意志をあけわたす

申命記30:11-20

オーディオファイルを再生できません
30:11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
30:12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
30:13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
30:14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
30:15 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。
30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。
30:17 しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、
30:18 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
30:20 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

 アメリカには一千万人のアルコール依存症と五千万人のニコチン依存症の人がいるといわれています。アルコールとニコチンが原因で亡くなる人は年間四十五万人あるそうです。四千万から八千万とも言われる人々が過食症で悩んでおり、体重を減らすために200億ドルのお金が使われています。世界には食べ物がなくて困っている人が八億五千四百万人いるのに、肥満で悩んでいる人が十億人を超えているのですから、何かおかしいですね。アメリカには、千二百万人のギャンブル依存症、そして、数多くのクレディット・カード中毒の人がおり、数えきれない人たちが、おとなからこどもに至るまでさまざまな依存物のために時間とお金を浪費し、人生をすり減らしています。怒りや虚栄、他の人への非難や過干渉なども、依存物になります。人への親切や仕事も、それが正しい動機で行われないと、コデペンシィや仕事中毒という依存物になることがあります。依存物に捕らえられている人には、かならず、未解決の問題やいやされていない傷が心にあります。そこから来る良心の責めや、むなしさをまぎらわせるために、依存物に向かうのです。

 「12ステップ」は、聖書に基づいた依存症からの解放のみちしるべです。第一のステップは「私は、自分の依存症にたいして無力であることと、自分の生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」、第二のステップは「私は、自分よりもすぐれた力が私を正常にもどしてくれることを信じました。」でした。第二のステップでは「自分よりも偉大な神がおられ、神は私の問題を解決する力があるばかりか、それに苦しむ私たちをあわれんでいてくださる」ことを学びました。ここに問題に苦しむ私がおり、問題を解決してくださる神がおられる。しかし、それだけでは、人は依存物から解放されず、いやされることはありません。「12ステップ」の第三は、「私は、私の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」です。自分の問題を神に任せてはじめて問題が解決に向かうのです。問題は放っておいても自然になくなることはありません。自分の問題に向かい合い、それを神に任せることがなければ、依存症は悪くなることはあっても、良くなることはありません。ある人がこう祈りました。"Lord, Help me. I'm in trouble."(私は問題の只中にいます。助けてください。)すると、主は答えました。"My friend, you are not in trouble. You are the trouble."(あなたが問題の中にいるのではない。あなた自身が問題なのた。)多くの場合、とくに依存症の場合、問題はどこか他のところにあるのではなく、その人自身にあるのです。ですから、問題を神に任せるとは、自分自身を神に明け渡すことと同じことなのです。

 しかし、意志と生活を明け渡すとは、具体的にどうすることでしょうか。「明け渡す」というのは、「なるほどなるほど」と頭だけでうなずくことは違います。うわべだけを真似て行動することでもありません。まして、何も考えないで成り行きにまかせることでもありません。明け渡すとは、選択することであり、服従することであり、信頼することです。

 一、選択する意志

 明け渡すとは、第一に選択することです。人生は選択です。私が、そう言いましたら、ある母親が、「そうなんですよ。うちの三人の男の子はみんなサッカーをやっていて、毎日泥だけになって帰ってくるんですよ。一日に何度も洗濯していますよ。」と言いましたが、この「センタク」は「選び取る」という意味の「選択」で、ランドリーの「洗濯」ではありません。私たちは、意識しょうがしまいが、瞬間瞬間何かを選びとって生きています。今、教会に来ている皆さんは、教会に来ることを選択したので、ここにいるのです。昼まで寝ていることも、家の掃除をすることも、ショッピングに行くこともできた中で、教会に来るということを選びとったのです。

