エパフラスの祈り

コロサイ4:12-13

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4:12 あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。
4:13 私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。

 一、エパフラスの挨拶

 コロサイ人への手紙の結びの部分で、パウロは、「アリスタルコからよろしく…マルコからも…ユストからもよろしく…エパフラスからよろしく…」と、一緒にいる人たちからの挨拶を伝えています。「よろしく」と訳されている言葉は、もとの言葉では「挨拶します」(ἀσπάζομαι)という意味で、原文では「アリスタルコが挨拶します…エパフラスが挨拶します」となっていますが、そのままでは、日本語にならないので、「よろしく」と訳されています。

 日本語では、初対面の人に、「どうぞ、よろしくお願いします」と言いますが、英語で同じ言葉はありません。“Nice to meet you.” や、少し改まって、“It's a pleasure to meet you.” などと言うしかないでしょう。「今後、仲良くしてください」という意味なら、“Please keep in touch.” になるかもしれません。

 では、パウロが挨拶をとりついだアリスタルコやマルコ、ユストやエパフラスは、どんなつもりで「よろしく」と言ったのでしょうか。おそらく、「祈ってください。私たちも祈っています」ということではないかと思います。パウロは人々に「祈りなさい」(2節)と勧めただけでなく、「私たちのためにも、…祈ってください」(3節)と言っています。そして、エパフラスについては、「彼は…あなたがたのために祈りに励んでいます」(12節)と証ししています。「エパフラスからよろしく」には、「エパフラスは皆さんのために祈っています。皆さんも彼のために祈ってください」というメッセージが含まれていると思います。

 神を信じない人も手紙に「ご多幸をお祈りいたします」などと書きます。そう言って心に留めてくれるのはありがたいのですが、実際に祈ってくれるわけではありません。しかし、キリスト者の場合は違います。本当に祈ります。以前、日本に山室軍平という救世軍の指導者がいました。明治、大正、昭和にかけて活躍し、日本の伝道や社会福祉に大きな貢献をした人です。この山室軍平先生は、「あなたのために祈ります」と手紙に書いたあと、必ずその場で、その人のために祈りを捧げてから、それを送ったと伝えられています。今では、手紙を書くことが少なくなり、メールやテキストを送るほうが多くなりました。その時 Praying hands(🙏)などの絵文字を使うことが多いと思います。その絵文字を使ったときは、実際に神に祈り、それから「送信」をクリックしたいと思います。

 「祈ります」、「祈っています」、「祈っていました」が互いの心からの挨拶になる。これは、イエス・キリストを信じる者の特権です。この特権をもっと使いたいと思います。

 二、エパフラスの祈り

 では、エパフラスは、コロサイの人たちのためにどんなことを祈ったのでしょうか。もちろん、コロサイの人々に、必要なものが与えられ、日々の生活が支えられるように、また、それぞれが罪を赦していただき、また互いに赦し合うことができるように、そして、さまざまな誘惑から守られ、悪から救い出されるようにと祈ったことでしょう。日毎の糧、赦し、そして誘惑と悪からの守りと救い。これらは、イエスご自身が、「主の祈り」で、日々に祈るように教えてくださったもの、私たちに必要で、大切な祈りです。

 エパフラスは、そうしたことを祈った上で、さらに、一人ひとりが「完全な人」になるように祈りました。「完全な人」と言われると、「そんな人などいない」と思ってしまいますが、ここで「完全な人」と訳されている言葉は、コロサイ1:28で「すべての人を、キリストにある成人として立たせるため」と言われている「成人」と、もとの言葉は同じです(τέλειος)。新改訳2017では1:28も、4:12も「成熟した者」と訳されており、このほうが分かりやすいと思います。

 人はイエス・キリストを信じることによって、罪を赦され、神の子どもにされます。「罪を赦される」とは、もう罪を咎められることがなく、どんな束縛からも制限からも自由にされたことを言います。「罪人」であった者が、神の前に「義人」と認められるという新しい「立場」を与えられたことを意味しています。

罪人→義人(立場)
「神の子ども」になるとは、「神の子ども」として愛され、守られ、神の国を受け継ぐ特権を与えられたことを言います。つまり、「罪の奴隷」であった者に「神の子ども」としての新しい「身分」が授けられたということです。
罪の奴隷→神の子ども(身分)
イエス・キリストを信じる者は、聖霊によって神から生んでいただいたとき、「神の子ども」としての「性質」も与えられました。「古い人」が死に、新しい性質を持つ「新しい人」が生まれたのです。
古い人→新しい人(性質)
イエス・キリストを信じる者には新しい「立場」、新しい「身分」、そして新しい「性質」が備わっています。信じる者は、イエス・キリストによって、あらゆる面で新しくされたのです。

