キリストが来られるとき

コロサイ3:1-4

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3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

 一、天を見上げる

 ギリシャ語で「人間」は「アンツローポス」といい、それには「上を見る者」という意味があります。他の動物は四足で、地面を見ながら歩きますが、人間は二本足で立ち、空を仰ぎます。人間と動物は見た目も違っていますが、なにより、内面が違います。人間が「上を見る」という場合、それは、よりよいものを求める「向上心」を指し、何よりも、この世界と人間を創造されたお方を見上げる「信仰心」を意味しています。

 まことの神を知らなくても、多くの人は「天」の「意志」や「力」を感じながら生活しています。古代の人々も、地を照らす太陽と、天から降る雨が地に実りを与えることを知っていました。日照りが続けば作物は枯れ、雨が多すぎても収穫を得ることはできません。それで、人を生かす糧は地からとれるものですが、それを与えるのも、与えないのも天が決めるのだと感じていました。

 詩篇121:1-2に「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」とあります。昔の日本人は、高い山を見上げると、その山のふもとに鳥居を立て、山そのものを拝みました。雨雲が山から湧き出て、田畑を潤す様子を見て、山を神々のひとつと考えたのです。しかし、まことの神を知っていたイスラエルの人々は、山の上に広がる天を見上げ、その天をも、山をも、地をも造ってくださった神を見上げました。山に雨や雪を降らせ、それが川となって野に流れ、草木を茂らせ、あらゆる生き物を生かし、人々を養いますが、それらすべては、神の人への恵み、あわれみによるのです。

 エジプトから脱出したイスラエルの人々は、約束の地に向かうのに、荒野を通って行きました。それで、人々はたちまち食べる物に困りはじめました。神は、イスラエルが荒野にいる間、毎朝、「マナ」という食べ物を天から降らせ、ご自分の民を養ってくださいました。イスラエルの人々は、自分たちを生かし、養うものが、自分たちの努力によって地から収穫したものによってではなく、天からの神の恵み、祝福によることをを学びました。

 ところが、神の民は、物質的に豊かになると、神への信仰を失くしてしまい、「この豊かさは、自分たちの努力によって勝ち取ったものだ」と考えるようになりました。神の恵み、祝福に感謝することを忘れてしまったのです。それで神はこう言われました。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる。──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ書3:10)今あるのは神の恵みによることを知って、感謝する。たとえ今、足らないものや苦しみがあったとしても、神は必ず必要なものを与えてくださる、苦しみ、悩みから救ってくださる。そのことを信じて、神に願い求めるなら、神は「天の窓」を開いて祝福を注いでくださいます。

 古代から礼拝は「天の窓」と言われてきました。礼拝を通して、天を見上げ、天を思うことができるからです。私たちも、この礼拝を「天の窓」としましょう。そこにおられる愛に満ちた神を見上げましょう。そして、「天の窓」から注がれる恵み、祝福に満たされ、礼拝から帰りましょう。

 二、天におられるキリスト

 さて、コロサイ人への手紙は、3:1に、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます」とあって、私たちが天を見上げるのは、そこにキリストがおられるからであると言っています。いや、キリストがそこにおられるだけでなく、私たちも、キリストと一緒にそこにいるのだと教えています。

 1節の「あなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」とは、神が、イエス・キリストを信じる者を、その罪とともにいったん葬り去り、罪を赦し、きよめ、よみがえらせてくださったことを言っています。これは、信じる者が神の子どもとして生まれかわること、「ボーン・アゲイン」と同じことです。ペテロ第一1:3にもこうあります。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 復活した者、新しく造られた者、神の子どもとして生まれかわった者、それが「クリスチャン」です。「クリスチャン」というと「キリストを信じる者」のことと考えられています。確かに、クリスチャンはキリストを信じる者です。神の御子が私たちの救い主となるため、人となって世に来られたこと、全人類の罪を背負い十字架で命を献げられたこと、十字架から三日目に復活されたこと、そして、今、天で父なる神の右の座について、そこで私たちのためにとりなしておられることを信じています。そう信じて、その信仰によって救われました。しかし、「クリスチャン」という言葉には、ほんらいは、「キリストにある者」、キリストと結ばれ、キリストとひとつにされた者という意味があります。ですから、キリストが十字架で死なれたとき私たちも死に、キリストが葬られたとき私たちも葬られ、キリストが復活されたとき私たちも復活し、キリストが天に帰られたとき、私たちも天に昇ったのです。エペソ2:4-6にこうあります。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」「クリスチャン」とは、「キリストを信じる者」というだけでなく、「キリストにある者」であり、キリストとともに死に、キリストともによみがえった者なのです。