 時々、「礼拝に来れなかった。」ということばを聞きますが、本当は、「礼拝に来れなかった。」のではなく、「来なかった。」のではないでしょうか。病気や事故などで礼拝に出ることが不可能だったのではなく、礼拝以外のものを選択して礼拝にこなかったのではないでしょうか。もし、私たちが礼拝を選択するなら、神はそれを可能にしてくださいます。やむを得ない用事があったので、ある人は朝八時の礼拝を守ってから、その用に向かいました。ある人は、朝六時半に私といっしょに短い礼拝を守ってから、出張に出かけました。土曜日の夕方からの礼拝は日曜日の礼拝とみなされますので、どうしても日曜日がだめなら、土曜日の夕方に礼拝を持つこともできます。礼拝を第一に選び取ってしまえば、礼拝に出る道が開かれるものです。よく、「気持ちがあれば出来る。」と言われますが、私たちは好きなことをするときには、時間をかけて準備し、当日は朝早く起きたりするなど、少々の無理なことでもするではありませんか。どうしていちばん大切な礼拝のために備え、その日を守るために努力しないのでしょうか。礼拝を守りたいという思いがあれば、今は、礼拝を守ることが困難でもかならず道が開かれていきます。たとえ、今週礼拝に出ることができなかったとしても、「次週は礼拝を守れますように。」と、あきらめないで祈り続けましょう。私たちも、礼拝を守るのに困難を覚えている人々のためにとりなしの祈りをもって支えてあげましょう。

 礼拝ばかりでなく、神に従うことは、自動的にできることではありません。意志を働かせて、瞬間、瞬間、神のみこころを選びとっていかなくてはなりません。私たちの人生には、「何が神のみこころだろうか。」と迷うことや、真剣に神のみこころを探り求めなければならない時があります。しかし、たいていの場合、神のみこころは、誰にも分かるように示されています。申命記30:15に「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。」とあります。神は、私たちの前に「いのちと幸い」、「死とわざわい」の二つを置かれました。このふたつは、まったく正反対のもので、誰が見ても、はっきりと違いがわかるものです。神はなんの曖昧さもなく、何がいのちであり、何が死かを示しておられす。私たちのしなければならないことはいのちを選ぶことです。

 世界には二種類の人がいると言われます。サーモメータ(温度計)のような人とサーモスタット(温度調節器)のような人です。サーモメータは温度が上がれば目盛があがり、温度が下がれば、目盛が下がるだけです。サモーモメータのような人は、回りの環境にコントロールされているだけの人です。しかし、サーモスタットは、気温が上がれば冷房をつけて部屋を涼しくし、気温が下がれば暖房をつけて部屋を暖かくします。環境にコントロールされるのでなく、自分でスイッチを切り替えて、環境をコントロールしていくのです。私たちも、神のみこころを選び取っていくなら、神の力によって、自分を変え、まわりを変えていくことができるようになります。自分の意志を用いて、神のみこころを選び取りながら生きていく、これこそが本当に自由な生き方です。神は「あなたはいのちを選びなさい。」と言われ、私たちに意志を用いて選択するよう命じておられます。ここに依存物からの解放、問題の解決があるのです。

