恵みあれ

コロサイ4:18

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4:18 パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。

 1517年10月31日、アウグスティヌス会修道士でウィッテンベルク大学教授、神学博士のマルチン・ルターは、当時の習わしにしたがって、討論会のテーマを教会の扉に掲示しました。ラテン語で書かれた、95の項目からなるこの文書(Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum「贖宥状の意義と効果に関する見解」)はたちまちドイツ語に翻訳され、人々の共感を呼びました。このことから、事態はルターが思ってもみなかった方向に進みました。当時の教会は、ルターの教えに危険なものを感じ、ルターに自説を撤回するよう要求しましたが、ルターはそれに応じないどころか、ローマ教皇の権威を否定したため、異端者とされてしまいました。しかし、ドイツの領主たちはルターを支持し、ドイツ国教会を組織しました。それまで1500年の間ひとつであった教会がカトリック教会とプロテスタント教会に分かれてしまったのです。カトリック教会からの分離はドイツだけでなく、ヨーロッパの各地で起こり、カルヴァンやツィングリなどが、それぞれの教派を作りました。歴史家たちはこれを「宗教改革」と呼び、10月31日が「宗教改革記念日」となりました。

 宗教改革の原理は、「信仰のみ」、「聖書のみ」、そして「万人祭司」であると言われています。確かにその通りなのですが、もうひとつの大切な原理、「恵みのみ」ということも忘れてはなりません。教会が多くの人を集め、財産を持ち、力を持つようになると、自分の力に頼って何かをしてしまい、教会を生かしているキリストの恵みから離れてしまうことがあります。クリスチャンも、少しばかり良い行いができるようになると、自分の善良さや信仰深さによって自分が赦され、救われているのだと勘違いしてしまいます。「恵み」という言葉を口にしていても、キリストの恵みから遠ざかってしまうことがあるのです。

 聖書は「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。…行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8)と教えています。改革者たちは、この神の恵みを再発見し、それを強調しました。イエス・キリストの救いのメッセージは「恵みの福音」(使徒20:24)と呼ばれています。教会はキリストの恵みによって生かされてはじめて、この恵みの福音を宣べ伝えることができ、クリスチャンはキリストの恵みに満たされてはじめて、福音をあかしすることができます。宗教改革は、神の恵みに立ち返り、キリストの恵みに信頼することを、私たちに教えたのです。

 では、どのようにしてキリストの恵みに立ち返り、それに信頼し、恵みのうちに生きることができるのでしょうか。今朝は、「認めること」、「信じること」、「告白すること」、英語では "Acknowledge"、"Believe"、"Confess" の三つ、恵みに生きるための "ABC" を学びましょう。

 一、認めること

 ABC の A は「Acknowledge、認めること」です。自分には神の恵み、キリストの恵みが必要だと認め、それを求めることです。

 ある人が「恵み」を定義して、こう言いました。「恵みとは、それを受ける資格のない者に対する神の愛である。」ですから、キリストの恵みを求めることは、自分が神にふさわしくない者だということを認めることから始まるのです。しかし、多くの場合、人間のプライドがそれを妨げます。「自分は完全ではないけれど、正直に、善良に生きてきた。神はそれに報いてくれてもいいではないか。『恵んでください』などと、物乞いのようなことを言わなければならないほど落ちぶれてはいない」などという思いが頭をもたげて来るかもしれません。最近、こんな話を聞きました。ある人が左足を痛めたのですが、医者に行くのが嫌なので、そのままにしていました。でも、なかなか痛みがとれず、だんだんと不自由になってきました。奥さんにさんざん言われて、この人は、やっと医者に行きました。でも、頑固なこの人は痛くない右足を医者に見せて、「ほら、私の足は大丈夫ですよ」と言ったというのです。このように、私たちは、人の前だけでなく、神の前にも、自分の悪い部分を隠して、良いところだけを見せ、「神さま、私はこんなに善良です。私のどこに問題があるんですか」と言ってしまうことがあるのです。たとえ、右足に問題がなかったとしても、左足が悪ければ、やはり、その人は治療を必要とする病人です。肝臓の悪い人が「肝臓以外のどこも悪くはないから、自分は病気ではない」と言ったらおかしなことになります。どこか一つでも悪いところがあれば、その人は病気を持っていて、病人です。同じように、人には知られている部分がどんなに立派であったとしても、神だけが知り、またその人だけが知っている部分に、神のみこころにそぐわないものがあれば、その人は罪を持っており、キリストの恵みを必要とする罪びとなのです。