 みなさんは、そのことを信じていますか。イエスが十字架で死なれたのが、私の罪のためであり、復活されたのが、私の救いのためであることさえ、信じるのに難しかったのに、じつは、私はイエスとともに死んだ者なのだ、イエスとともに復活した者なのだと信じるのは、簡単なことではありません。今、現に、この地上に生きている私がどうして、イエスとともに天の座にいるのか、そんなことは、想像さえできないことです。確かに、それは、五感で感じることができるものではありません。しかし、信仰とは、目に見えないものを、神の言葉によって信じることです。天を見上げ、そこにおられるキリストを思うとき、私たちは、この真理を見ることができます。

 私は自然豊かな場所で宿泊するとき、決まって夜空を仰ぎます。子どものころ、ふつうに見ることができた天の川やたくさんの星をもう一度見たいと思うのです。古代の人たちは夜になると、降ってくるような星空を眺めていたのでしょう。同じように天を見上げていても、昼と夜では天空は違って見えます。もちろん、夜になって急に星が生まれるわけではありません。夜も昼も星はそこにあるのですが、昼は太陽の光のためそれが見えないだけなのです。夜になって太陽の光が遮られると、地球が無数の星に取り囲まれているという現実が見えてきます。信仰によってものごとを見るというのは、夜になって現れる星を見るようなものです。そこにあっても、今まで見えなかったものが、神の言葉と、聖霊の働きによって見えてくるということです。

 天を仰いでキリストを見上げるとき、私たちはそこにおられるキリストを見るだけでなく、キリストとともにあり、キリストの内にある自分をも見るのです。過去の自分の姿ではなく、キリストにあって、罪を赦され、神の子どもとして愛され、新しくされている自分を見るのです。信仰によってキリストを受け入れても、キリストにある自分を発見することができず、仁を受け入れることができていない人もありますが、キリストにあって新しくされている自分を受け入れる者は、どんなに過去の自分に失望していたとしても、そのこだわりを捨てて、新しい歩みへと導かれるのです。

 三、天から来られるキリスト

 私たちが上を見上げ、天を思うとき、そこにキリストとキリストにある自分を見るのですが、さらに素晴らしいことは、その天からイエス・キリストがもういちど、この世に来られることです。そのとき、すでにキリストにあって新しくされているのですが、それが完成するのです。

 私たちは、神の御子が私たちの救い主となるため、人となって世に来られたこと、全人類の罪を背負い十字架で命を献げられたこと、十字架から三日目に復活されたこと、そして、今、天で父なる神の右の座について、そこで私たちのためにとりなしておられることを信じています。そればかりでなく、キリストが、天から再び地に来られることも信じています。これを「キリストの再臨」(Second Coming)と言います。「キリストは死なれ、よみがえられ、再び来られる。」(Christ has died, Christ is risen, Christ will come again.)これは「信仰の奥義」(mysterium fidei)といって、古くから礼拝で唱えられてきた言葉です。

 今日、世界は世の終わりに向かって急速に進んでいます。最近、ディヴィッド・ジェレマイヤ牧師が "The World of the End"(終わりの世界)という本を出しました。先生は聖書の預言に基づいて、これからの世界が「欺き」の世界に、「戦争」の世界に、「災害」の世界に、「迫害」の世界に、「裏切り」の世界に、「不法」の世界に、「悪い知らせ」の世界に、「終わり」の世界になっていく。しかし、クリスチャンは「正直」であり、「落ち着いて」生活し、「確信」を失わず、「備え」をし、「忠実」で、「親切」で、「良い知らせ」を語り、「動かされない」者であれと勧めています。ジェレマイヤ先生はこの本の9つの章のタイトルに「希望」という言葉を使っていませんが、聖書の「預言」は「希望」です。単なる警告だけでなく、常に希望を語っています。キリストを信じない人にとって、これから起こることは「世の終わり」に導く絶望的なことであっても、キリストを信じる者には、それら一つひとつは「神の国の始まり」に導くものです。キリストを信じる者は、どんなときも希望を失くしません。

 キリストが来られるとき、私たちはどうなるのでしょうか。コロサイ3:4に「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」とあります。これは、ヨハネ第一3:2では、こう言いかえられています。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」

 コロサイ人への手紙をここまで読み進んでくると、コロサイ1:27の「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」という言葉の意味が分かってきます。キリストを信じる者は、「キリストにある者」ですから、キリストの内にいるのです。そして、それと同時に、キリストは信じる者の内におられ、その人を生かしておられるのです。キリストのいのちに生かされている者は成長し、キリストに似た者になっていきます。この成長、成熟のプロセスは、キリストが再び来られるとき完成します。私たちはキリストと同じ、栄光の姿に変えられるのです。これが「栄光の望み」でなくて何でしょう。この「望み」、「希望」が、終わりの時代にも、私たちを支えます。人を絶望にしか導かない罪の生活から、神の愛と祝福を受け、希望に生きる生活へと導かれましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、世の中は、私たちを失望させることばかりで満ちています。しかし、あなたはキリストにある希望、いや、キリストご自身を私たちの栄光の望みとして与えていてくださいました。私たちは目を上げ、天を思います。そこからイエスが来られ、私たちも栄光に変えられる日を待ち望みます。この希望にふさわしく生きる私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/16/2022