クリスチャンのよそおい

コロサイ3:5-14

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3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。
3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 カリフォルニアでは、多くの人がカジュアルな服装で通しています。とくに男性は大人になっても、ショーツとTシャツ、スニーカーで、子どもと同じような服装で過ごしています。日本ではほとんどみかけませんでしたが、こちらでは父親と子ども、祖父と孫がおそろいの服を着て散歩しているのを時々見かけます。しかし、いくらカリフォルニアでも、卒業式や結婚式の時には誰もがドレスアップします。また、ポリスは制服を身に着け、医者は白衣を着て、オン・デューティ(勤務中)であることを示します。私たちはその服装を見て、事件があったときはポリスに、病気のときはドクターのところに行くのです。いつ、何を着ても良いというのでなく、その仕事、その時、その場にふさわしい服装というものがあるのです。

 同じように、クリスチャンにも、クリスチャンにふさわしい服装というものがあります。とは言っても、それは目に見える服装のことではありません。内面のよそおいのことです。聖書は、人には、外側だけでなく、内面にもよそおいが必要なことを教えています。実際の服装では、民族や時代によって身につけるものが違ってきます。また、男性と女性とでは着るものが違います。しかし、クリスチャンの内面のよそおいには民族の違いも、時代の変化も、男女の別もありません。それは、どの時代の、どこの国の、男性にも女性にも、同じものが求められています。それはいったいどんなものでしょうか。

 一、身に着けるもの

 コロサイ3:12は「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と、五種類の着物をあげています。この五種類の着物は、今日は「謙遜」、明日は「柔和」というように、毎日取り替えて着るというものではなく、それは一度に重ねて着るものです。そして、この五枚の着物は、それを身に着ける順番に並べられていると思います。つまり、「深い同情心」は下着、「慈愛」はシャツ、「謙遜」はベスト、「柔和」は上着、「寛容」がコートといった具合です。この五つの着物の中で、いちばん大切なのは、最初にあげられている「深い同情心」だと思います。なぜなら、他のすべてのものは、これに基づき、この上に重ねられていくからです。

 「深い同情心」というのは「憐れみ」とも訳されます。けれどもそれは強い者が弱い人たちを見下してかわいそうに思ってやるようことではありません。聖書でいう「憐れみ」はそのようなものではありません。へブル13:3に「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい」とあります。これは、信仰のゆえに、迫害を受けて投獄されている人のことを言っています。初代のクリスチャンは、いつ投獄され、拷問されても不思議ではありませんでした。牢につながれたのは、あの人たちではなく、自分だったかもしれないのです。冷たい石畳に座らせられ、手に鎖をつけられ、足かせをはめられるだけで、どんなに苦しく、辛いことでしょう。投獄された人たちは、たましいにおいてはキリストのために苦しみを受けるに足るものとされた喜びを味わっていたでしょうが、肉体においては痛みを感じていたはずです。「自分も肉体を持っているのですから」というのは、同じ生身のからだを持っている者として、そうした人々の痛みを感じとるようということを教えているのです。自分を他の人と同じ立場において、その痛みを共有すること、それが「憐れみ」です。新改訳聖書がそれを「深い同情心」と訳したのは良い訳だと思います。最近の英語の聖書では "compassionate hearts"(ESV)と訳されています。

 東日本大震災の直後、被災地で「足湯」が用意されました。震災後、長い間お風呂に入れないでいた人たちのために、せめて足だけでも暖かいお湯に浸してもらおうということで行われました。ひとりのクリスチャン女性が足湯のボランティアに行きました。震災直後のことで、人々はまだ大きなショックの中にありました。ですから、「震災のとき、どこにいましたか」「家族は大丈夫でしたか」などと、ボランティアのほうから、被災者のかたがたに何かを尋ねてはいけない、また、被災者のほうから話し出したとしても、それを聞くだけで、コメントを加えたり、アドバイスめいたことをしてはいけないというルールが定められていました。ですから、彼女はキリストのことを語ることはできませんでしたし、ほとんどの場合、足湯は無言のうちに行われました。最初、彼女は、「足湯のボランティアならクリスチャンでなくてもできるじゃないか」と思ったそうです。しかし、彼女は、ひとりひとりの足を洗いながら、主イエスが弟子たちの足を洗われたことを思うようになっていました。聖なる神の御子が罪深い人間の埃にまみれた足を洗われた。自分を見捨てて逃げ隠れするような、頼りにならない弟子たちの足を腰にまいた手ぬぐいで拭いていかれた。主イエスは、高い立場から人間を憐れんだのでなく、私たちが味わう霊的、精神的、肉体的、社会的苦しみのすべてを味わうため、肉体をとり、人となり、私たちと変わらない立場に立たれた。彼女は、そのことを思ったとき、自分はキリストと同じ心で、被災者と同じ立場に立っているだろうかと、考えるようになりました。確かに足湯のボランティアはクリスチャンでなくても誰でもできるでしょう。クリスチャンだからそうでない人よりも上手にできるというわけでもないでしょう。しかし、クリスチャンである彼女は、そのボランティア活動によってキリストの心に触れるというクリスチャンでなければできないことができたのです。痛みの中にある人々と同じ立場で、その痛みに共感する深いレベルでの同情心を身につけるこを学んだのです。

