もしそうでなくても

ダニエル3:13-18

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3:13 そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。
3:15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 一、バビロン捕囚

 先月までイスラエルとユダの滅亡までを学びました。いままでの舞台はパレスチナでしたが、今月から舞台がバビロンに移ります。バビロン帝国のネブカデネザル王はエルサレムを滅ぼし、主だった人々を自分の国に捕らえ移しましたが、これを「バビロン捕囚」と言います。大勢のユダヤの人々がバビロンや、その後バビロンにとってかわったペルシャの地で生活し、そこにダニエルやエゼキエルといった預言者、ゼルバベルやネヘミヤといった政治家、エズラなどの律法の学者が起こされました。聖書はパレスチナだけでなく、バビロンやペルシャの地でも書かれました。また、旧約聖書の大部分が今日のような形にまとめられるようになったのも、おそらくバビロンの地であったと思われます。

 バビロン捕囚から逃れた人々もいて、その一部はエジプトに行き、そこにもユダヤ人のコミュニティを作りました。そのエジプトで、エジプト王の命令により、聖書がヘブライ語やアラム語からギリシャ語に翻訳されました。このギリシャ語訳聖書は初代のクリスチャンによって使われたもので、ヘブライ語の原典を補うものとして、今日も使われています。

 ユダヤの人々には、神の言葉をまわりの国々に伝える使命が与えられていました。ところが、彼らはその使命を果たさなかったどころか、自分たちに与えられた神の言葉をないがしろにしたのです。そのため、外国に散らされるという刑罰を受けたのですが、神は、その刑罰の中にもあわれみを施し、神の言葉、聖書が保存され、翻訳され、世界の人々に読まれるために、ユダヤの人々を外国の地で用いてくださったのです。ユダヤの人々は、神の言葉を世界に広め、人々に救い主の到来を待ち望ませるという、神の民としての使命を果たすようになったのです。

 主は、ユダヤの人々が自分たちの土地を追われ、バビロンに捕らわれ、エジプトに寄留しなければならなくなるという不幸をさえ、世界の救いのために用いてくださいました。歴史を詳しく学ぶと、神のご計画の不思議さに驚きます。そこに表された神の恵みに感謝せずにはおれなくなります。たとえ罪を犯した神の民であっても、主は、その回復を願い、捕囚の地バビロンにまでも共に行ってくださったのです。この主が、今も、私たちがどこにいても、共にいてくださると約束してくださっています。そのことを信じ、このお方を仰ぎ見ることができる幸いを深く感謝したいと思います。

 二、ダニエルと三人の若者

 さて、バビロンに連れ行かれた人々の中に、特別に優れた若者たちがいました。ダニエルと、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの四人です。彼らは、やがてバビロン政府の官吏となるように、特別な教育を受けることになりましたが、その前に、ダニエルと三人の若者に新しい名が与えられました。「ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴ」(ダニエル1:7)です。「ダニエル」という名は「神は審判者」という意味ですが、「ベルテシャツァル」(命を守りたまえ)は神々への祈りの言葉の一部分だとされています。「ハナヌヤ」は「主はあわれみ深い」、「ミシャエル」は「誰が神のようであるか」という意味ですが、「シャデラク」や「メシャク」はバビロンの月の神アクの名前がおりこまれた名前です。「アザルヤ」は「主は助けたもう」という意味ですが、バビロンの神ネボのしもべという意味の「アベデ・ネゴ」と名付けられました。このような名は、四人の若者たちに、自分たちの神を忘れ、バビロンの神々を拝むようにという圧力でしたが、彼らは、そのような名で呼ばれても、主の民であることを強く意識し、偶像の神々に膝をかがめることをしませんでした。

 ダニエルと三人の若者たちにはネブカデネザル王の食卓からの食べ物があてがわれました。王が食べるものですから、それはとびきりのご馳走であったに違いありません。それは、他の人には特権だったのでしょうが、ダニエルと三人の若者たちには迷惑なものでした。ユダヤの人々は、神の民としてのアイデンテティを守るため、食べ物に関する規定を守っていたからです。それでダニエルは、自分たちの世話役に王の食卓から来る肉やぶどう酒を避け、野菜と水だけにしてほしいと願い出ました。しかし、世話役には心配がありました。このユダヤの若者たちが、肉を食べている他の若者たちよりも顔の色艶が悪くなったら、世話役である自分が責められるからです。それで十日の間試しましたが、ダニエルたちの顔色は「王の食べるごちそうを食べているどの若者よりも良く、からだも肥えて」いたので、「彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることに」(同1:15-16)なり、ダニエルの願いは聞かれたのです。

 教育の期間が終わって、ダニエルと三人の若者が王の前に出たとき、その知恵と知識は他の誰にも勝っていて、王の質問に答えることができなかったものは何ひとつありませんでした。それで彼らにはそれぞれに地位と役職が与えられ、王に仕えることになりました(同1:18-19)。