 しかし、与えられた新しい性質が表れるには時間がかかります。生まれたばかりの赤ん坊は、最初はミルクしか飲めず、寝返りもできません。堅いものも食べることができるようになり、自分で立って歩けるようになるには、何ヶ月もかかるのです。両親や兄弟とだけしか関わりを持たなかった子どもが、やがて幼稚園や学校に行き、家族以外の人たちと交わり、友だちを作るようになるのには数年かかります。赤ん坊のときに、すでに性質や能力が備えられているのですが、それが引き出され、外側に表れてくるには時間が必要です。神の子どもも、最初からおとなで生まれるのではありません。最初は誰もが霊的には赤ん坊です。信仰の生活を続けるうちに、神の子どもとしての性質が成長し、霊的なおとな、「成熟した者」になっていくのです。エパフラスの祈りは、コロサイのキリスト者一人ひとりが、いつまでも赤ん坊のままでなく、小さな子どものようにわがままでなく、霊的に成長していくようにとの祈りでした。

 エパフラスはまた、コロサイのキリスト者が「神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう」とも祈りました。「成熟した者になる」ためには、「神のすべてのみこころ」を知り、確信していることが不可欠だからです。では「神のすべてのみこころ」とは何でしょうか。聖書のすべてを何度も読み、それを頭に叩き込みということでしょうか。そうではありません。使徒20:27に「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです」とあるように、それは、神の救いの計画の全体のことです。神の救いのご計画は、天地創造の前、永遠のはじめから立てられており、新天新地が造られることによって完成します。そして、その救いの中心はイエス・キリストです。私たちが知らなければならないのはイエス・キリストの救いの全体像です。そのことをすこしづつでも、学んでいきましょう。整理してしっかり理解しておきましょう。

 私は子どものころ、年上のティーン・エージャーは何でも知っていると思っていました。ところが、自分がその年齢に達してみると、そうではないことが分かりました。大学で学べば何でも分かると思っていました。けれども、本当に知りたいことは何も学べませんでした。学べば学ぶほど、自分は何も分かっていないことに気付きました。自分では少しは成長したと思っても、次から次へと自分の未熟な面が見えてきました。ですから、「私は成熟した者になった。もう成長の余地はない」、「私は神のみこころを悟った。もう誰からも教えてもらう必要はない」などと言うことはできる人は誰もいないのです。聖書がいう「成熟した者」とは、「成熟を目指し続ける人」のことです。また「神のすべてのみこころを知る」とは、「みこころを求め続け、学び続ける」ことであると言うことができると思います。

 最初から成長を諦めたり、もう十分に成長したと言ってそこで立ち止まってしまうなら、「霊的な成長」も「みこころを知る知識」も、そこでストップしてしまいます。私にバプテスマを授けてくださった牧師先生は、「信仰とは、坂道を自転車で登っていくようなものだ。自転車のペダルを踏んでいなければ、後ろに下がってしまう。前進がなければ、後退しかない」と教えてくださいました。その言葉はいつも私の心の中にあり、私を励ましてくれています。

 三、エパフラスの苦闘

 さて、エパフラスがコロサイの人々のために何を祈ったかを学びましたので、つぎに、そのことをどう祈ったかを見ておきましょう。12節に「彼はいつも……励んでいます」とありますが、ここで「励んでいる」と訳されている言葉(ἀγωνίζομαι)はコロサイ1:29でも使われています。そこでは「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」とあって、「奮闘する」と訳されています。これは ἀγωνίζομαι(アゴニゾマイ)という言葉ですが、英語の agonise(苦悶する)のもとになったものです。エパフラスは、人々の成長のために、うめくようにして祈っていたことが分かります。このことは、ローマ8:26の言葉を思い起こさせます。こうあります。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」私たちが誰かのためにとりなし祈るのは、イエス・キリストが天で私たちのためにとりなしてくださるから、また、聖霊が私たちの内にあってとりなしてくださるからです。そして、私たちが真剣にとりなし祈れば祈るほど、私たちの祈りは聖霊のとりなしと一つとなり、聖霊とともにうめくほどの深い祈りへと導かれるのです。エパフラスはそのような祈りを日々ささげていました。

 エパフラスはコロサイに始めて福音を届けた人、コロサイの教会の創設者とも言える人でした。彼はパウロに仕えるためローマに来ていましたが、彼の心はいつもコロサイの人々とともにありました。子どもの成長を願わない親がないように、エパフラスもコロサイのキリスト者の霊的な父として、その霊的な成長のため祈り続けたのです。

 このエパフラスの祈りに、おそらくパウロも加わっていたと思われます。コロサイ1:9にある「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」との祈りは、エパフラスが祈ったこととほぼ同じです。パウロも、エパフラスも、一緒にいた人たちも、一致してキリスト者の成熟のために、苦闘し、奮闘し、うめくようにして祈ったことでしょう。私たちもそうした祈りに加わりましょう。もし、まだそのような祈りをしたことがなければ、きょうから、自分の成長のために、互いの成長のために祈り始めましょう。すでにそのことを祈ってきたなら、より一層、その祈りを深めていきましょう。神は祈りに答えてくださいます。うめき祈り、奮闘したことは必ず報われ、素晴らしい結果となって返ってきます。そのことを信じて祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちの霊的な成長を願い、そのために必要なものをすべて備えてくださいました。御子イエス・キリストは私たちの成長のゴールであり、聖霊は私たちの成長の力、聖書はそのための糧です。成長の遅い者たちをも、あなたは忍耐を持って見守り、励ましてくださっています。きょう、教えられたように、私たちは、成長を願い、祈ることによって、あなたの恵みに答えます。なお、私たちを導き、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/13/2022