御言葉を宿していますか

コロサイ3:16

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3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

 今年の年間聖句にはコロサイ3:16から「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」という部分を選びました。どの教会でも、こうした年間聖句や、教会の目標などが礼拝堂に掲げられたり、週報に載せられたりします。ところが、年度のはじめに、掲げられた年間聖句やゴールが、フォローアップがないため、それが礼拝堂の飾りだけで終わることが多いようです。しかし、わたしたちは年間聖句を飾り物にはしたくありません。みんながそれをしっかりと受け止め、教会がそれによって導かれるものとなりたいと思います。今年の年間聖句については、1月8日にすでにお話ししていますが、この時、もういちどお話しし、今年の残り数カ月も、この年間聖句を心に留め、それを実行していきたいと思います。

 一、御言葉を根づかせる

 「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。」この御言葉の「宿る」という言葉には「誰かといっしょに一つの家に住む」という意味があります。日本語的に言えば、「ひとつ屋根の下に住む」ということになるでしょう。家族が一緒に生活する親密な関係を描く言葉です。聖書では、この言葉は、神が人ともにいてくださることや、聖霊が信じる者のうちに宿ってくださることを表わすのに使われています。

 しかし、イエス・キリストを信じるまでは、わたしたちは聖霊ではなく、罪を宿していました。ローマ7:17-20では「わたしの内に宿っている罪」という言葉が繰り返され、罪が人の内面に「棲みついて」離れない様子が描かれています。人は棲みついた罪を自分の力で追い出すことはできません。それで、ローマ人への手紙を書いた使徒パウロは「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ7:24)と嘆いています。しかし、この嘆きは、イエス・キリストによって勝利の歓声にかわります。なぜなら、イエス・キリストを信じる者には、罪にかわって聖霊がその人のうちに「宿り」「棲みついて」くださるからです。そして、聖霊が宿り、棲んでいてくださる人に御言葉が「宿る」のです。

 この「宿る」という言葉に似た言葉に「根ざす」「確立する」という言葉があり、コロサイ2:6-7に使われています。こう書かれています。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」イエス・キリストを信じる信仰が、植物の苗にたとえられており、それが根づき、大きく育って、収穫の感謝にいたる様子が描かれているのです。そして、信仰が根づき、確立するためには、信仰者のうちに御言葉が根づき、確立しなければならないのです。

 わたしが以前奉仕していた教会の近くに、新しく公園ができました。そこは個人が所有する土地だったのですが、遺族がそれを市に寄付し、市が、そこにあった古い建物を取り壊して公園にしたのです。わたしはいつもその前を通って教会に通っていたので、公園らしくなっていく様子を毎日観察することができました。公園ができあがってから、芝生の種が蒔かれました。そして、芝生の区画に柵が設けられ、看板が立てられました。そこには「芝生が establish するまで、中に入らないでください」と書かれていました。植物が根づくことが“establish”という言葉で表現されていました。

 芝生は、人に踏まれても大丈夫になるまで保護が必要です。そのように、クリスチャンの信仰も、それが確立するまで大切に育てられる必要があります。信仰は御言葉から来るのですから、聞いた御言葉が心に宿り、そこに根づくようにしなければならないのです。わたしたちは、植物が大きく育ち、花を咲かせ、実を実らせることを期待して、それを植えるのですが、どんな植物でも、きょう植えたら明日花を咲かせ、数日のうちに実が実るということはありません。それ以前にしっかりと「根づく」ことが必要です。根は土に隠れていて、人々の目には触れませんが、根が深く降りていかなければ木は高く伸びることはなく、根が広く張るのでなければ、木はその枝を伸ばすことはできないのです。「御言葉を宿す」というのは、植物が「根づく」ことと同じように、人目に触れない、地味な信仰の行為です。しかし、このことがしっかりできていなければ、決して信仰の成長も実りもないのです。このステップをスキップしたり、おろそかにするしたりしないようにしたいと思います。

 二、神の言葉を根づかせないもの

 では、「御言葉が根づく」ためには、具体的に、どうしたらよいのでしょうか。イエスは、そのことを「種まきの譬」で教えておられます。「種まきの譬」は、よくご存知のように、農夫が畑に蒔いた種のうち、あるものは道路や石地、また茨の中に落ちて実を結ぶことはなかったが、よく耕された畑に落ちた種は、そこに根をおろし、成長して、多くの実を結んだというものです。この譬から、御言葉を宿すとは、私たちの心を畑地のように柔らかくして、御言葉を受け取り、御言葉の持ついのちを育むことだということが分かります。そのためには、御言葉にふさわしくないものに注意し、それらを避ける必要があります。御言葉を宿すために避けるべきもの、それは「道端」、「石地」、「茨」で表わされています。

 第一に「道端」について、イエスはこう言われました。「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。」(マタイ13:19)「道端」は神の言葉をほんとうには聞こうとしない態度を意味しています。信仰者であれば毎日聖書を手にとって読み、毎週、教会で聖書を学び、説教を聞きます。しかし、神の言葉を目で読み、耳で「聞」いても、それを心で「聴」いていないということがあります。日本語で「きく」という言葉には「聞」と「聴」のふたつの漢字をあてることができますが、神の言葉に対しては、「心」という文字が入った「聴」という漢字をあてるべきでしょう。神の言葉は聞き流してよいものではなく、注意深く耳と心を傾けて聴くべきものなのです。

