クリスチャンの家庭生活

コロサイ3:18-21

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3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
3:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。
3:20 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。
3:21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。

 「バイブル」という名前のついた本が沢山あります。「ビタミン・バイブル」、「ダイエット・バイブル」などの健康関係のもの、「金融リスク・マネージメント・バイブル」、「中古マンション売却必勝バイブル」などのビジネスもの、中には競馬の「的中バイブル」などというものさえありました。人々は「バイブル」という言葉を「ぱっと開いて読めば、知りたいことがもれなく書いてある便利な本」という意味で使っています。そして、本家本元の「バイブル」、聖書もそんな本だろうと思いこんでいるようです。

 確かに、聖書には、人生の知恵が数多く記されています。箴言や、民数記、申命記などにある律法、詩篇の教訓の歌などは、とても二千年も三千年も前に書かれたものとは思えないほどの現代的な教えに満ちています。福音書にあるイエスの教えはいつの時代にも新鮮ですし、使徒たちの書いた手紙にも、具体的なインストラクションが沢山あります。BIBLE というのは Bacsic Instructions Before Leaving Earth の略だと言った人もいます。

 しかし、聖書は、単なるインストラクション、マニュアル、ハンドブックではありません。それは神を示し、人を神に導くものです。そして、それを信仰によって読み、聞く人を養い、それを実行することができる力を、聖書は与えてくれるのです。ですから、聖書は、インストラクションとしてだけでなく、神のことばとして読む、もうひとつの読み方が必要なのです。

 今朝の箇所はクリスチャンの家庭生活について教えていますが、この箇所をインストラクションとして読むだけでは、不十分です。そういう読み方では、おそらく「こんなことはできない」という反発が生まれてくるだけでしょう。なぜ、なんのために、こうしたインストラクションが与えられているのか、神が私たちに望んでおられることが何なのかを考えながら学んでみましょう。

 一、夫婦と親子

 コロサイ人への手紙の家庭生活に関する教えはとても簡潔です。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」〔コロサイ3:18-21〕たったこれだけです。聖書はどうしても必要なもの、いちばん大切なことだけを選んで書いています。ですから、それが簡潔であればあるほど、それは重要なことなのですから、その教えを大切にしなければなりません。

 ひとくちに「家庭」と言っても、夫婦だけの場合と、子どもがいる場合ではずいぶん違います。親と同居している二世代家族では嫁と姑の関係や、祖父母と孫の関係も生じてきます。嫁と姑がうまくいかない、祖父母が孫をあまやかすのでしつけができないなどいった悩みも生まれるでしょう。また、それぞれの家族は親族、親戚ともつながっていますので、その付き合いに苦労することもあります。しかし、ここではそういったことについては一言も触れられず、夫婦の関係と親子の関係だけに絞られています。しかも、親子の関係よりも夫婦の関係のほうが先に書かれています。夫婦がいて子どもが生まれ、親子関係ができるのだから、この順序は、当たり前といえば当たり前ですが、この順序は親子関係よりも、夫婦関係がより大切だということを教えようとしています。

 家庭は結婚から始まります。結婚によって男性も女性もそれぞれの親から独立して新しい家庭をつくります。しかし、日本では、結婚は女性が家を出て男性の家に入ることと考えられてきました。それで「嫁入り」という言葉が生まれたのです。花嫁衣裳が白無垢であるのは、白い布がどんな色にも染まりやすいように、花嫁が実家を離れて、嫁いだ家のしきたりや家風に早く馴染むためであると言われています。けれども、聖書は「むしろ、男性に対して両親から離れるようにと教えています。聖書に「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(2:14)とある通りです。「男はその父母を離れ…」と言っても、それは両親と同居してはいけないとか、自分の両親を顧みなくて良いとかいうことではありません。これは、結婚した男性がその後も精神的に両親に依存していてはいけないということを教えています。もし、夫の親が妻についてとやかく言うようなことがあって、それをいちいち聞き入れるようなことがあったら、妻は舅、姑ばかりでなく、自分の夫からも苦しめられるわけで、それではまったく立つ瀬がなくなり、夫婦の間にヒビが入ってしまいます。男性は、夫婦の関係が自分の両親との親子関係に優先することを肝に銘じていなければなりません。

 それとは逆に、妻のほうが、自分の子どもとべったりになってしまって、夫への愛や尊敬を失ってしまうこともあるでしょう。自分の夫に失望した妻が、子どもに「あなたのお父さんは課長どまりだけど、あなたはもっとがんばって部長や専務になってちょうだいね」などと、言ってはいけないことばを子ども聞かせ、子どもにだけ期待をかけるようなことをしてしまうのです。これは不幸なことです。夫婦が互いに尊敬しあえないところで、子どもはが健全な人格を持つことができるでしょうか。日本人の家庭では「子育て」に重点が置かれがちです。夫婦が同じ気持ちで「子どものために」と尽くすのは決して悪いことではありません。しかし、あまりにも「子育て」だけに集中して、自分を育てることや夫婦の関係を育てることを怠っていると、やがて子どもたちが巣立っていったあと、夫婦に危機が訪れないとも限りません。日本ではそういうケースが多く、「熟年離婚」と呼ばれているそうです。