 クリスチャンは、率先して慈善の行いをしてきました。歴史を通して、教会は最大の慈善団体でした。慈善のわざは神が喜ばれるものです。しかし、神は、クリスチャンに、「憐れみの行い」だけでなく、「憐れみの心」を持つよう願っておられます。神は、クリスチャンに doing(行い)だけでなく being(存在)においてもキリストに倣う者になるよう願っておられます。マザー・テレサが始めた、インドの「愛の宣教会」は、慈善事業団体であると誤解されますが、そうではありません。それはあくまでも「修道会」です。そこで働く人々は、キリストを求める人たちです。貧しい人、苦しむ人、死に行く人々の中にキリストを見出そうとしているのです。たんに人々に奉仕するのでなく、そうした人々と共に、そうした人々のうちにおられるキリストに仕えているのです。神は私たちにも、キリストから来て、キリストに向かう憐れみの心を求めておられます。

 「憐れみ」や「深い同情心」は、一番はじめに身に着けるべきものです。そして、そこから「慈愛」、つまり、人に対するやさしく親切な態度が生まれてきます。キリストの「憐れみ」の心を知る人は決して高慢になりません。いわゆる親切の押し売りのようなことをして、人をコントロールしようとはしません。「謙遜」と「柔和」を身に着けています。自分の狭い考えに閉じこもらず、違った意見を持つ人にも心を開く「寛容」を身に着けることができます。神の「憐れみ」がどんなに豊かで、キリストの「同情心」がどんなに深いものであるかを、みことばから学び、生活の中で体験し、祈りによって自分のものにしていきたいと思います。

 二、脱ぎ捨てるもの

 さて、クリスチャンが身につけるべき、五つのものを学びましたが、こうしたものを身につけるためには、当然のことですが、今まで身に着けていたものを脱ぎ捨てなければなりません。8節には脱ぎ捨てるべきものが、やはり五つあげられています。「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば」です。

 「喜怒哀楽」というように、「怒り」は人間の感情の中でも基本的なものです。すべての怒りが悪ではありません。神もお怒りになるのですから。正義のための怒りは必要です。それが無くなると、世の中に間違ったことがまかり通るようになります。聖書が教える「寛容」は、神が与えた真理までも変えてしまうような、無制限の「寛容」ではありません。真理がないがしろにされる「寛容」はもはや「寛容」でなく、「妥協」です。真理を守り、正義と公平を守るための怒りというものがあります。しかし、怒りは自分のわがままと結びついて、暴走してしまうことが多いので、それは正しく治めなければなりません。ラップ・ミユージックの中には怒りのことばの連続のようなものがあります。自分の個人的な問題でさえも政府が悪い、社会が悪い、それを作った大人が悪いと歌っているのですが、そのようなものは決して正義の怒りではありません。

 「怒り」が態度になり、行いになったものが、「憤り」です。家庭内暴力や殺人事件の多くが、「ついカッとなって」と、憤りを抑えきれないために起こっています。最近の言葉では、「切れてしまって」ということになるでしょう。人類最初の殺人もそうでした。創世記4章にカインとアベルの物語があります。アベルは正しい動機と方法で神にささげ物をしましたが、カインはそうではありませんでした。アベルのささげ物が神に受け入れられたのに、自分のささげ物が受け入れられなかったのをカインは知りました。その時、カインは自分を反省し、アベルを見習い、ささげ物をささげ直せば良かったのです。しかし、カインはそうしませんでした。自分を顧みることも、他から学ぶこともしないで、自分のささげ物が受け入れられなかったことを怒り、その憤りをアベルに向けたのです。聖書は「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」(創世記4:5)と言っています。神はカインに「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4:6,7)と警告を与えました。しかし、カインは、自分の怒りと憤りに身を任せ、恐ろしい罪を犯してしまったのです。

 私たちの人生には、怒りを覚えるようなことに遭遇することが多いものです。しかし、そのつどそれに怒り散らし、憤っていたのでは、自分を駄目にし、人間関係を壊し、秩序を乱すだけになってしまいます。心理学の世界に「アンガー・マネージメント」というものがありますが、私たちはたんに心理学的なテクニックとしてではなく、神が「あなたは、それを治めるべきである」と言われたことばのように、神の助けにより、怒りを正しく取り扱う必要があります。

