家庭では夜寝る前に「シェマー・イスラエール」を唱えさせて子どもたちを寝かせます。

 また、ユダヤの人たちは「あなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとしなさい」(8節)といういう言葉を文字通り実行しています。テフィリンという小さな箱に、申命記6:8、出エジプト13:9、13:16、それに申命記11:18を書いた紙を入れます。テフィリンは、手と額の両方につけます。まず、左手を腕まくりして、テフィリンを力瘤のできるところに置きます。それから、肘から下の腕にテフィリンについている皮ひもを時計回りに七回巻きつけます。それが終わると、今度はもうひとつのテフィリンを額につけ、それをゆわえてある紐を胸のところにたらします。額にテフィリンをつけ終わったら、腕につけたテフィリンのひもを中指に巻きつけます。じつに面倒な作業ですが、ユダヤの人々はそれを厭わずに行いました。私は、イスラエルに行ったとき、同じ飛行機に乗っていたユダヤの男性が、朝の祈りの時間に飛行機の中でテフィリンを身に着けて祈りをささげているのを見、その熱心さに感心し、アメリカに来てレージーになっていた自分を反省しました。

 ユダヤの家庭では、家の入り口にメズザーと呼ばれる箱を取り付けます。メズザーとは「門柱」という意味で、9節の「あなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」という言葉から来ています。この中には、羊の毛皮をなめしたものに申命記6:4-9と11:13-21を書いたものが入っています。メズザーは門柱だけでなく、家のそれぞれの部屋やバスルームにまでも取り付けられます。人々は、家に入る時も家から出る時も、また、それぞれの部屋に入る時も出る時も、指でメズザーに触れます。それによって、主がその家を守ってくださること、どこにでも主が共にいてくださることを覚えたのです。

 ユダヤの人々は、こんなにしてまで、神の言葉を覚え、主を忘れないようにと努力しました。その努力に、わたしたちも見習いたいと思います。わたしたちも、礼拝を守り、聖書に親しみ、日々の祈りを欠かさないようにしたいと思います。聖書は、せめて一度は全巻を通して読み、どこに何が書かれているかを知っていたいと思います。大切な箇所は暗記して唱えたり、そこをすぐに開けるようになっていたいと思います。

 二、主を覚えることの意味

 しかし、ユダヤの人々は、その努力にもかかわらず、主を忘れ、主のお心から遠く離れてしまいました。シェマーを唱え、テフィリンを身につけ、メズザーに触れることが、いつのまにか形式的なものになってしまったのです。神の言葉そのものよりも、そこから作り出した、何千、何万という律法を守ることのほうが大切になり、それを守ることによって神の国に入ることができると考えるようになりました。これを「律法主義」と言います。規則を守り、秩序正しく生活することは良いことであり、必要なことです。しかし、「律法主義」というのは、律法守ることによって自分を救おうとすることで、そこでは、神のあわれみに感謝したり、その恵みに信頼することが忘れられてしまいます。神に愛され、神を愛し、神に信頼し、謙虚に神と共に歩むという、いちばんたいせつなものが見逃されてしまうのです。

 ある時、律法学者のひとりがイエスに「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と質問しました。イエスの答えはこうでした。

「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。(マタイ22:36-40)
律法学者は、イエスから何か特別な答えを期待しましたが、イエスは、ユダヤの人なら子どもでも知っている「シェマー・イスラエール」を引いて、これがあらゆる律法の基礎になっていると答えられました。人々は「シェマー・イスラエール」を子どもに唱えさせ、テフィリンを身につけ、メズザーを家や部屋の入り口に取り付けているのに、肝心の「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:4-5)という言葉そのものを忘れてしまっていたのです。自分たちがエジプトで奴隷であったとき、神がどんなに深く自分たちをあわれみ、大きな力でそこから救い出し、荒野の旅を導き守ってくださったかを忘れていました。救いが神の恵みによること、したがって、救われるために必要なことは神の恵みに応答する信仰、信頼であることを見失っていたのです。律法は本来は、神の恵みとわたしたちの信仰を教えるものなのに、人々はその本来の意味を誤解し、見逃していました。イエスは、律法を否定されたのではなく、律法についての人々の思い違いを正し、律法の本来の意味を教えてくださったのです。

