祈りの生活

コロサイ4:2-6

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4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。
4:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

 今年の一月から礼拝でコロサイ人への手紙を学びはじめましたが、いよいよ最後の章となりました。使徒パウロは3:18-21で「家庭生活」について、3:22-4:1で「社会生活」について教えてきましたが、最後に4:2-4では「祈りの生活」について教えています。ここでパウロは、祈りに関して三つのことを訴えています。第一に「祈りなさい」、第二に「祈ってあげなさい」、そして第三に「祈ってもらいなさい」です。この三つを順に考えてみましょう。

 一、祈りなさい

 第一の「祈りなさい」というのは、自分のために祈るということです。

 多くの人は、クリスチャンになってはじめて、ほんとうの祈りをするようになったことと思います。それまでは初詣で「家内安全」、「商売繁盛」、「無病息災」などを心に念じたり、神棚や仏壇に手を合わせるようなことがあったとしても、朝に、夕に、また、ことあるごとに15分、30分と膝を折って神と語り合うような祈りはなかっただろうと思います。クリスチャンになってはじめて、確かな祈りが生活の中に入ってきたのです。最初のうちは、日ごとに祈る、ことあるごとに祈るということがなかなか出来なくて、ストラグルすることがあったでしょうが、信仰生活を続けていくうちに、祈りが生活の一部となり、生活の指針になってきたことでしょう。

 そして、そのように祈る人々が集まる教会では、どんなことをするにも祈りで始め、祈りで終わるようになります。何人かで何かの話題を話していて、ずいぶん盛り上がったとしても、最後は静かな祈りで閉じられるようになります。私は、アメリカの神学校で勉強して感動したことがいくつかありますが、そのひとつは、授業の始まる前に学生たちがここ、かしこで、ふたり、三人で祈りあっている姿でした。また、アメリカの教会では、たいてい、礼拝が終わると、皆さっと礼拝堂から出て、ソーシャルホールに移るのにも感心しました。礼拝堂でおしゃべりしている姿はほとんど見られません。礼拝堂に残っているのは、ひとりで祈っている人たち、二、三人で互いに祈り合っている人たちだけでした。ほんとうに教会は「祈りの家」だと思いましたが、教会が「祈りの家」になるのは、そこに、そうした「祈りの人」がいるからなのだと思いました。

 聖書は「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」と教えています。「たゆみなく祈る」というのは、何もしないで一日中祈っているということではありません。できるかぎり多くの時間を祈りに費やすことができたら、それは素晴らしいことですが、職場で時間を縛られている人たちには、とても難しいことです。主婦は家にいて、時間があると思われがちですが、家庭の仕事は、やりだせばきりがなく、家庭という職場で働く主婦の勤務時間はほとんど丸一日と言ってよいでしょう。では、退職している人は、一日中祈ることができるかというと、そうでもなく、健康管理のためのあれこれや、病院通いも多くなります。それでも、一番時間的に余裕のある方々かもしれません。そういう方々が率先して教会の祈りのチームに加わってくださればと思いす。祈りのつどいに課題を持ち寄って祈り、また、そこから課題を持ち帰って家庭で祈って欲しいと思っています。

 しかし、祈りはたんに時間があるからできるというものではなく、コミットメントがなければ出来ないことです。これは、逆に言えば、コミットメントがあれば、たとえまとまった時間を取れない人でも祈ることができるということです。どんなに忙しい時でも、5分、10分のブレークをとることができるはずです。そうした時間を祈りにあてれば、まとまった時間をとることができなくても、全体として長く祈ることができます。とても忙しく仕事をこなしている人が言いました。「きょうは忙しいから、もっと祈らなければならない。」忙しい人ほど、良く祈り、祈りの時間を大切にしているのだと思いました。

