クリスチャンの社会生活

コロサイ3:22-4:1

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3:22 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
3:24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
3:25 不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。
4:1 主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

 コロサイ人への手紙3:18ー21では、「妻たちよ」、「夫たちよ」、「子どもたちよ」、「父たちよ」という呼びかけがあって夫婦の関係と親子の関係についての教えがありました。3:22ー4:1には「奴隷たちよ」、「主人たちよ」という呼びかけがあって、奴隷と主人の関係について教えています。

 今日では奴隷制度はなくなりましたが、当時の社会では、戦争に負けた国の国民は戦争に勝った国の奴隷になりましたから、ほとんどの人が奴隷でした。ローマ人は「あらゆる外国人は奴隷である」と考えていたほどです。しかし、奴隷と言ってもすべてが、過酷な扱いを受けたわけではありませんでした。中には主人の全財産を管理する者、主人の子息の家庭教師になる者、すぐれた技術を持ち、芸術の才能があって名声を博した者もありました。ローマの哲学者エピクテトスがもとは奴隷であったことはよく知られています。奴隷たちは、一生奴隷のまま終わったのではなく、主人から解放される者、自分で贖い金を貯め、自由になる者もありました。使徒パウロはユダヤ人でしたがローマの市民権を持つ自由人でした。

 ですから、聖書で「奴隷たちよ」、「主人たちよ」と呼びかけられているところは、今日のエンプロィー、エンプロイヤーの関係に置き換えて学ぶことができます。きょうのメッセージのタイトルを「クリスチャンの会社生活」としてもよかったのですが、「会社生活」ではおかしいので、「会」と「社」を入れ替えて「クリスチャンの社会生活」としてみました。会社勤めをしている多くの人は、ほとんどの時間を会社で過ごしますので、「会社生活」がそのまま「社会生活」になっているからです。

 きょうの箇所の、ほとんどすべての節に「主」という言葉が出てきます。「主を恐れかしこみつつ」(22節)、「主に対してするように」(23節)、「主から報いとして」(24節)、「主キリストに仕えているのです」(24節)、「あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っている」(4:1)とあります。こうしたことからわかるように、この箇所はクリスチャンに宛てて書かれたものです。ここでは、一般的なエンプロィーの心がけや社会生活の知恵を説いているのではなく、クリスチャンに、主イエスとの関係でどのように社会生活をすべきかを教えているものです。ですから、会社勤めの人でなくても、自営業の人でも、退職した人でも、家庭の主婦でも、すべてのクリスチャンはこの箇所から学ぶことがきっとあるはずです。それぞれが、自分の立場に当てはめながら、この箇所を学んでいきたいと思います。

 一、知るべきこと

 第一に、社会生活に関してクリスチャンが知っていなければならないことを考えてみましょう。それは、たとえ、社会的にどんな地位、立場であっても、クリスチャンはみな、神の国の市民であり、神の国を相続する者なのだということです。

 ガラテヤ3:26-28にこう書かれています。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」この世の身分が自由人であれ、奴隷であれ、すべての人は罪の奴隷となっていて、神の国からほど遠い者です。しかし、イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストのいのちという「贖い金」によって罪の奴隷から買い戻され、神の国の市民となり、神の国を受け継ぐ者とされたのです。ガラテヤ4:7は、はっきりと、「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」と宣言しています。リンカーンの「奴隷解放宣言」(1863年)の1800年前に聖書はすでに「奴隷解放宣言」をしているのです。

 コロサイ3:24の「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています」ということばには、「知っていますね」という確認の意味があるように思います。人生をどう生きるか、この社会でどんなふうに生きるかは、自分が何者かについてどんな考えを持っているかによって決まります。神を認めないなら、私たちの人生には、確かな意味も、目的も無いことになります。この世界は進化の過程でできあがったもので、私たちは生命の進化のひとつの現象にすぎないということになります。もしそうなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(コリント第一15:32)ということになり、私たちの生き方は、その日、その時に自分の感情を慰め、欲望を果たすだけのものになってしまいます。自分の価値を正しく認めることがなければ、「どうせ自分なんか、つまらない者で、どうなってもいいや」などと考え、自分を傷つけながら生きる生き方をしてしまうでしょう。