 「夫婦の関係が親子の関係に優先する。」これは、この箇所が第一に教えていることです。

 二、権威と秩序

 第二のことは、家庭には権威と秩序が必要だということです。

 現代は「権威」や「秩序」などといった言葉が嫌われる時代です。「権威」が乱用され、「秩序」の名のもとに自由が奪われてしまうことがあるためです。「権威の乱用」は間違いですが、だからと言って「権威」が存在しないわけでも、権威がいらないわけでもありません。権威がなくなれば秩序は保たれず、秩序のないところには、勝手気儘はあっても、ほんとうの自由がなくなってしまいます。

 神は、夫婦の関係では夫に権威を、親子の関係では親に権威をお与えになりました。ですから聖書は妻に対して「夫に従いなさい」、子どもに対して「両親に従いなさい」と教えているのです。そして、このことは聖書が書かれて二千年たった今も変わらない事実です。

 たしかに夫婦の役割分担はずいぶん変わりました。昔は、男性の仕事と女性の仕事が区別されていました。男性が台所に入るのは、はしたないこととされていました。しかし、今では、男性が皿洗いをするのを見てとがめる人はだれもいません。かえって「いいご主人ですね」と言ってほめます。夫も妻も職業をもっている若い夫婦の中には、子どもが生まれたあと、何年間かは妻が働き、夫が育児をして、それから、夫が働き、妻が育児をするというようにしている人もいます。しかし、それは、家事や育児の役割分担が変わっただけで、家庭における夫と妻の立場が入れ替わったわけではありません。英国女王の夫のように、妻の地位が高い場合もあるでしょう。また、夫の収入よりも妻の収入の方が多いということも珍しくはなくなりました。しかし、家庭においては、やはり、夫には夫としての権威が与えられており、妻には妻として従うことが求められています。

 これは、神が夫婦に与えられた秩序です。夫の権威は神から出たものです。ですから、「夫に従いなさい」という教えは神を信じ、イエス・キリストに従う信仰によって、はじめて喜びと感謝をもって守ることができます。信仰とは、自分が生きたいようにして生きることではなく、神の召しに従って生きることです。結婚はたんに男女が好きでいっしょにいるということではありません。結婚は神の「コーリング」(召命)です。神はある人を独身に召し、またある人を結婚に召します。人はその召しに応えて独身を貫き通し、また結婚を保ち続けます。「夫に従う」ということは、結婚という神の召しに応えて生きることに含まれているのです。

 コロサイ3:17に「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」とあります。そして、このことばはに続いて、「妻たちよ」、「夫たちよ」、「子どもたちよ」、「父たちよ」、「奴隷たちよ」、「主人たちよ」と呼びかけられ、それぞれに「主イエスの名によって」生きる生き方が求められています。「主イエスの名」ということばは、主イエス・キリストの権威を表わします。使徒たちは「主イエスの名」によって悪霊を追い出し、病気をいやし、福音を宣べ伝えました。使徒たちが主イエスの権威を身に帯び、主イエスの権威を表わすことができたのは、使徒たちがまず、主イエスの権威に従っていたからでした。ですから「すべて主イエスの名によってしなさい」と言うのは、イエス・キリストの権威に服従し、主イエス・キリストの権威を受け、主イエス・キリストの権威をあかしするために、あらゆることを行うことを意味します。「夫に従う」ことはキリストの権威に従うことの具体的な表われであり、妻はそのことによって、キリストの権威をあかしするのです。

 親の権威もまた、神から与えられたものです。十戒の前半は神への愛、後半は人への愛を教えていますが、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)という戒めは、神への愛と人への愛の両方をつなぐものです。聖書の時代、父・母は子どもにとって神を代理する者、家族の祭司でした。父親は家族に代わっていけにえをささげ、母親も神のことばと神への祈りを子どもたちに教えました。ですから父・母を敬うことは、神を敬い、愛することでした。子どもは親を敬い、親に従うことによって、親に権威をお授けになった神を敬い、主に従うことを学ぶのです。

 神はひとつひとつの家庭を、家族を愛しておられます。そして、その家族が守られるために、そこに権威と秩序を定めてくださいました。夫も妻も、親も子も、この神の権威に従い、その秩序の中に生きるとき、私たちの家庭、家族は、神の権威によって、秩序の中に守られていくのです。