 二、服従する意志

 意志を明け渡すとは、第二に、神に服従することです。自分を神の命令の下におくことです。私たちは、今日、ほとんど制約のない生活をしています。どこに誰と住み、何を着て、どんな生活をしようと、誰もかまいません。特に、現代のアメリカではそうです。それで、「命令」という言葉や「服従」という言葉は、人々の間で嫌われるようになりました。神は私たちに「こうしたほうがいいよ。」と勧めることはあっても、「こうしなさい。」と命令することはないと誤解している人が大勢います。何の命令もなく、どんな服従も要求されない社会は、理想的に見えますが、人間に罪があるかぎり、自己主張と自己主張がぶつかりあい、そこは混乱と争いの世界となることでしょう。政府に命令する権限がなく、国民に服従する義務のない国は立ち行きません。指揮官が命令できず、兵士が服従しない軍隊は、たちまち敵に滅ぼされてしまいます。皆さんは職場で、上司の命令に聞き、それに服従して仕事をしているではありませんか。神の国もまた、神のご命令に私たちが服従することによって成り立っています。神は天の主です。神は天使たちに命じ、天使たちは神の命令のままに働き、仕えています。また、神はこの世界に法則を与え、それを支配しておられます。詩篇は「主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。…主があらしを静めると、波はないだ。」(詩篇105:25、29)と言い、ヨナ書には「主は、大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。…主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」(ヨナ1:17、2:10)と書かれています。イエスは、嵐で荒れ狂っている湖に「黙れ、静まれ。」(マルコ4:39)と命じ、波と風をしずめました。主は中風の人にも「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」(ルカ5:24)と言って、命じられました。天使たちを従え、自然界に法則を定めたお方が、人間に命令をお与えにならないわけがありません。天も地も神の命令に服従して秩序を保っているように、人もまた神の命令に服従することによって本当の幸いを得るのです。神のことばの大部分は命令です。それは、聞いても聞かなくてもよい、守っても守らなくてもよいものではありません。それは、聞かなければならないもの、守らなければならないものです。

 しかし、神はなぜ、私たちに命じられるのでしょうか。神の命令は、私たちから自由を奪うものなのでしょうか。いいえ、むしろそれは、私たちを罪から解放し、自由を与えるものです。申命記30:17-18に「しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。」とあります。私たちの造り主、また、救い主であるお方に逆らって、私たちにはどんな幸いもありません。それどころか、私たちの人生の先に待っているのは、滅びなのです。道路に崖崩れがあったら、ポリスが飛んできて、その道路を閉鎖し、通行禁止の命令を出すでしょう。命令は人々を守るためにあるのです。先週、私たちの近所の銀行で爆弾騒ぎがありました。ポリスが人々を銀行の外に出し、爆弾処理が終わるまでは、誰も近づいてはいけないと命じました。「危なくないと思う人は、側にいてもいいよ。」などとは言いません。みなさんも、こどもが危ないことをしている時には、「だめ、してはいけない。」と命じるでしょう。神の命令は私たちから自由を奪い取るもの、私たちを圧迫するものではありません。神が私たちに何かを命じられるのは、私たちを災いから救い出し、苦しみから解放するためなのです。

 人間には自由があります。神の命令に従うこともできれば、それに逆らうこともできます。これを取るかあれを取るか、右に行くか左に行くかという選択の自由があります。しかし、どんな選択も結果が伴います。神に従うなら、命とさいわい、祝福があります。しかし、神に従わないなら、そこには死とわざわい、のろいがあります。私たちには選択の自由はあっても、選択の結果を選びとる自由はありません。だからこそ神は、「あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)と命じられるのです。「死」と「いのち」を目の前に示されたなら、誰もが間違いなく「いのち」を選びますね。手術を受ければ必ず命が助かるという病気なら、皆さんはためらわず手術を選択するでしょう。ところが、霊的な死といのちとなると、人々は態度をあいまいにするのです。曖昧にしておいてもたいしたことはないと思ってしまうのです。地上のいのちはつかの間のこと、霊的ないのちは永遠のものであるのに、そのことを考えないのです。「あなたはいのちを選びなさい。」神は必死になって私たちに呼びかけておられます。神は、私たちの意志に逆らい、自由を奪って無理矢理に何かをさせることはありません。神は、私たちの意志を尊重し、選択の自由を与えておられます。この自由を「あなたはいのちを選びなさい。」という命令に従うために用いましょう。そのとき、そこにいのちとさいわい、自由と祝福を見ることができるようになるのです。

 三、信頼する意志

 「意志を明け渡す」とは、第三に、神に信頼することです。神に従っていないと恐ろしい目に遇うからという恐怖心からだけで、神に従い続けることはできません。恐怖心というものはすぐに薄れ、平穏な日々が続くと、人は、やがて神にから離れてしまうからです。恐怖心から神に従うのは、決して意志によるものではなく、感情によるものです。感情からだけの行動には、ムラがあり、やがては消えていきます。しかし、信頼することは、意志を用いることであり、意志によるものは長く続くのです。