 私たちも母国に帰ると、とくに日本では、仏教や神道の宗教儀式にかならずといって良いほど、関わりを持たされます。一般企業ばかりでなく、お役所にも神棚が祀られていますし、「リニア中央新幹線」などの最先端の技術を用いたものの起工式にも神官が来て、お祓いをするのです。それぞれの家庭には仏壇があり、仏教は祖先崇拝と強く結びついています。まことの神への信仰を持つ者にとっては、そうした中で信仰を守り、それを証しするのは大きなチャレンジです。家族や親族への愛の配慮を怠ってはいけませんが、主への信仰を貫き通す勇気も求められます。私たちも、ダニエルと三人の若者にならって、主に従う道を探り求め、そこで主を証ししたいと思います。主は、主への信仰を守り通す者を、まことの神を知らない人々の地であったとしても、その場所で守り、導き、祝福してくださるからです。

 三、燃える炉からの救い

 やがてダニエルは王宮の学者たちの長官となり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人はバビロン州の事務官となりました(ダニエル2:48-49)。彼らはユダヤ人ではありましたが、王に認められ、その将来を約束されていました。しかし、すべてが順調ではありませんでした。試練の時が来たのです。ネブカデネザル王はドラの平野に黄金の像を造り、その奉献式にバビロンの高官たちを集め、それを拝ませました。ダニエルは王宮にいたためそれに加わりませんでしたが、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人はその奉献式に出なければなりませんでした。三人は奉献式に出ましたが、その像を礼拝しませんでした。それで、この三人をこころよく思っていない人物が、三人を王に訴えて、こう言いました。「王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」(同3:12)

 これを聞いた三人を連れて来こさせ、こう言いました。「もしあなたがたが…ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(同3:15)三人は、王にこう答えました。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(同3:16-17)ネブカデネザルは古代の王の中で最も権力のある王で、誰も彼に逆らうことができなかったと言われています。そのネブカデネザルに「ノー」を言ったのは、歴史の中でこの三人だけだったかもしれません。王の命令に逆らうことは死を意味しましたが、三人は、「もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」と言い切ったのです。

 この三人には捕虜として外国から連れてこられた者には十分すぎるほどの恩典が与えられていました。彼らは一生を安楽に暮らすことができたのです。しかし、彼らは、自分たちの人生がそれだけのものではないことを知っていました。自分たちの人生は神に従うためにあり、自分たちには偶像に満ちた地でまことの神を証しするという使命があることを忘れてはいませんでした。「使命」は漢字で「命を使う」と書きます。三人は、神のために命を使う時は今だと悟ったのです。

 ネブカデネザルは怒りに燃え、三人を縄で縛らせ、炉の火を七倍熱くさせたうえで、炉の中に投げ込ませました。普通なら、この三人はたちまち燃え尽きてしまうはずなのに、三人は縄を解かれて炉の中を歩いていたのです。しかも、もうひとりの人がいっしょにいて三人を火から守っていたのです。それを見たネブカデネザルは驚いて、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい」と言いました。炉から出てきた三人は「その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった」(同3:26)と聖書は言っています。彼らを縛っていた縄だけが燃え、彼らは無傷でした。ネブカデネザルは非常に激しやすい人でしたが、そういう人であるだけに、この奇蹟を見て感動し、こう言いました。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。」(同3:28)そして「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる」(同3:29)と言って、ユダヤの人々の信仰を保護したのです。

 聖書は、「バビロン捕囚」はユダヤの人々にとっては「悩みの炉」(イザヤ48:10)であったと言っていますが、ダニエル3章の出来事は、まさに主が人々を「悩みの炉」から救い出してくださるお方であることを物語っています。私たちもまた、人生の中でさまざまな試練や苦しみという「悩みの炉」に投げ込まれることが、何度かあるでしょう。生きるということは簡単なことではありません。私たちの人生には予期しなかったような出来事が突然起こるものです。前にも進めず、後ろにも退くこともできない。右を見ても左を見ても良い結果など見えないときもあるのです。そのような時、主が捕囚にあったユダヤの人々にしてくださったこと、ダニエルと三人の若者が堅く信仰に立ったこと、そして、主が三人をその信仰に答えて救い出してくださったことを思い起こしたいと思います。

 この三人の若者の身に起こったような奇蹟がいつでも起こるとは限りません。けれども、神の答えが私たちの期待するものと同じでなかったとしても、私たちは神を信じ、神に従い通したいと思います。神は善であり、善を行ってくださいます。最悪だと思えるような時でも、そこから善きものを生み出してくださいます。信仰の決断が悪い結果をもたらすように見えても、「たとえそうでなくても」と、神を信じ、従うところに信仰の勝利があります。私は多くの信仰者がこう言うのを聞いてきました。「あの時は辛かったけれど、大変だったけれど、神を信じることができて良かった。キリストに従うことができたからこそ、今の恵み、幸いがあるのだと思います。」私たちもそのようにして、神の恵みを証ししたいと思います。

 (祈り)

 全世界を治めておられる主なる神さま。あなたは、あなたへの信仰を貫いた者たちを燃える火の炉から救ってくださいました。私たちも、「悩みの炉」に投げ込まれることがありますが、そこにも主は共にいてくださることを信じて、ひたすらにあなたに頼ることができるようにしてください。試練の火が、きよめの炎となって、信じる者をきよめ、あなたにある信仰の幸いをもたらしますように。主イエスのお名前で祈ります。

12/1/2019