 カイン以来、「怒り」、「憤り」は人類の本性となりました。そして、この怒りと憤りから「悪意」が生まれした。「悪意」と訳されていることばは「敵意」とも訳すことができます。それによって、人類の歴史は戦争の歴史となり、いたるところに争いを見るようになったのです。「怒り、憤り、悪意」の次に「そしり」とありますが、これは、人に対する侮辱のことだけでなく、神への冒涜をも意味しています。人は、人と争うばかりか、神とも争うものとなったのです。最後の「恥ずべきことば」というのは、卑猥な話のことを指しますが、そういう話でなくても、私たちは、なんと無駄なことばを数多く口にしていることでしょうか。口数が少なくて失敗することがあるかもしれませんが、普通はことばが多くて失敗することのほうが多いものです。言わなくても良いこと、言ってはいけないことを口にしてしまいやすい私たちに、聖書は「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と教えています。自分のためではなく、聞く人のために語るというのですが、実は、それは自分のためでもあるのです。自分が語ることばを一番良く聞いているのは自分自身なのです。人は、自分の口で語ることばを自分の耳で聞いて影響を受けます。いつもつぶやきを口にしていると、一緒にいる人に迷惑なだけでなく、そのことばが自分の心に入って、つぶやきを増幅してしまうようになりますから、注意しなければなりません。

 私たちは「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば」を脱ぎ捨てたいと思います。ところがこれらは、たましいに染み込み、からだの一部になってしまったかのようになり、脱ぎ捨てることが非常に難しくなっています。それをカバーアップすることができても、脱ぎ捨てることができないのです。しかし、ただひとつだけそれを脱ぎ捨てる方法があります。それは、そうした本性を持った自分が死ぬこと、そして、新しくされて復活することです。これができるのは、ただイエス・キリストによってだけです。キリストの十字架が私の罪のためであったと信じる者は、それによって自分の罪の性質を十字架につけ、古い自分に死ぬことができるのです。キリストが私を救うために死者の中から復活されたことを信じる者は、新しくされて、キリストとともに復活するのです。イエス・キリストの十字架と復活だけが、古い人を死なせ、その身にまとっていたものを捨てさせ、人を新しくし、人が本来持つべき、幸いなよそおいを身につけさせるのです。キリストを信じ、バプテスマを受けた者は、すでに、キリストとともに死に、キリストとともに復活しています。神の子どもとして生まれ、天に国籍を持つものとなりました。キリストを信じたとき、私たちの人生に新しい意味と目的が与えられました。物の見方、考え方が変わり、些細な出来事に左右されない喜びや平安を感じるようになりました。なによりも神と人への愛が心に芽生えました。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:27)とある通りです。

 しかし、同時に、地上にいる私たちは、罪の誘惑を感じ、実際に罪を犯します。キリストとともに死んだはずの古い自分がまだ力を持っているのを見ます。キリストを信じた者は、「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着た」(コロサイ3:9,10)はずではなかったのでしょうか。そうです。そのとおりのことが、天で起こったのです。信仰とは、この天で起こったことを地上で再現することです。キリストが古い私を死なせ、新しい私を成長させてくださることを信じて、古いものを捨て、新しいものを求めることです。信仰の生活は捨てることと得ることから成り立ちます。古いものを捨てることは「悔い改め」で、新しいものを得ることは「信頼」です。それには、きっぱりとした決断が必要です。

 今日の箇所では、信仰生活が古い着物を脱ぎ、新しい着物を着ることにたとえられていますが、裕福な人は別として、わずかな着物しか持たなかった古代の一般の人にとって、着物を替えるというのは大変なことだったのです。着物一着を作るにも、女性たちが、何ヶ月もかけて、糸を紡ぎ、機をおり、仕立てなけばできませんでした。男性たちは、着物を買うお金をかせぐのに、何ヶ月も働かなければなりませんでした。信仰においても同じです。ほんとうの問題が、自分のうちにある古い性質にあることがわかるまでは時間がかかるでしょう。そのことを徹底して悔い改め、神に赦しを願い、きよめを願うまでに導かれるには、何らかの痛みを通らなければならないかもしれません。しかし、それを乗り越えてなお、前に進むことが信仰なのです。

 第二次大戦に従軍した二世の方から伺った話ですが、軍隊に入るときには、今まで身につけていたものはすべて脱いで、すべて軍から支給されたものに着替えるのだそうです。そのように、クリスチャンにも、きっぱりと過去と決別するときが必要です。朝ごとに、また主の日の礼拝ごとに、そして来週は聖餐礼拝ですが、聖餐にあずかるたびに、古いものを捨て、新しいものを得る、悔い改めと信頼の歩みを重ねていきたいと思います。私が身につけるべきものが何なのかを知りましょう。それを得るために捨てなければならないものがきっとあるはずです。それを知らせていただきましょう。そして、私に救いと希望と平安を与えてくださった主を賛美し、主との愛の交わりの中に生きる幸いを味わっていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、放蕩息子の父親が、悔い改めて帰ってきた息子に新しい着物を着せたように、あなたは、あなたに立ち返る者に、「救いの衣」、「正義の外套」をまとわせ、「花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾って」くださいます。そんなに大きな愛で信じる者を迎えてくださるのですから、私たちも、あなたが与えてくださるクリスチャンとしてのよそおいを身に着けたいと、心から願います。私たちに、さらに捨てるべきものを教え、身に着けるべきものを示してください。そして、捨てるべきものを捨て、得るべきものを手にする、きっぱりとした悔い改めと信仰の決断へと導いてください。主イエス・キリストによって祈ります。

9/18/2011