 三、愛といたわり

 この箇所で教えられている第三のことは、家庭には愛といたわりが必要だということです。

 夫は妻に対して権威があります。しかし、それは、夫が妻を召使いのように扱って良いという意味ではありません。古代では、妻は夫の所有物のように扱われ、気にいらなくなった妻は夫から捨てられました。人格として認められていなかったのです。しかし、聖書は、女性が「人」として認められなかった時代に、神は「人」と「男」と「女」に造られた、男性も女性も同等の人格、互いに補いあうものであると教えています。聖書では、女性は大切に扱われています。律法によって、簡単には離縁されないように保護されています。聖書に「両親に従いなさい」とあるように、父親だけでなく、母親にも子どもに対する権威と責任が与えられています。十戒は「あなたの父を敬え」ではなく、「あなたの父と母を敬え」と命じています。箴言1:8には「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない」とあって、「母の教え」は「父の訓戒」と同等のものとされています。また箴言31章には「賢い妻」に対する賞賛のことばがしるされています。聖書にも、歴史にも、すぐれた女性の指導者たち、聖徒たちが大勢います。

 権威には責任が伴います。そして、その責任は愛といたわりによって果たされなければなりません。聖書は「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません」と教えています。ペテロ第一3:7に「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです」と教えられています。男性も女性も人として同等です。しかし、男性と女性は同じ強さを持っているわけではありません。聖書は女性のほうが「弱い」と言っています。日本で百歳以上の人が47,756人もいらしゃいますが、そのうち女性は41,594人で全体の87.1パーセントを占めています。ほんとうに女性のほうが「弱い」のかなと思ってしまうこともあります。男性にも女性から見て弱いところがいっぱいあるでしょう。家の中で威張ってはいても、外に出るときちんとしたことが言えない、人の誘いにやすやすと乗って無駄な買い物をしてしまう、大切なことになかなか決断できないなどといったことかもしれません。しかし、妻は、こうした夫の弱いところを良く知り、理解して、それをカバーしようとします。ところが、男性というものは、女性の弱さをなかなか理解できず、自分の要求だけを押し付けていく傾向があります。聖書が、男性に女性の弱さを理解するようにと教えているのは、男性が人の弱さを理解することが少ないからかもしれません。男性にとって大切なことは、愛といたわりに裏打ちされた権威を持つことです。

 どうやって愛といたわりを表わすか、それはそれぞれの夫婦によって違ってきます。日本ではこうしている、アメリカではこうしている、みんながそうしている、などといったことに振り回される必要はないと思います。妻に対して「主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」と教えられているように、夫に対してもまた「主にある者にふさわしく」その愛といたわりをあらわせば良いのです。エペソ5:25には「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」と教えられています。イエスが教会のために命を投げ出したように、夫は妻のために命を投げ出すことができるかと問われています。キリストにあって妻を愛することは、キリストへの愛と献身なしにできることではありません。大切なのは主イエスへの信仰です。

 子どもに愛といたわりを示す方法について、聖書は「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです」と教えています。ここで「子どもをおこらせてはいけません」と言われているのは、子どもが大声で泣いたり、わめいたりしないように、何でも言うことをきいてやるということではありません。そんなことをしたら、こどもは、泣きさえすれば、わめきさえすれば何でも欲しいものが手に入ると思ってしまいます。「子どもをおこらせてはいけません」というのは、子どもを叱ってはいけないということではありません。「おこらせる」という言葉は、「故意に挑発する」、「いらいらさせる」という意味の言葉です。親が子どもを叱るとき、それが原則を持ったものでなく、親の気分でそれをしてしまうと、「きのうは叱られなかったので、なぜ、きょうは叱られなければいけないの?」「お兄ちゃんは叱られないのに、なぜぼくだけ叱られるの?」などと訳が分からなくなって、子どもの心は混乱してしまいます。叱っても、何の効果がないばかりか、子どもが「気落ちしてしまう」のです。「気落ちしてしまう」というは、「どうせぼくは何をやっても叱られてしまうんだ」と子どもに自信をなくさせることかもしれませんし、親の言動が首尾一貫していないため親に対してがっかりしてしまうことかもしれません。そして、それが、神の愛への疑いや神のことばへの不従順につながらないともかぎりません。子どもが何かやらかしたとき、落ち着いて、それを正しく扱うことは難しいことです。しかし、神の助けによってそのことに励みましょう。

 私たちはみな罪びとですから、世の中には、完全な夫婦も完全な親子もありません。どの家庭にも欠けがあり、破れがあり、重荷があります。だからこそ、神への信仰が必要で、主に頼って励むことが必要なのです。主イエス・キリストを、家庭のかしらとして迎え、常に、その助けを求めましょう。主イエスはたんに「こうしなさい」と命令を与えて、あとは知らん顔をしておられるようなお方ではありません。主が命じられるとき、必ず、そこにはそれを成し遂げる力が約束されています。主の助けが伴います。それを信じ、きょうのみことばに従っていきましょう。

 (祈り)

 主キリスト、イエスさま、あなたはすべての家のかしら、すべての食事の見えざる客、あらゆる会話の静かなる聞き手です。私たちは、あなたが人生の主であることを信じた者たちですから、私たちの家庭生活においても、あなたを主としてお迎えします。破れのある家庭をいやし、欠けのある家庭を満たし、主にを負う家庭に伴ってください。私たちの家庭を、あなたのお名前のゆえに、権威と秩序、愛といたわりのあるところとして立て上げてください。あなたへの愛と服従をもって祈ります。アーメン。

10/2/2011