 聖書のすべての著者は神の恵みを強調し、キリストの恵みをあかししていますが、とりわけ使徒パウロはそうでした。それは、パウロが、かつて、教会に敵対し、クリスチャンを迫害していたことと関係があります。それでパウロは自分を「使徒の中では最も小さい者」(コリント第一15:9)と呼んだだけでなく、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)だと言い、さらに「罪人のかしら」とさえ言っています。パウロは、テモテへの手紙第一にこう書いています。

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(テモテ第一1:13-16)
パウロは、自分の罪を認めました。そして、その罪を赦してくださる神のあわれみ、キリストの恵みを求めました。キリストの恵みに生きる第一歩、それは、自分がキリストの恵みを必要としていることを認めることです。

 二、信じること

 キリストの恵みに生きるための「ABC」の「B」は「Believe、信じること」です。 キリストはすべての人の罪を背負って十字架の上で苦しみ、死なれ、その罪の償いを一切果たしてくださいました。このことは旧約聖書に預言され、新約聖書にくわしく描かれています。しかし、このことを「なるほど、そうだったのか」と知り、認めるだけでは、「Believe、信じること」にはなりません。キリストの十字架を一般的な事実として認めるだけでなく、キリストは、この「私」のために十字架で死なれたことを受け入れる必要があります。聖歌に「カルバリの十字架、わがためなり」と歌われているように、十字架に示されたキリストの恵みを感謝して受け取ること、それが「Believe、信じる」ということなのです。

 ルターは司祭であり、聖書の学者でありながら、この恵みを見失っていました。ルターは修道士として自分をきよめよう、正しく生きようと懸命に努力しました。けれども、努力すればするほど、自分の罪深さが見えてくるだけでした。しかし、ルターは聖書の研究によって、キリストの恵みを再発見します。ルターをはじめ、当時の人々はキリストを裁き主と見ていました。キリストが裁き主であることは、使徒信条に「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者をさばきたまわん」とあるように、その通り、正しいことです。しかし、キリストは、裁き主であると同時に救い主です。キリストは裁き主であるからこそ救い主になることができ、救い主であるからこそ、この世を裁く権威をもっておられ、その裁きは正しいのです。もちろん教会はそのことを教えてきました。しかし、この時代の人々は、その教えを正しく受け取っていなかったのです。ルターがこのことに気づいたのは聖書を研究していたときでした。詩篇22:1に「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」とあります。これはイエス・キリストが十字架の上で叫ばれたことばです。ルターは考えました。なぜ、キリストは神に見捨てられ、こんな悲痛な叫び声をあげなければならなかったのか。世界を裁くべきお方がなぜ、神の裁きのもとにあるのか。それは、キリストが、罪びとの身代わりとなって罪の審判を受けられたからでした。キリストが罪びとの立場に立って罪の赦しを勝ち取ってくださった。ここに神の恵みがある。信仰によってこの恵みを受け取ることによって、人は罪の赦しを受け取る。ルターはこの確信に導かれ、神の恵みを信じ受け入れ、やっと心に平安を得ることができました。

 それは、1517年に「95か条の提題」を掲げる以前のことでした。ルターが福音の真理を再発見し、それによって心に平安を得た、このことが、ほんとうの宗教改革であったと思います。現代の私たちも、罪びとである私を救うものはイエス・キリストの恵み以外にはないことを知り、信じるとき、はじめて、罪の重荷から解放され、心に深い平安と本物の喜びを受けるのです。あなたは、このキリストの恵みを知っているでしょうか、それを受け取っているでしょうか。もしそうでなければ、キリストの恵みがどんなに素晴らしいものかをいっしょに学び、求めてみませんか。神は求める者にかならず与えてくださいます。