 自分の価値を認めることができなければ、他の人の価値も認めることができなくなり、他の人をも傷つけてしまうようになるかもしれません。ローマ14:15に「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください」とあります。聖書は、たとえ弱く見えるような人たちであっても、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」、神に愛され、贖われ、神の子どもとされた人であって、大切にされなければならないと教えています。ヤコブ2:5には「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか」とも書かれています。貧しい人をその外側だけで軽蔑してはいけないというのです。キリストにある自分の価値、そして他の人の価値を確信していないと、クリスチャンと言えども、知らず知らずのうちに、その人の地位や立場、学歴や財産、身なりや外見などという、この世の価値観で人を量り、人を傷つけてしまうことになるのです。

 しかし、自分がキリストによって贖われ、自由な者とされたこと、神の子どもとされ、神の国を相続する者とされたことを確信している人は、どんな逆境の中でも、忍耐深く歩むことができます。また、人に対しても正しい態度で接することができるようになります。「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っていますね。」この神からの呼びかけに、「はい、知っています。そのことをもっと知らせてください」とお応えしましょう。

 二、なすべきこと

 第二に、社会生活に関してクリスチャンがなすべきことを考えてみましょう。それは、徹底して仕えるということです。22節に「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい」と教えられているとおりです。主人が見ているときには良く働くが、見ていないときには働かない。主人におべっかを使ったり、他の奴隷のことを悪く言ったりして、主人にとりいろうとする。そうしたことが、当時の奴隷たちの間にありました。しかし、クリスチャンは、そうした人々の仲間になることなく、忠実に、誠実に働きなさいと教えているのです。

 この教えは、私たちの職場や普段の生活にそのまま当てはまります。私たちが何かをするとき、「しなければならないから」という「義務感」だけで、嫌々やっているとしたら、とても疲れてしまい、ついには持ちこたえられなくなって、仕事を投げ出してしまうでしょう。また、「ちゃんとやっておかないと、上司がうるさいから」というので、仕事をするとしたら、それは、言葉が悪いかもしれませんが、「奴隷根性」で仕事をすることになります。また、ここでは、「今、相手に気に入られておけば、後々、見返りをもらえるだろう」などと、自分の利益のためだけに、計算ずくでするのも、「利益」の「奴隷」になっているのかもしれません。クリスチャンはあらゆるものの奴隷から解放されたのですから、そんなケチな奴隷根性に縛られないで、仕事をするなら、進んで働きたいものです。

 進んで、心から仕えるという原則を守る人は、祝福を受けます。Wendy's の創設者、Dave Thomas は不幸な生い立ちを持っていました。彼は未婚の女性から生まれ、生まれて6週間して Thomas 家にもらわれました。ところが5歳のときに母親が亡くなり、父親も仕事を失って、各地を転々とするようになりました。それで Dave はお婆さんに預けられ、育てられました。彼は12歳のときからレストランで働きはじめました。15歳の時にはフルタイムで働いたため、高校を終えることができず、後になってから G.E.D.(高校卒業資格)を取りました。でも彼は「ぼくは G.E.D.を取る以前に M.B.A.を取っていたんだよ」とよく言っていました。彼の言う M.B.A.(Master of Business Administration)とは "Mop Bucket Attitude" のことでした。レストランのフロアーが汚れていれば、誰に言われなくても率先してモップとバケツを持ってきて掃除をする、そうした「進んで仕える姿勢」が、彼をビジネスの成功に導いたというのです。職場であれ、家庭であれ、給料をもらっているからする、しかたがないからする、人に認められたいからするというのでは給料の奴隷、義務の奴隷、人の奴隷になってしまいます。そうしたものから解放され、自分の仕事に誇りをもって働きたいものです。

 三、求めるべきこと

 しかし、どうしたら、そのような態度を持ち、真心から、誠実に働くことができるのでしょうか。毎日の仕事を喜んですることができるためには、なお、私たちに何か必要なのでしょうか。第三に、社会生活に関して私たちが求めるべきものを考えてみましょう。それは、イエスを自分の「主」とする信仰です。

 コロサイ3:22は「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい」と教えています。自分が仕えている主人は「地上の主人」であって、それよりも偉大なお方、ほんとうに仕えなければならない主人は天におられるというのです。コロサイ3:23-24は「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。…あなたがたは主キリストに仕えているのです」と教えています。エペソ6:6-7では、同じことが別のことばでこう言い換えられています。「キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」この「キリストのしもべ」の「しもべ」も同じ「奴隷」という言葉が使われています。クリスチャンは、人の奴隷ではなく、キリストの奴隷です。人にではなく、キリストに仕えているのです。