 ですから、「たゆみなく祈る」というのは、コミットメントをもって祈る、コンスタントに祈るということになります。朝に、夕に、一年365日、日々祈り続けるということです。また、それは、祈りを深めていくことも意味しています。たんに言葉を連ねるだけの祈りではなく、もっと神を知り、神とまじわり、神のみ声を聞く祈りへと成長していくことです。また、「たゆみなく祈る」というのは、生涯をかけて祈るということです。若いときは、教会のどんな集会にも出席し、いろんな活動に参加することができたかもしれませんが、年齢とともにそういったことができなくなってきます。しかし、祈ることは、何歳になっても、また、からだの自由がきかなくなってもできます。若いうちは、どうしても、活動に心が惹かれ、祈りは後回しになりやすいものです。しかし、若い日のうちに祈ることを学んでいないと、年齢を重ねたからといって、祈りに励むことができるとは限りません。「たゆみなく祈る」というのは、若いうちから、クリスチャンとなった最初から、コツコツと祈りに励み、生涯、祈りを学び続けることを意味しています。祈りが生活の一部になるだけでなく、こんどは生活が祈りになっていく、そのことを目指していきたいと思います。クリスチャンの「祈りの生活」とは、祈りが生活になること、生活が祈りになることです。「祈りはクリスチャンの呼吸である」と言われている通りです。老いも若きも、このことに励みたいと思います。

 二、祈ってあげなさい

 第二は「祈ってあげなさい」です。これは、「とりなし」のことで、誰か他の人のために、その人になりかわって祈ることです。

 使徒パウロが書いた手紙には「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」(コロサイ1:3)、「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています」(エペソ1:15-16)などと書かれています。パウロは、使徒として、諸教会のために祈っていました。それで、パウロはエペソ6:18で「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」と教えているのです。使徒たちはみな祈りの人であり、とりなしの人でした。使徒たちの後継者は、「監督」と呼ばれましたが、その人たちもとりなしの人でした。155年に殉教したポリュカルポスは、使徒ヨハネによってスミルナ教会の監督に任命された人です。州の保安官ヘロデがポリュカルポスを捕まえるために武装した人々を派遣しました。彼らがポリユカルポスを見つけたのは、ポリュカルポスが祈っているときでした。ポリュカルポスはその時少しもあわてず、自分を捕まえにきた人に、まだ祈りが終わっていないので、もう一時間待ってくれるように頼みました。『ポリュカルポスの殉教』という記録には、このとき、ポリュカルポスは「これまでに交わった人々、すなわち、無名の人、高名の人、上流の人、下層の人、すべての人々と、世界中の公同の教会のために祈った」とあります。ポリュカルポスは、普段と同じように、「すべての聖徒のために」祈ったのです。このように、人々のためにとりなし祈るのは、クリスチャンの義務であり、特権です。

 パウロは、コロサイのクリスチャンに、自分のために祈るように願い、また命じています。コロサイ4:3に「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください」とあります。ここで「同時に」と訳されていることばは「それと共に」という意味があります。自分のために祈るのと「同時に」、多の人のためにも祈ってあげなさい、自分のために祈る、「それと共に」他の人のことをもとりなし祈りなさいというのです。この言葉は、自分のために祈ることと、他の人のために祈ることは、サイド・バイ・サイド、並行して、同時になされることだということを教えています。

 クリスチャンになって祈りはじめた最初のころは、自分のことしか祈れなかったかもしれません。しかし、だんだんと、自分の家族のことからはじめて、教会のメンバーのため祈れるようになります。さらに、自分の住む地域のため、カリフォルニアのため、アメリカのため、世界のためと祈りの輪をひろげていくことができます。

 「主の祈り」では、神を「われらの父よ」と呼び、「われらの糧を今日も与えたまえ」、「われらの罪を赦したまえ」、「われらを試みにあわせず、悪より救いい出したまえ」と祈ります。決して「私の…」、「私ひとりの…」ではないのです。このように、主の祈りは、自分のために祈ると共に、他の人のために「祈ってあげる」、他の人と連帯して祈ることを教えています。他の人のために祈るとき、これを覚えることは大切です。とくに、私たちが他の人の欠けたところのために祈るとき、主イエスが「私たち」をと言って祈れと言われたことを忘れ、「あの人たち」という思いで祈るなら、それは他の人のために祈っているのではなく、他の人を祈りを使って批判していることになるかもしれないからです。「神さま、私の信仰は大丈夫ですが、あの人たちは間違っています。それを正してあげてください」、「私の国は自由で平等だけれども、あの人権を無視する国をかえりみてください」などといった祈りは、あのパリサイ人が、取税人を見て「神さま、私が、あの取税人のようでないことを感謝します」と祈ったのと同じような祈りになってしまいます。イスラエルの大祭司はイスラエルの罪の責任を自分の身に負って、とりなし、その贖いのために犠牲をささげました。まことの大祭司であるイエス・キリストは、人々の罪のためにとりなし、神の子羊となって十字架の上でご自分をささげ、それによって罪の赦しを勝ち取ってくださったのです。日ごとの必要を祈るとき、「私の」ではなく「私たちの」と祈るように、罪の赦しを願うときも、他の人の罪を自分の罪であるかのようにして、赦しを願い、とりなしていく、そのことを主イエスは教え、身をもって示されたのです。「あの人の」罪ではなく「私たちの」罪として、罪を悲しみ、悔い、赦しを求める、また、あの人の成長ではなく、自らも含めて「私たちの」成長を求めて祈る、それがほんとうのとりなしの祈りです。私たちのとりなしは、今は、それから遠いものかもしれませんが、父なる神の右の座でとりなしておられるイエス・キリストを見上げ、とりなしにおいても、主イエスにならい、それに近づくことができるよう励みたいと思います。