 ユダヤの人々は神の言葉について大きな思い違いをしていましたが、わたしたちクリスチャンは大丈夫でしょうか。現代の社会には「愛があれば何をしてもよい」という風潮があり、クリスチャンもそれに影響されています。しかし、聖書は「愛は…不作法をしない、自分の利益を求めない、…不義を喜ばないで真理を喜ぶ」(第一コリント13:4,5)と教えています。本当の愛は「愛があれば何をしてもよい」という身勝手なものではありません。神は、わたしたちにしなければならないこと、してはいけないことをはっきりと教えおられます。初代教会にもいくつかの決まりがあり、制度があり、慣習がありました。それを無視して行動していたクリスチャンに、使徒パウロは「そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない」(第一コリント11:16)と言って、それを戒めています。ほんとうに神を愛し、他の信仰者たちを愛し、人々を愛するなら、神の戒めを、イエス・キリストと教会の教えを守るはずです。そうすることが、神を愛し、人を愛することになるからです。「わたしたちは律法から自由なのだから、自分の思いどおりに行動して良い」という考え方を「無律法主義」と呼びます。これは「律法主義」と同じように間違っています。「無律法主義」では、ものごとの善悪を決めるのはその人の主観によるわけですから、そこには主権者である神への畏敬や真理への従順が無いのです。わたしたちは「律法主義」、「無律法主義」のどちらの間違いにも陥ることがなく、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」といういちばん大切なことをしっかりと心に刻みたいと思います。

 三、覚えることと覚えられること

 「神の言葉」、それは単なる規則集でも教訓の書でもありません。それは、神からわたしたちに与えられた「愛の手紙」です。事務的な手紙や、苦情の手紙、催促の手紙などは別として、ふつう、わたしたちが誰かに手紙を書いたり、カードを送ったりするときは、その人への愛を伝えるために書きます。同じように、神の言葉のひとつひとつには、その背後に神の愛があるのです。聖書に「愛によって真理を語れ」(エペソ4:15)とあります。そう命じておられる神ご自身が、わたしたちに愛によって真理を語っておられないはずがありません。神は、神の言葉を聞くわたしたちが、そこにあらわされている神の愛に触れるようにと望んでおられるのです。

 神は、わたしたちに「神を覚えよ」、「主を忘れるな」とおっしゃる前に、神がわたしたちを覚えていてくださる、わたしたちを決して忘れないと、言っておられます。

ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。(イザヤ44:21)

女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。(イザヤ49:15-16)
「たなごころ」というのは「手のひら」のことです。神は、その手のひらの中にわたしたちを刻み込んでくださるというのです。神の力の御手に握りしめられている、これ以上の安全、安心はありません。わたしたちは、「わたしは神に忘れられることはない」ということを信じ、そのことを心にしっかり刻みたいと思います。

 主イエスは「わたしを覚えて、これを行いなさい」(第一コリント11:24-25)と言って主の晩餐を定められました。たしかに、主の晩餐は、わたしたちが主を覚えるためのものです。しかし、それと同時に、主の晩餐は、主がわたしたちを覚えていてくださることを覚えるものでもあるのです。

 主イエスが十字架にかけられたとき、ふたりの強盗も、主の右と左に十字架にかけられました。ゴルゴダの処刑場には三本の十字架が立てられたのです。そのふたりの強盗のうちのひとりが自分の目の前で苦しむイエスのお姿を見て、この方こそ救い主に違いないと確信しました。そして、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)と言いました。その顔形さえ変わるほどに痛めつけられ、十字架の上で息も絶え絶えになっている人を救い主として信じるというのはじつに驚くべきことです。しかし、十字架には人を信仰に導く力があります。この強盗のようにわたしたちも、心の目で十字架のイエスを間近に見、心の耳でイエスが十字架から語られた言葉を聞くなら、イエスを信じないではおれなくなると思います。この強盗のイエスへの信仰は驚くべきものですが、主のお答えはもっと驚くべきものでした。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」(ルカ23:43)今までさんざん悪事をくりかえしてきたこの強盗に、イエスはなんと、天国を約束されたのです。主は、まごころから「わたしを覚えていてください」と願う者を決してお見捨てにならないのです。

 ですから、わたしたちも、この強盗と同じように、「わたしを覚えていてください」と願うのです。主の晩餐でパンを受け、杯をいただくとき、「主よ、わたしはあなたを覚えます。あなたもわたしを覚えていてください」と祈ってよいのです。十字架に釘付けられた主の手には、今も、その釘跡があります。その手の釘跡は、わたしが罪から救われるためのものでした。さきほど「見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」という言葉を引きましたが、主イエスは、あの十字架の釘によってわたしたちを、その手のひらに彫り刻んでくださったと言ってよいと思います。ですから、主の晩餐を守ったあとには、「主よ、あなは、十字架の釘跡とともにわたしを手のひらに刻み、覚えてくださっています。あなたに覚えられていることを、わたしが忘れることのないように助けてください」と祈ることができるのです。

 「主を忘れるな」、「主を覚えよ」との神の愛の言葉に、礼拝で、主の晩餐で、日々の歩みでお答えしていく、この一年でありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちを、覚えて忘れない、あなたの愛、あわれみ、また真実を心から感謝します。どうぞそのことを週ごとの礼拝、月ごとの晩餐式、また、日々の祈りによってわたしたちの心に刻んでください。あなたに覚えられ、あなたを覚える幸いにわたしたちを導いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

1/4/2015