 これは、クリスチャンの主人にとっても同じです。コロサイ4:1は「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい」とあります。エペソ6:9では主人たちに向かって「おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」と命じています。主イエス・キリストは「彼ら(奴隷)とあなたがた(主人)の主」です。地上の主人は、奴隷は自分のものだから、奴隷をどう扱おうと自分の勝手だということはできないのです。奴隷の本当の所有者はキリストであり、「主人」といえども、天におられる主イエス・キリストの奴隷です。地上の主人も、奴隷が主人に仕えるのと同じように天におられる主に仕えるのです。ですから、奴隷が主人に従う態度も、主人が奴隷を扱う態度も、基本的には同じです。両方とも「天におられる主」に仕えているのです。聖書の時代のクリスチャンは、主人は主人の立場で主に仕え、奴隷は奴隷の立場で主に仕えたのです。

 それは、今も同じです。ある人は経営者、オーナーとしてビジネスを動かし、ある人は、そこに雇われて働きます。ある人は会社で上司として働き、ある人は部下として働きます。現代では「自由人」と「奴隷」という身分制度はなくなりましたが、会社での地位、社会での役割の違いは今もあります。けれども、クリスチャンにとって、なすべきことは一つ、「主に仕える」ことです。自分の出世や利益だけを考えている人は職場で信頼されることはないでしょう。女性にとって家庭での仕事は、ほとんどがご主人のためやこどものためで、自分のために割くことができる時間はわずかしかないかもしれません。もし、主に仕えるという思いがなければ、家庭での単調な仕事に意味や喜びを見出せなくなるでしょう。教会での奉仕は、まさに人にではなく、主に仕えるものです。主イエスを信じ、主イエスを愛することなしには、ほんとうの奉仕をささげることはできません。

 私たちのすることが、「人にではなく、主に仕えるように」ということであるなら、職場で、地域で、家庭で、人々に仕えるためには、まず、教会で「主に仕える」ことを学ぶ必要があります。私たちの主に対する態度が、より忠実で、敬虔で、謙虚なものとなっていく必要があります。そこから、人に対する誠実で善意に満ちた態度が生まれてくるからです。自分がキリストに贖われ、自由な者とされたと同時に、キリストの奴隷となったということを知り、信じ、キリストを「主」として信じ、従い、生きていくとき、私たちの人に対する態度がひとりよがりにならず、真理と正義と公平に基づいたものになるのです。

 奴隷の生命と人生が奴隷を買った主人のものであったように、クリスチャンは、キリストに贖われた者であって、その生命と人生は主イエス・キリストのものです。そして、クリスチャンがキリストのものであるというのは、じつに幸いな、平安なことなのです。キリストの手の中でその生命と人生が守られるのですから、これほど、安心、安全なことはありません。また、私たちが真実にキリストのものになるとき、キリストは、私たちのものとなってくださるのです。キリストは、キリストを信じる者をご自分のものとしてくださるだけでなく、キリストを主としてキリストに仕え、キリストに従う人のものとなってくださる、「私の神、私の主」と呼ぶことができるお方となってくださるのです。そこには「私は主のもの。主は私のもの」という信仰の喜びがあります。

 私たちがキリストに従い、主イエスに仕えていくことは、一生涯にわたることです。あせらず、しかし、怠けず、一歩一歩、主を知ること、主を愛することを求めていきましょう。霊的な、見えないものを求め続けることは、決してたやすいことではありません。ですから、互いに励ましあって、「天におられる」お方を見上げていきたいと思います。そのとき、霊的なものが日常の生活に祝福となって実を結び、目に見えないものが目に見える結果をもたらすようになるでしょう。

 (祈り)

 父なる神さま、すべてのクリスチャンは、どんな地位、立場にあろうとも、キリストの贖いによって罪の奴隷から解放された自由な者です。しかし、すべてのクリスチャンは、同時に、キリストに買い戻された者、キリストに仕えるキリストの奴隷です。どうぞ、私たちに、自分がキリストのものであり、キリストが主であることを深く覚えさせてください。そして、キリストのしもべとして、この世で生きることを教えてください。人々に仕えられるためではなく、人々に仕えるため、しもべとなって世においでになったイエス・キリストのお名前で祈ります。

10/9/2011