 三、祈ってもらいなさい

 第三は、「祈ってもらいなさい」です。

 パウロは、コロサイ4:3で「神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください」と言いました。これは、「祈りなさい」という命令でもあり、また「祈ってください」という願いでもありました。伝道のために祈るのはクリスチャンの義務です。ですから、投獄されて伝道できないでいるパウロが自由になり、再び伝道できるように、しかも、パウロが反対者を恐れず、「キリストの奥義」を大胆に、明確に語れるように祈るのは、クリスチャンの、また教会のなすべきことでした。実際、使徒ペテロがユダヤの最高議会に逮捕されたとき、教会は共に集まって彼のために祈り、釈放されたときには「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください」(使徒4:29)と祈りました。ペテロがヘロデ王によって投獄されたときには、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続け」(使徒12:5)ていました。

 けれどもパウロは、ここで「祈りなさい」と命じるだけでなく「祈ってください」と願っています。さきほど触れたように使徒パウロは、諸教会のためにいつも祈り、文字通りすべての聖徒のために祈ることができた人でした。おそらく、パウロのもとには、「パウロ先生、私のために祈ってください」と言って、パウロに祈ってもらうため、大勢の人が毎日つめかけていたことでしょう。パウロは、強い信仰を持ち、聖霊に満たされた人でしたから、他の人がパウロの祈りを必要としていても、パウロは他の人から祈ってもらう必要がないと思われていたかもしれません。しかし、祈ってもらわなくて良い人など、この世界に誰ひとりいません。パウロのように大きな働きを任せられた人であればあるほど、多くの人の祈りが必要なのです。自らが本当に祈る人は、他の人から祈ってもらうことがどんなに必要なことかを知っているのです。

 「私たちのために祈ってください。」("Pray for us.")これは謙虚なことばです。そしてまた、パワフルなことばです。私たちは「たゆみなく祈りなさい」と教えられていますが、時として祈れなくなってしまうことがあります。祈っても、祈っても、何の答えもないように思えるとき、「祈っても何も変わらない」とあきらめてしまうことがあります。「たゆみなく祈る」どころか、「祈ったり、祈らなくなったり」の状態に陥ります。それがしばらく続くと「祈ったり、祈らなかったり」が「祈らなかったり、祈らなかったり」ということになるかもしれません。そんなときどうしたら良いのでしょうか。"Pray for us."("Pray for me.")と言って他の人に祈ってもらえば良いのです。とりなしを願えば良いのです。私は "Pray for us." ということば自体が祈りだと思っています。私たちがどう祈ったらよいかわからないときも、聖霊は「いいようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして」(ローマ8:26)くださるお方です。聖霊の深いうめきのひとつが "Pray for us." なのかもしれません。もしそうであるなら、"Pray for us." ということばは無駄になることはありません。聖霊が私たちのうちに働き、主イエスが天でとりなし、そして、神がこの世界のすべてのものを働かせ、私たちのために最善をなしてくださるのです。そして、とりなしの力により、自らも祈ることができるようになっていくのです。

 「祈りなさい。」「祈ってあげなさい。」「祈ってもらいなさい。」この三つのことを、この週も励みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに祈りというあなたとの交わりのチャンネルを開いてくださり感謝します。どうぞ、こどもたちが、素直なこころであなたに祈ることを身につけられますように。若者たちが、主のみわざのために熱心に祈ることができますように。壮年の者たちが、祈りのために時間を割くことができますように。高齢の方々を強め、祈りにおいてさらに成長し、教会のとりなし手として用いてくださいますように。私たちの祈りをとりなしてくださる主イエスのお名前で祈ります。

10/16/2011