 聖書は「あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)と言った後で、それは、「あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるため」(申命記30:20)だと言っています。「主を愛する」、「御声に聞き従う」、「主にすがる」ということばはどれも、私たちの神への信頼を表したことばです。恐怖心からだけで神に従うことは、「主を愛する」こととはほど遠いものです。神の命令を表面的に守っていればそれで良いとすることは、「御声に聞き従う」ことに反することです。自分の力で神の命令を守りとおしてみせると頑張っていることは、「主にすがる」ことと矛盾します。聖書が私たちに教えることは、たとえ、たどたどしい歩みであっても神を愛して進んでいくことであり、たとえ小さなことしか出来なくても神のことばに聞き従って歩むことであり、どんなに失敗したとしてもひたすらに神のあわれみを求めて生きていくことなのです。

 「申命記」の「申命」というのは「再び命じられた律法」という意味です。エジプトから救い出された人々は、神から直接律法を授かりました。しかし、その世代の人々は、主を愛さず、主の御声に聞き従わず、主にすがりませんでした。それで、約束の土地に入ることができず、荒野で死に絶えてしまいました。そのかわりに、そのこどもたち、次の世代の人々が、約束の地に入ることになりました。しかし、新しい世代の人たちは、出エジプトの後に生まれたり、荒野で育ったりした人たちで、神の救いを直接見ておらず、神のことばを直接聞いてもいません。自分の親たちと同じ失敗を繰り返して、約束の地から追い出されないために、彼らは、もう一度、神のことばを聞かされ、律法を教えられる必要があったのです。申命記というと、「これをしてはいけない。あれをしてはいけない。」という戒律の書物だと思われがちですが、申命記で繰り返されているのは、律法の中心である神への愛、みことばへの従順、主への信頼です。古い世代の人々が荒野で滅びたのは、儀式や生活の戒律を守らなかったからではなく、心の戒律を守らなかった、神に信頼しなかったからでした。申命記は新しい世代の人々に、古い世代の人々と同じようになってはいけない、あなたがたは神に信頼しなさいと、教えているのです。申命記30:20に「確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」とあります。「主はあなたのいのち」というのは、たんなる戒律のことばではありません。詩篇の中にでも出てきそうな、神と人との深い人格のまじわりをあらわすことばです。神が私たちに求めておられるのは、じつに、主が私たちのいのちとなるような、そのような神への信頼です。

 「私は、私の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」これが、12ステップの第三番目のステップです。12ステップはけっして戒律的な教えではありません。それは、なによりも、神への信頼を教えています。人は、自分の意志と生活とを神に明け渡すまでは、神に喜ばれる正しい生活を送ることはできません。神への信頼が最初にあって、それから行いが続くのです。神は、私たちを、わざわいにではなく、いのちに導こうとしておられます。そして「いのちを選べ。」と命じていてくださっています。この神のことばに従いましょう。問題の解決をあきらめ、成り行きにまかせてはいけません。今の自分の状態がどうあれ、神への信頼から始めましょう。神は神に信頼する者の「いのち」となって、その人を生かしてくださるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちをいのちと、さいわいと、祝福へと導こうとしておられます。あなたは私たちの日々の生活を支え、私たちが地上で良き人生を送り、永遠をあなたの御国で過ごすようにと、イエス・キリストによる救いを備えてくださいました。あなたが私たちに求めておられるのは、私も救われたい、問題を解決したい、永遠を神とともにいたいと、自分の意志をもって願い、求めることです。私たちは、あなたのみことばに聞き従い、救い主イエス・キリストを信じ、あなたに信頼します。今朝、私たちはひとりひとり「私は、私の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」と告白します。ひとりびとりのこころからの決心を受け入れ、私たちの人生を導いてください。救い主イエス・キリストによって祈ります。

11/11/2007