 イエスは、「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば…」と言われましたが、ここで言う「悟り」は仏教で言うような意味での「悟り」ではありません。神の言葉を聞いてすぐにそれを理解し、その真意を汲み取ることができれば、それは素晴らしいことですが、一度聞いてすべてが分かるという人は誰もいないでしょう。たとえ、神の言葉のすべてを理解することができなくても、分からないことが残ったままでも、それを神が自分に語りかけておられる言葉として受け取ることが、「悟る」という言葉で示されているのだと思います。

 「道端」、それは多くの人や動物によって固く踏み固められています。そのように、わたしたちの心は、自分自身の信念や体験、また、この世のさまざまな情報や教えによって、すでに踏み固められてしまっている部分が多くあります。すでに踏み固められた偏見や自分の主張によって神の言葉を判断してしまうなら、そうしたところには神の言葉は根づかず、宿らないのです。

 第二に「石地」について、イエスはこう言われました。「石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」(マタイ13:20)「石地」は「道端」と違って、御言葉を受け入れています。しかし、それは表面だけで、内面には御言葉が根をおろすことのできない固いものがあるのです。

 ほとんどの人は、聖書の言葉を喜んで聞きます。聖書には、人々の心の求めにこたえることのできる、あらゆるものが含まれているからです。それは、文学としても、歴史としても、また、人生の処世訓として学んでも興味のあるものです。先週の夕礼拝で紹介された『武士道』という本は、クリスチャンである新渡戸稲造によって英語で書かれたものです。最近の翻訳は、岬 龍一郎という企業研修の講師をしている人によって PHP研究所という、おもにビジネス関係の書物を発行している出版社から出ています。聖書やクリスチャンの著作は、一般企業の研修会でも使われており、熱心に学ばれています。たとえ、そのような形で神の言葉を聞いたとしても、人は何らかの真理に触れることができます。それによって啓発され、感動し、また、その一部を実行するようになるでしょう。しかし、ほんとうに神の言葉に聴くというのは、それ以上のことなのです。わたしたちの内側にある固い石地を、神によって砕いていただき、神の前に謙虚になって、罪の赦しを乞い、イエス・キリストを救い主、また「主」として心に、生活に、人生に迎えいれるということです。神の言葉がそのようなものとして聴かれるとき、はじめて、それはわたしたちのうちに根をおろし、宿るのです。

 三、神の言葉の成長を妨げるもの

 蒔かれた御言葉の種は、道端では芽を出すことはありませんでした。また、石地では芽は出たものの、根をおろすことができませんでした。第三の「茨」の中では、芽を出し、根をおろしましたが、茨の勢いに負けて、それ以上は成長しませんでした。イエスは、この「茨」について、こう言われました。「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。」(マタイ13:22)ルカ8:14には、「世の心づかい」と「富の惑わし」の他に「快楽」が付け加えられています。

 「富の惑わし」と「快楽」が神の言葉に聞き従うことからわたしたちを引き離すことは、誰にもよく分かります。しかし、わたしたちを神の言葉から引き話すのは「富の惑わし」と「快楽」だけではありません。「世の心づかい」という大敵があるのです。「自分にはそれによって誘惑されるほどの財産は無いし、酒や異性に入り浸るような生活はしていないから大丈夫だ」という人であっても、日々の生活や仕事で、心配ごと、恐れ、思い煩い、不平不満などのない人はおそらくないでしょう。この世に生きる限り、どんな心配ごともなく生きるということはできません。毎日の生活にはさまざまなプレッシャーが押し寄せてきます。神の言葉は、わたしたちに思い煩いを神に委ねるようにと教えるのですが、神への信頼を見失ってしまうと神の言葉は、「世の心遣い」という「茨」の中で窒息してしまうのです。たとえ、それが良いと思えることや、決して悪いことではないことでも、自分のしていることが自分の心を占領し、御言葉を聞き、学び、覚え、黙想し、実行する時間さえも奪ってしまうなら、たとえ良いことや悪くないことでも、御言葉を塞ぐ「茨」になってしまうのです。

 「御言葉を宿す」ということは、神の言葉がすこしばかり芽を出せばいいとか、かろうじて生き残りさえすればよいということではありません。コロサイ3:16は「キリストの言葉を、あなたがたのうちに<豊かに>宿らせなさい」と言っています。神がわたしたちにお与えくださる力や恵みはけっして小さなもの、貧弱なものではありません。それはいつでも大きく、力強く、豊かなものです。

 わたしたちはこの豊かな恵みを求めます。それを求めるかぎり、わたしたちのうちに「道端」や「石地」、また「茨」があったとしても、あきらめることはありません。聖書には次のような言葉が数多くあります。「あなたが霊を送られると、彼らは造られる。あなたは地のおもてを新たにされる。」(詩篇104:30)「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。」(エゼキエル書36:26)「いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない。」(イザヤ書55:13)「種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:6)

 これらは皆、イエス・キリストによって与えられる救いを指し示す預言です。わたしたちが神の恵みの約束を信じ、悔い改めて祈り求めるなら、踏み固められた道端を柔らかい地とし、石地から石を取り除き、茨を一掃する、神の力あるわざ、恵みのみわざを見ることができるのです。たとえ、今まで、御言葉を宿すことに心を向けられなかったとしても、今からでも、もういちど、この聖句に立ち帰りましょう。御言葉を豊かに宿し、それに満たされ、生かされるというゴールに向かっていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは、あなたの御言葉を豊かに宿したいと願っています。それを妨げる罪や思い違い、不従順や不信仰、また、さまざまな誘惑から、わたしたちをお救いください。そして、現状に満足することなく、あなたの恵みの豊かさを追い求めるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/3/2017