 三、告白すること

 キリストの恵みに生きるための「ABC」の「A」は「Acknowlede、認めること」、「B」は「Believe、信じること」でした。「ABC」の「C」は「Confess、告白すること」です。

 「告白」という言葉は、日本語では、男女がその愛を打ち明けるとか、犯罪を犯した人が自分がやったことを白状するときに使われます。著名人が自分の過去を洗いざらい明らかにしているような本は「告白本」と呼ばれます。なにか、プライベートなものをおおやけにすることが「告白」であるかのように思われがちですが、聖書がいう「告白」はそうではありません。聖書で「告白する」という言葉には「同じことを言う」という意味があります。何と「同じことを言う」のでしょうか。神が示された真理に対してです。神のことばに対して、「はい、その通りです」と返答することです。

 ローマ10:9-10にこうあります。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ここには人はどのようにして救われるかがはっきりと書かれています。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とあるように、それはイエス・キリストを心に信じ、そして次に、心に信じたことを口で言い表わすることによってです。「心に信じる」とありますが、何を信じるのでしょうか。神が人間に示してくださったすべての真理ですが、とりわけ、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、私たちを救うために三日目に復活されたことです。そして、心で信じたそのことを、使徒信条にあるように、「キリストは…十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と、自分の口で言い表わすのです。このように聖書が言う「告白」は、自分のプライベートな部分を人前であからさまにするというのでなく、自分の内面に与えられた信仰を神に向かって言い表わすことです。告白は、神に対してするもの、キリストに向けられるものです。

 聖書には、短いことばに要約された信仰告白のことばが数多くありますが、その中でいちばん短いのは、「イエスは主」ということばです。「イエスは主。」この信仰の告白には、イエスが神の御子であること、人類の救い主であり、全世界の王であり、また私たちの人生の主であることが含まれています。ですから、「イエスは主」という告白は、イエス・キリストへの信仰をはじめて言い表わすとき、洗礼を受けるときにだけなされるものではなく、私たちの生涯を通して、ことばと行いによって告白され続けなければならないものです。常に神の真理を再確認し、そのつど、それを言い表わしていく、それによってキリストの恵みに生きることができるようになるのです。

 コロサイ人の手紙は「どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように」(1:2)という祈りで始まり、「どうか、恵みがあなたがたとともにありますように」(4:18)の祈りで終わっています。コロサイ人への手紙だけでなく、パウロはどの手紙にも、その最後に「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように」あるいは「恵みがありますように」と書いています。手紙の最後に "Grace to you!" と書かれているのは、私たちが何をするにも、恵みが必要であることを教えています。人は恵みによって救われます。では救われた人にはもう恵みはいらなくなるのでしょうか。天に至る道は恵みでスタートするけれども、後は自分の力でやり遂げるものなのでしょうか。いいえ、そうではありません。クリスチャンの生涯は、恵みで始まり、恵みによって導かれ、恵みによって完成するのです。

 へりくだって、神の恵みの必要なことを認めましょう。そしてその恵みを素直な信仰で受け入れましょう。心に与えられた信仰をことばと行いで言い表わしましょう。これによって、主であるイエス・キリストの恵みを生活の中で体験していきましょう。それをさらに豊かに体験する道を共に求めていきましょう。

 (祈り)

 恵み深い神さま、私たちはあなたの恵み、あわれみによって生かされています。なのに、その恵みを忘れ、自分に頼ってしまう私たちの不信仰をお赦しください。あなたの恵みの大きさをもっと見せてください。イエス・キリストの恵みの深さを理解させてください。そして、それを私たちの生涯を通して豊かに体験させてください。私たちと、あなたの教会を恵みによって常に新しくしてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/30/2011